第七章
喪に臥すようにと言いつけられ、それから三日ほど暇をもらった。三日目に、父親は家の食堂にアレスを呼びつけると、豊満な体つきの女を紹介した。素朴で、ろくに化粧をしているところを見たこともない、歳の割にはいささか老けて見えた母親とは違い、猫のように吊り上がった目と、大きな唇が目立つ女だった。
「アレス、こちらがマリアだ。マリア、こちらが息子のアレス」
「はじめまして」
女は訛りのある声で言った。アレスには状況が理解できなかった。父親を見て、「どういうことですか」と率直に聞いた。父親はしばらくアレスを馬鹿にするように見てから、鼻を鳴らして頭を振った。
「いくら成人したといえ、その歳で母親のいない生活は寂しかろうと思ったがゆえのことだ」
「新しい女を迎えると?」
「口を慎みなさい」
父親がテーブルを叩いたが、アレスはひるまなかった。
「お言葉ですが、父上、母が亡くなってから何日も経っていないのですよ。あまりに軽率ではありませんか」
「マリア、この通りだ。すこし気難しい子でね。少し席を外してくれるかな」
マリアは無言でそれを承諾すると、にっこりとアレスに妖艶な――と本人は思っているのだろうが、アレスには薄汚いほかなんでもなかった――笑みを浮かべてその場を去った。食堂を扉が閉められると、父親は立ちたがり、窓際まで歩いて行った。アレスのことを見ることはなかった。
「お前も男なら分かるはずだ。最愛の妻を失って、その後で、わたしは孤独に生きていかねばならないのか?」
「分かりかねます。少なくとも僕はそのようなことはしない」
「色気のない息子だよ。わたしとて人間なんだ、分かるかね」
「分かりません」
アレスが語気を荒くして言い放つと、父親はこちらを憤怒の表情で振り向き、つかつかと歩み寄ってテーブルに大きな音を立てて手をついた。
「全て決まったことだ。マリアはお前の新しい母親となる。そのように丁重に扱うように」
「ふざけるのも大概にしてください。僕は認めない」
パン、と父親がアレスの頰を叩く。
「お前にどんな権利があってそのような口を利く? ヘレナの死がわたしのせいだとでも言うのか? あれは神の思し召しだ。ヘレナがいかに苦しんでいたか、息子のお前ならば分かるだろう。ヘレナは死によって救済されたのだ。だが、この世界に残されたわたしはどうだ?」
アレスは湧き上がる殺意を飲み込むと、父親を睨め付けた。
「父上のお立場がどうであろうと、僕は認めません。それ以外に言うことはない」
なおも食い下がろうとする父親を置いて、アレスは食堂を出る。力任せに食堂の扉を閉めると、階段を上がって自室に入り、真っ先に目に入ったのが飾られた偶像だった。自分が購入したわけではない。メイドが勝手に置いたのだ。アレスは偶像を掴むと、しばらくそれを凝視した。国教の神は、それまでの人々の罪を一身に背負い、死んで神になったという。
馬鹿馬鹿しい!
アレスは無意識にイディの姿を探していた。叩こうが殴ろうが、無抵抗なイディ。自身に従順で、疑いもなく、ただただそこにいる男。彼すらもいなくなった部屋で、アレスはついに膝から崩れ落ちた。何もかもが間違っている。『イデア』は正しかった。
持っていた偶像を力任せに床に叩きつけると、偶像の首が折れて跳ねた。
偶像だ。そうだ、この国の宗教はまやかしだ。アレスは熱に浮かされたように顔を真っ赤にして立ち上がると、後始末もせずに部屋を出た。フィンスターに行く必要がある。物音に驚いて部屋のそばまで来ていたメイドを捕まえ、アレスは血走った目で言った。
「フィンスターに行く。一番早く行ける方法を手配しろ。今すぐにだ」
メイドは狼狽えて、はい、と裏返った声を出して逃げるように去っていった。数時間以内には車の用意が出来て、アレスはまとめた荷物を車に積んでいた。父親がばたばたと屋敷から出てきて、どういうつもりだ、と叫んだ。
「あなたこそどういうつもりだ」
アレスは向き直って、低い声で唸った。
「もううんざりだ。お前のような男ばかりが生きながらえて。母さんなんかが死ぬべきじゃなかったんだ。イディだって。彼らはお前なんかよりよっぽど信心深いというのに、僕たちの神はそんなことも分からないほど馬鹿なのか?」
アレスがまくし立てると、父親が手を上げようとして、アレスはその腕をすんでのところで止めた。
「救いなどない。少なくとも、今の神による救いなど。ならば本当の神を探すしかないんだ。僕を、そして僕の大切なものをしっかりと守って、お前のような愚図を始末してくれるような神を」
ぎりぎりと締め付けられる片腕に、父親は蒼白になっていた。良い気味だ、とアレスは思い、捨てるようにその腕を振り払って車の後部座席に乗り込んだ。フィンスターまではまた数時間かかるが、イディの呼吸が止まらないよう祈るくらいなら、彼の生命力を信じた方がマシだと思った。放心する父親を置いて、アレスを乗せた車が出発する。ふと隣を見ると、『イデア』が座っていた。
「やっと分かったようだね」
「『僕』は間違っていなかったんだ」
「その通りだよ。『君』は僕なんだから」
『イデア』は楽しそうに笑った。シャツにタイを締めないまま、しわくちゃのジャケットを着込んだ、自分を全く同じ姿をしていた。
「君の本当の神様は誰だい?」
『イデア』が聞くと、アレスはそちらを見ずに言った。
「僕だ」
アレスは断固とした口調で即答した。
「ずっと前からわかってたことなんだ。イディはずっと知っていた」
あの暑い夏の日が蘇る。イディにとっての神様は、ずっと自分自身だった。彼が国教の習わしに従っていたのは、アレスがそうしていたからに過ぎない。イディに会わなくては、とアレスは思った。会って話をして、すべてを現実のものとしなければ。
「せいぜい頑張りたまえよ」
『イデア』はけらけらと笑い声とともに消えたが、アレスはもう構っていなかった。イディは大丈夫だ、という自信に満ちていた。なぜなら、自分が神ならば、あんなに敬虔な信徒を手放すような真似だけはしないから。アレスは知らず知らずのうちにに口角を上げていた。
フィンスターへの道を、車が飛ぶように走った。