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第八章

 フィンスターの街に着いたとき、辺りは夕暮れだった。それでもまだ路上は活気に満ち溢れていて、アレスは運転手に車をフィンスターの病院の前で止めさせると、運転手がそうする前に荷物を乱暴にトランクから取り出して、何も言わずに病院のポーチを駆け上がった。受付で身分証を出すと、受付の女性は慌てて立ち上がり、イディの病室へとアレスを案内した。病室の外では座り心地の悪そうな木の長椅子にオットーが腰掛けていて、目の下の隈でオットーがろくに寝ていないことが分かった。


「アレス?」


 オットーは足音を聞いて顔を上げると、アレスの姿を認めて驚きのあまり椅子から飛び上がった。どうしたんだ、こんなところで。そう聞きながらオットーがアレスの片腕を掴んだとき、アレスはなんとも言えない安堵感に包まれていた。イディがこの扉の向こうにいる。アレスはオットーに母親に関する情報は伝えないまま、とにかくイディに会いたいんだ、と言った。


「入ってくれ」


 オットーは真剣なアレスの顔を見て、すぐに扉の方へ向かうと、アレスを通すために扉を開けて横に退いた。個室は粗末で、天井も壁も真っ白く、アレスは例の白昼夢を思い出してめまいがするような気がした。質素なベッドの上に、イディが横たわっている。目は閉じられ、きちんと手当てを受けたせいか顔は綺麗なままだったが、首元までブランケットに包まれていたので、その下で何が起きているのかはアレスには分からなかった。


「腹部と胸部に三発だ。心臓は大丈夫だったが内臓はやられた。見つかるのが遅くて出血が酷かったんだ」


 オットーは数歩離れたところからアレスに簡潔に説明すると、顔を伏せた。


「すまなかった。突然のことだったんだ」

「構わないよ。どうせこいつが勝手にやったことなんだろう」


 アレスは感情が遠のいていくのを感じていた。真っ白な部屋で、真っ白なシーツにくるまったイディは、死んでいった母親にそっくりだった。威勢良く飛び出してきたのは良かったが、相手がこうでは話をすることもできない。アレスは近くにあった椅子に座ると、真ん中で丁寧に分けられたイディの前髪に触れた。かろうじて胸が上下しているのが分かった。


「手術自体は上手くいったんだが」


 沈黙に耐えられないとばかりにオットーが付け加えた。でも、と言ってしまって、後悔したのか最悪の結末を想像したのか、なにかを振り切るように頭を振った。アレスはイディの髪を撫でていた手を頰に移すと、静かに口を開いた。


「オットー、君は我々の神を信じるかね」


 突然のことに、オットーは何も言わずにアレスを凝視する。アレスはイディを見つめたまま、オットーに言葉を向けながら、自分自身に確認するような口ぶりだった。


「俺は…そこまで真面目な人間ではないから」


 オットーは慎重に言葉を選んで言った。実際、オットーはお世辞にも信心深いとは言えない男だった。だからといって国教を冒涜していたわけでも、下らないと感じていたわけでもなかったが、ただただほかにやりたいことがある、といった様子だった。祈りを捧げるくらいならば、ボール遊びに興じたい青年だったのだ。アレスは思わず少し笑って、イディを撫でる手を引っ込めた。


「僕は信じないよ」


 続くアレスの言葉に、オットーは目を丸くした。突然どうしたんだ、とオットーが聞く。アレスは困ったように眉を下げて、わからない、と消えそうな声で言った。


「もう信じられないんだ。…母が死んでね。イディもこのざまだ。こんなときにどうして神を信じられようか」

「母親が? ヘレナさんが、か」

「うん。つい最近のことだ」


 オットーはなにを言うべきか分からなくなってしまい、黙り込んで床を見つめた。そもそもオットーはアレスやイディほど神の存在を重要視していなかったので、人の死が神の命であるという説については、昔から納得がいっていなかった。神が存在しない、と思うのではないが、そこまで力を持っているとは思えなかった。アレスはオットーを見て、それからすぐに同じように視線を落とした。


