有史以前の獣たちがネオテニー化され幼獣のままの姿で彼女らと共に冒険へ
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栗色の髪をした女の子が黄色い羽毛に包まれた鳥のヒヨコのような生き物を手首に止まらせている。そのレモンのような黄色さは、人々がヒヨコと言えば必ず連想する「想像上の色」だ。純粋に黄色いヒヨコはまず実在しない。そして、このヒヨコも現在は棲息しないはずの「鳥の祖先」の幼獣、つまりヒヨコだ。
女児の手首を掴むヒヨコの足先には猛禽類のような獰猛な爪が備わっている。だがヒヨコは爪を立てずにやさしく留まっている。
ヒヨコは、ときどき首を縦に振りながら鋭い眼光を宿している。前方数キロ先まで見通せる瞳だ。その瞳をT字状に結んで垂直に下りた先に鼻孔と一体化したくちばしがある。くちばしが小さな一対の前脚と組み合わさって獲物の肉を割くことができる。女児は自由になっている側の手でヒヨコの羽毛を撫でて、その恐ろし気なくちばしにもやさしく触れる。
磯に棲息し、甲殻類や貝類を好む肉食魚、石鯛にも似たくちばしだが、女児が指を合わせると、人慣れしたインコのように丸っこい舌先を転がして彼女の指先を舐める。羽ばたいて空を飛ぶ翼を欠いたヒヨコは、鳥の子供ではない。
鳥ではないが鳥のように――猛禽類のように高く澄んだ声で啼く。敵がいない彼らならではの、どこまでも響く声だ。
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敏は、二年前、「大空振」が火災旋風を関東一円に巻き起こした襲った夜半、炎に包まれた部屋で目を覚ました。斜めに傾いだ客室。割れたはめ殺し窓ガラス。頭部から顔面が燃えるように熱い。ガラス窓の隙間から上半身の至る箇所に傷を負いながら、転落する。目もほとんど見えていない。
翼竜が貨物クレーンのように敏の身体をピックアップして運んだ。そのとき、敏は自分が翼竜に救われたと感じていない。クレーンのアームに引っかかったからホテルの二十階から落下せずに済んだと感じた一瞬があった。
しかし、彼が宿泊していた三十数階建てのホテルの建屋全体が南側に倒れたのだ。屋上に設置されていたクレーンなら南側に落下していたはずだ。クレーンは敏に重力加速度を与えながら、数メートル浮上した。敏は、巨大な翼から生み出された風力も感じた。ホテルのあらゆる構成部材が凄まじい轟音を発しながら六十メートル下の地上に崩れ落ち、膨大な砂埃を上げる中、敏は翼がはためく音を聞いたと思う。
なぜ、六千六百万年前に滅亡した翼竜がこの世に棲息しているのか。そもそも「大空振」自体が2030年ごろから世界に出現しだした新しい大災害である。火球との関連が研究されているが、地震との関連も強そうだ。地殻が揺れる代わりに空気が揺れる。火山の噴火や核実験に伴う空気の振動を指す言葉が空振であった。空振の異常に規模が大きいものが「大空振」と呼ばれているが大空振が発生するたびに火災旋風などの二次災害が起き、観測所などの設備が被害を受け、大学や自衛隊、警察などの研究組織が戦意を喪失し、大空振の研究がまったく進んでいない。AIの発達が人類から意欲を奪った。地震でさえ、AIがかなり高精度な予測を行い、同じ規模の地震が発生しても、その被害(人的および金銭的被害)は2011年の大震災発生時の10分の1以下に抑えることができるようになった。
こうなると、人は闘うべき敵を失い、戦意を喪失する。それが2025年以降の日本の―そして世界の―文明の心理的衰退を招いていた。AIは人類の知らない世界でフルに機能して結果を出しているが、いわゆる「ブラックボックス化」が進み過ぎてしまい、AIの改良や更新を含むメンテナンスも人間のエンジニアの介在を要さずにAI自体が自律的に実行している。2020年から人類を苦しめた新型ウィルスの流行も、グローバルな心理的衰退を促進した。
その裏で、AIの誤動作も往々にして発生し、「AIの発狂」と呼ばれる現象が起きて、人類を我に返らせることもある。だが、AIが自律的に回復してしまうので、人類が闘志を燃やす必要はまず生じない。
大空振は、大地震が起きると予測されていた地域で頻発している。ゆえに、大地震が大空振を引き起こしているのだと唱える学者もいるが、AIは何の説明も与えていない。前例がない事象には、太刀打ちできないのがAIの定めだからだ。
