第1話 プロローグ
担任が教室に入ると、誰ともなくざわざわし始める。
それは、夏休みが終わったからでも、担任に何かあったからでもない。担任の後ろに立って、静かな微笑みを浮かべている、西野結愛に対する反応だった。
茶髪よりは赤に少し近い特徴的な髪色を持った彼女は、その髪と同じ色の大きな瞳で教室と見回すと、俺とぴったりと目が合う。彼女の眼差しが一瞬、驚きとも喜びとも言えない複雑な感じに変わった気がしたが、そんな感じはすぐなくなり、優しい笑顔に戻った。
「西野結愛です。まだ引っ越したばかりで、色々と慣れていない部分も多いのですが、これから宜しくお願いします」
彼女は祖母と同様に軽くお辞儀をし、俯いたせいで肩にかかった髪を耳に掛ける。そのちょっとした仕草に、男たちの歓呼の声が上がる。
「静かに」
担任はそう言い、結愛に窓際の空いている席を案内した。席まで歩いて行く真由の歩調に合わせ、クラスの男全員の視線が移動する。彼女もそれに気付いているはずだが、そういうのは全く気にせず、堂々と足を運び、微笑みを保ったまま席に座る。
純白のような肌は滑らかで、鼻峰は調度よい丸さで、見る人によっては可愛くも、綺麗にも見える。
ここまで可愛いと、ちょっと注目されたからといって気が張ったりはしないはずだったが、俺はその堂々たる行動に妙な違和感を覚えた。その正体を探ろうと、俺は二週間ほど前のことを思い出す。
「あの……隣に引っ越してきた西野です」
まだ春学期が終わる前のある日、インターホン越しに知らないお婆さんの声がした。
うちはかなり人里離れたところにあって、隣といえばあの、何年も人が住んでいない古い一戸建てしかなかった。
そう思いながら、俺はインターホンの画面から顔を確認する。優しそうなお婆さんの顔が画面いっぱい映っている。親はまだ仕事中で家には俺一人しかいないので、不審な者なら居留守をしようと思ったが、こんなお婆さんならきっと大丈夫だろう。
「はい。今出ます」
1階に降りて玄関を開けると、耳元に響き渡る蝉の物凄い泣き声がと、眩しすぎる夏の日光に思わず眉を寄せてしまう。
お婆さんはそんな俺と目が合うと、地合いに満ちた笑顔で軽くお辞儀をした。
「初めまして。西野と申します。粗末なものですが、良かったらどうぞ」
渡されたのは、お土産店とかに良く置いてあるお菓子類の手土産だった。
「わざわざありがとうございます。私は|桜谷と申し…」
自己紹介をしながら顔を上げると、お婆さんの後ろに立っている少女と目が合う。
肩の下まで伸びている、茶髪に近い赤色の髪を持った少女は、春の暖かさを含んだ風に髪をなびかせながら、恥ずかしげに微笑んでいた。容姿端麗、と、普段は使うこともない言葉が思い浮かぶ。 星が煌めくような大きな瞳は神秘な雰囲気を醸し出していて、俺は思わずはっと息を吸ってしまう。
俺の視線に気付いたのか、お婆さんはその少女に向きながら話した。
「孫娘の結愛です。ほら、結愛ちゃん。ちゃんと挨拶しなさい」
結愛と呼ばれた少女は俺と再び目が合うと、ぎこちない笑みを浮かべた。
「初めまして。西野結愛です。えっと、本日から隣で暮らすことになりました…」
その声はどことなく弱く、震えていて、その簡単な紹介のために、彼女がどれほど頑張っているのかが伝わってくる。
「桜谷、夏樹です。これから宜しくお願いします」
それが俺と結愛が交わした、堂々とは若干距離の離れた、初めての挨拶だった。