「整合性がないんだよ。それがたまらなくなってしまったんだ。信じれば救われるというくせに、神は僕から大切なものばかり奪っていく。死が救いであるというくせに、僕にはなんの救いもなかった」


 アレスは独りごちた。


「ここに来るまではね、もっと感情的だったんだ。我々の神は明らかに間違っているって。でもこうしてイディを目の前にすれば、祈らずにはいられないんだ。誰でもいい、とは思えない。助けて欲しいんだ、彼を。ひいては僕を」


 オットーは腕を組んだまま、何も言わなかった。アレスがこれほどまでに参っているところを見たことがなかったので、どうしたらいいか、ただただ分からなかったのだ。


「オットー、君は『イデア』を知っているかね」


 急に話題を変えられて、オットーは思わず身体を揺らした。少し考えてから、寄宿学校時代の知識を探す。確かどこかで聞いたことがある。


「プラトン哲学か」

「そう。『イデア』は認識できないんだ。でもそれは確かに存在して、世界にさまざまなものを投影している。でもね、だからこそこの世界に存在するものはほとんどがまやかしだと思うわけだ。ましてや『神』なんて、それ自体が偶像なんだよ」

「すまないが、あまり要領を得ないよ」

「我々が信じている神は本物の神ではないということさ」


 オットーは壁に寄りかかったまま、アレスの言葉の続きを待った。


「だったら僕が神になろうと思うんだ」


 アレスがそう言うと、イディが少し身じろぎをした。アレスとオットーは驚いて、揃ってイディの動きを見守る。イディがほんの数ミリだけ目を開いて、けほ、と小さな咳をした。瞬きをして、そこから突然大きな咳をしはじめ、思わず上体を起こそうとする。アレスは慌てて起き上がろうとするイディを抑え、オットーは扉を開いて看護師を呼ぶためにばたばたと部屋を出て行った。一通り咳がおさまると、イディは顔をしかめてアレスを見た。


「………アレス?」


 何度か目を瞬かせて、イディはようやく認識した、とアレスの名前を口にした。アレスはイディの両肩を支えてなんとかベッドに押し戻すと、そうだよ、僕だ、と呟いた。瞬時に右目から涙が溢れたが、アレスは表情を変えなかった。


「…どうして泣いているの」


 イディはブランケットから片手を出すと、アレスの頰に手を当てた。アレスはダムが決壊したときのようにぼろぼろと泣いて、イディに負担をかけないように覆いかぶさって泣いた。答えることができなかった。


「泣かないでおくれよ、アレス。ぼくがなにかしてしまったのかい」

「君は何もしていないよ。いや、こういうことになってしまったのは、君の行いのせいだけれど。でもね、神様が意地悪をしたんだよ」

「神さまはそんなこと、なさらないよ」


 イディは突っ伏したアレスの鳶色の髪を撫でて、優しい声で言った。アレスは余計に泣けてきて、ぐしゃぐしゃの顔を上げると、イディの目を真っ直ぐに見つめる。


「イディ、違うんだよ。神様は君を遠くに連れて行こうとしたんだ。僕はね、神様になんて祈らなかったよ。僕は僕が君を連れて帰るって、決めたんだ。そうしたら君の目が覚めたんだよ」

「…じゃあ、やっぱり神さまはアレスだったんだね」


 イディが屈託無く笑うと、医師と看護師を引き連れてきたオットーがやかましく部屋に入り、医師と看護師がアレスをイディから引き剥がして、何やらイディの身体を入念にチェックし始め、指示を飛ばしてさらに人員を要求した。アレスは数歩下がってオットーの隣に並ぶと、鼻をすすって、それでも断固とした口調で言う。


「これからは、僕が、僕こそが神様なんだ」


 自身の言葉に頷きながら、心配そうなオットーをよそに、どんどんと険しい顔になる。


「どうにか、しなくては」


 アレスは決心した。オットーにすれば、そのときからアレスの顔つきが変わったという。もともと大きな目が爛々と輝き、唇が狡猾そうに笑った。


 『イデア』をこの手に掴まなくては、とアレスは思っていた。

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