序幕
嵐の夜のことだった。
一人の女が暗い神殿の中へと入って行く。
頭から被っているローブはずぶ濡れで、女の歩いた後には水の跡が残った。
女は、腕に赤子を抱いていた。
ボロ布に包まれた赤子は、女と同様ずぶ濡れだったが、泣き声一つ上げてはいない。
赤子は、死にかけていた。
それでも女はしっかりと腕に赤子を抱きかかえ、神殿の奥へと進んで行く。
女の顔には、疲労と悲愴の色が浮かんでいたが、その両の眼には、怒りと憎悪の炎が宿っていた。
石造りの神殿には、灯り一つなく、湿気とカビの臭いが充満していた。
所々壁が崩れて、外から雨風が入り込み、水溜りを作っている。
訪れる者もいないように見えるほど廃れているが、壁際にできた暗がりに蠢く何かがいた。
それも一つではない。
よく見ると、そこかしこに人の形をしたものが幾つも身を潜めている。
中には、動かぬ骸となっているものも多くあるようだったが、
死臭は、雨風によって一時的にでも掻き消されているようだった。
それは、この国で生きる場所を失った者たちの末路でもあった。
しかし、女は、それらの存在には目もくれず、真っすぐ神殿の奥を目指す。
そこに自分の求める最後の希望があると信じて……。
ここは、世界の最西端にある見捨てられた<闇の神殿>。
邪神の中でも最高位の存在<イーヴァル>を祭った神殿だ。
<イーヴァル>は、世界中のありとあらゆる負の感情や厄災を一心に受ける器とされ、闇の神となった。
そして、<邪眼>(イビルアイ)と呼ばれる目を持っており、その眼に映ったもの全てを破壊したり、思いのままに操る事が出来るため、壁画や書物などには、常にその両眼を包帯で巻かれた姿で描かれる。
そのあまりにも危険な力は、世界を破滅に導くとされ、他の神々の手によって封印されている。
しかし、その封印の力が解けた時、世界は、暗黒の時代を迎えると言い伝えられている。
女が神殿の最奥に辿り着いた。
そこには、両眼を包帯で巻かれ、背中に黒いコウモリのような翼と、頭に牡牛のような角を持つ<イーヴァル>神の巨像が置かれていた。
女は、抱いていた赤子を祭壇の上に置くと、膝をつき、一心に祈りを捧げた。
我が子を生かす為、母親である女は、邪神の力を我が子に分け与えてくれるように頼んだ。
それは、<反魂の術>。
この世で最も禁忌とされる、魂の輪廻を乱す術だ。
しかし、女の心は、〝復讐〟という名の炎が燃えていた。
外で雷鳴が響いた。
まるで女の祈りに邪神<イーヴァル>が答えたかのように、
崩れた天井の隙間から雷光が差し込み、祭壇に寝かされていた赤子の左目に落ちた。
女が顔を上げた時、赤子は、息を吹き返した。