敏は、ホテル付近の路上で倒れて意識を失くしているところを救助され、千葉市花見川区の総合病院へ運ばれた。総合病院の内部も内壁が崩れ、医療機器が横転するなど、被害を受けていたが、敏が運び込まれた大空振直後は患者数も少なく、まだ医療崩壊には至っていなかった。
そんな中、意識不明の敏は集中治療室に搬入され、手厚い治療を受けた。だが、敏の意識は別の場所にあった。病院ではなく、「侵略者」たちの施設に収容されていた。無数の翼竜が侵略者に飼われていて、関東一円から被災者を運んで来ていた。その様子を見て、自分も多元宇宙を駆ける「流浪者」の一員として大きな鳥を飼いならしていた記憶が脳裏をよぎった。
侵略者は、霊長類ではない。恐竜が進化して知性を帯びた緑の肌の生命体だった。その緑の肌を砂漠民のような衣服に包んでいる。彼らの一人が敏に音声を介さずに話しかけてきた。「今の地球では、重力が強すぎて古生代の翼竜は飛行できない。ゆえに、私たちが龍と呼んで飼いならしているこれらの翼竜は改造を施されている。―そう、君たちヒトの表現を借りればサイボーグなのだ。
「私たち侵略者の存在に何らかの形で気づいていて敵意を持たない人間たちを可能な限り救い出すことにした。古市敏、あなたは、日本と限られたわずかの国にしかいない特殊な人たち、『虹の一族』とも呼ばれる『流浪者』の一人であり、かなり深いところで私たちの存在を悟っていた。
「だから、‟本震“が襲う数分前に龍を寄こして救うことにした。私たちが救った人間たちには、私たちの存在を他の人間たちへ直接知らしめるう役割を担ってもらわなくてよい。なぜなら、私たちのことを知らしめる行動は徹底的妨害を受けるだろう。『支配者』たちによって」
§ § §
敏は侵略者たちから、さまざまな秘密を聞かされた。支配者は、人類への支配を強化することを狙いに、私たち侵略者と同じように恐竜やその他の古生物を甦らそうとしているが、そういった古生物を幼獣から成体へと育てるための唯一の方法を拒否している。それは「種を越えた愛」なのだ、と。支配者たちは「種を越えた愛」を認めるわけにいかない。認めれば「支配」が崩れるからだ。
敏は、病院の医師たちには昏睡患者と見られていたが、実は上記のように意識が別の場所にあり、その意識の中で自己を自己として認識していた。その状態にあったとき、敏は自分に愛しい妻子がいることを忘れてはいなかった。だが治療を受けているうち、記憶がどんどん薄れていく。
あるとき、侵略者の一人がこう言っていた。「私たちは、あなたの命を危険から守った後、あなたを支配者に引き渡すことになります。あなたは怪我を負っていないので本来、治療の必要がありません。でも病院では治療の名の下、あなたの記憶が消されることでしょう。医師たちが悪意を持って記憶を消すのではありません。支配者のやり方は巧妙です。
「あなたが記憶を消された方が当面は安全かもしれない。『当面』というのは、私たち侵略者が支配者と雌雄を決するときまで、と言う意味になるかもしれませんが…。なお、私たちは好き好んで侵略者と自称しているわけではありません。支配者から見たら侵略者となるだけで、『時間旅行者』と名乗るのが正しいかもしれません。ただ、現生人類が支配者に支配されている以上、論理的混乱を避けるために侵略者と暫定的に名乗っています。
「あなたの記憶を蘇らせるには、幼かった娘さんに話していたお伽話がキーになるでしょう。私たちにとって、古市敏さん、あなたは特に重要な人物です。だから何としても、あなたの命を守る必要がありました。二年ほどは、私たちがあなたと直接接触することはなくなりますが、お力を借りる日がすぐに来ます」
§ § §
侵略者の予言通り、「治療」が進むにつれて記憶がますます希薄になり、退院する前に、敏は自分の家族構成も、自分の名前も、自宅への道順も、自宅の住所も電話番号も、自分の経歴も、自分がいったい誰なのかも、その他自分自身に関するあらゆる記憶をすべて忘れてしまった。
ただ、支配者と侵略者がこの世にいることは当然のように憶えていた。退院後は、侵略者と繋がりがありそうな職に就くことになり、支配者に軽い敵意を覚えていた。先日も路上で自分を呼び止めようとする男がいたような気がする。あの男も支配者の回し者だろうと警戒心を抱いている。あの男は、敏の三十年来の友人なのだが、まったく記憶にない。