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第六章

「天もまた、お亡くなりになられた我らが敬虔な信徒のために涙を流していらっしゃるのです」


 金髪を後ろに撫で付けた神父が、父親に向かって言った。父親は毅然と立ち、神父のほうを見ると、胸に手を当てて一礼した。涙ひとつ流していなかったが、それはアレスも同じだった。小柄だった母に似たのか、アレスは石造りの壁のような父親に比べ華奢で、背も低かった。神父はアレスのほうを見ると、小さく胸の前で祈りを捧げる動作をすると、真っ黒な傘を差したまま踵を返して、掘られた穴の、墓のあるほうに歩いて行った。ひどい雨だった。参列者は皆、神父と同じように黒い傘を差していた。アレスはこれ以上ないほどにぴっちりと正装の軍服を着込み、顎を上げて中空を睨んでいた。母親が収まっている焦げ茶色の棺は雨に濡れてほとんど黒光りしていた。アレスの隣にイディはいなかった。


「ヘレナ・フォン・リヒターの死は、彼女が触れた全ての命の中に残るでしょう」


 神父は雨に負けじと声を張った。アレスは少し目を伏せた。見ていられなかったのだ。これから、あの棺は大きく掘られた穴の中に収められ、皆で土をかけて沈めることになる。残されるのは豪奢な石で出来た墓跡のみで、そこには自身の母親の名前が刻まれていた。あの電報から、二日と経たずに母親は死んだ。アレスはついぞ実家に帰ることはなかった。イディの所属していた師団が巻き込まれた西部国境での出来事に、指揮司令部は大騒ぎになっていた。師団から乱れ飛んだ電報の中では、謀反者の存在が明らかになろうとしていた。誰に聞いてもそれが誰で、なんと言う名前なのかははっきりしていなかった。渦中の謀反者と、まだ軍内にいるであろう反乱分子を見極めるための方策について、指揮司令部は連日連夜会議を行っていた。アレスの母親はそのうちに死亡した。


 イディはまだフィンスターの病院にいるはずだった。オットーにはフィンスターに留まり、イディの容体に目をかけておくように指示してあった。オットーの電報は毎日、朝と夜に届いたが、イディが目を覚ます様子はなかった。容体の不安定さがゆえに、リューゲに搬送することもかなわないという。アレスが目を伏せていると、父親が前に進み出て、神父の隣に立った。


「我が妻ヘレナは、神の子でした」


 父親は、それが仕事の延長であるかのように語り始めた。


「優しく、また慈悲深く、聡明でありました。健康にこそ恵まれはしなかったが、息子を国のため、そして我らが神のため、立派な軍人に育て上げた」


 父親はアレスを一瞥することなく続けた。


「最期の時まで、彼女は戦いを諦めることはありませんでした。しかし彼女は悟ったのです。神の元に召され、天から皆様を見守ることがこれからの彼女の使命であることを」



 そんなわけがあるか。



 アレスは唇を噛んだ。たとえそれが本当だったとして、それは神の望みであって、彼女の望みではないはずだった。実際、アレスの母は繰り返し口にしていた。


「せめてあなたの子供が見てみたいわ」


 記憶の中の母親は寂しそうに言った。


「いいえ、子供でなくても良いの。あなたが立派に生きて、それを見届けることができれば、お母さんはそれで良いのだわ。死は確実にわたしたちを分かつでしょう。でも、それが未来のことであればあるほど、お母さんは良いと思うの。わがままかしらね」


 父親の演説が終わると、神父の指示でアレスは前に出てスコップを受け取った。


「ヘレナが無事神の元に辿り着けるように」


 神父は言った。アレスは少し躊躇してから、脇に用意されていた土の山から、なるべく凜として見えるように母の棺に土をかけた。その瞬間に、背中で電流が走るように嫌な思いが浮かんだ。この中にイディもいたとしたら? アレスはふと手を止め、棺を凝視した。「大丈夫だよ、アレス」とイディなら言うだろう。左肩に手を乗せて、自分や父親と違って、涙をこぼしながら。


 そのイディは今、天界と現実の間にいる。母親は手をこまねいて、彼のことを誘惑しているだろうか。


 アレスは身震いをしてスコップを神父に押し付けると、次々と前に出る親族をの間を縫ってその場を離れた。頼もしい強い息子としての立場を、守りきれる自信がなくなっていた。群衆を離れ、墓場に立つ大きな木の裏に回って誰にも見られない場所で膝を抱いて座った。涙が出ないことを、アレスは不思議に思った。


 イディが必要だった。


「アレス、きっと大丈夫だよ。ぼくがきみのことを置いて死んでいくなんて、ありえないじゃないか。約束しただろう? ぼくはきみのものだよ。きみはぼくの神様だから、ぼくの生き死にを決めるのはきみだ。それまでぼくはずっときみのそばにいる」


 イディの口調を真似て、言いそうなことを言ってみたところで、虚しさは消えなかった。イディが必要だ。今、ここに。だがイディは今まさに意識を失って、現実の世界を離れようとしている。置いていかれるのだ。母親に、そしてイディに。そうなったらどうする? アレスは頭を抱えた。それは本当に神の思し召しだろうか? 母親を救い、イディを救い、そこに自身の救いはあるのだろうか。



 アレスははっきりと考えた。


 こんなのは間違っている。



 例え相手が神であろうとなんだろうと、誰かから何かを奪うのは間違っている。それが命であろうと、大切な人間であろうと、どちらにしてもだ。ふと先日の白昼夢が蘇った。『イデア』が再び目の前に現れた。今度は、若い頃の自分の姿だった。半ズボンから膝小僧を出して、他の参列者とは異なり、真っ青な傘を差していた。


「アレス、もう分かっただろう」


 『イデア』は意地悪そうに笑い、アレスに近づくと、顔を寄せて耳打ちした。


「救いなどない。少なくとも、今は、誰にも」


 アレスが目を見開いて『イデア』を見ようとすると、『イデア』はもうそこには存在していなかった。




『君の本当の神様は誰だい?』




 『イデア』が残した気配がそう告げて、アレスは我に返った。急に雨音がひどくうるさく聞こえた。畳んでいた傘を差しなおし、アレスは平静を装って葬列へと戻る。母親は救えなかった。イディは救えるだろうか。そして最悪の事態が起きたときに、自分は自分を救えるのだろうか。



 やらねばならない。



 アレスはどこかでそう思って、急いで考え直した。ひどい罪を犯したような気がして、今すぐ群衆の中の神父に懺悔したい気持ちだった。ここで神を裏切れば、きっとイディは、いなくなってしまうだろう。


 母は救われたのだ、とアレスはもう一度思って、後ろを振り返った。青い傘はもうそこにはなく、ただただ色彩の失われた世界が広がっていた。

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