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第五章

 イディが負傷した、という報が届いたのは、アレスが会議を終えて資料の紙束(アレスに言わせれば、資源の無駄である)を持って会議室を出たときだった。息急き切って駆けてきた、背の低さと安い床屋で切られたような短めの髪が相まって若さを際立たせている青年が、アレスの前で走るのをやめて肩で息をしながら報を告げた。


「ノイマン少尉、からの、電報です」

「内容は」

「ザウアー中尉が負傷しました。重傷につき戦線離脱とのこと」


 どうせまた暴走して骨折でも何かしたのだろう、と思っていると、やっと呼吸を取り戻した青年は真剣な顔で言う。


「『意識無し、一時フィンスターの病院で手当てを行う。続報を待て』と」


 フィンスターは、イディを含めた師団が駐屯していた場所に最も近い発達した街である。アレスの顔から血の気が引き、真っ白になった。イディがこれまでに負った一番重い怪我は、あやうく左手の指を失いそうになったときだろうか。アレスは青年に詰め寄った。


「電報はそれだけか」

「いえ、もう一つ、ただこちらは私用回線です」

「言え」

「えっと…『夫人の容体が急変。折を見て帰宅を求む』。アシュレイ・ヘルファーより」


 目の前がぐらりと揺らぐ気がした。どちらも心の奥底では予測していた事態のはずだ、と客観的な自分が言った。戦線に参加すれば人は死ぬし、母親の状態はここ最近とても良いとは言えなくて、往診の医者が「いつだって覚悟はしておくように」と何度か口にしたことがあった。けれど、きっと大丈夫だと思っていた。イディは死なない。強いから。母親も死ぬことはないだろう。そこには神のご加護があるはずだから。


 アレスは迷った。このまま書類をかなぐり捨てて実の家に帰宅し、そこでイディに関する電報を待ってもよかった。ただ、これから大総統と指揮司令部の幹部による戦況報告の予定が入っていた。とはいえ、前回から戦況は良くも悪くも大きく変わっていなかったし、ましては母親が死にそうだ、と言えば多少の暇は許されただろう。アレスは三秒ほど考えてから、絞り出すように青年に礼を言うと、軽く敬礼をしてその場を去った。


 イディ以外の軍部の人間に弱みを見せるなど、言語道断だ。そう思ってから、客観的な自分がその考えを鼻で笑った。次の瞬間、真っ白な壁に真っ白な床、真っ白な天井の白昼夢の世界で、アレスは自らと対峙していた。向かい合う自分はにやにやと笑っていて、狡猾そうで、椅子の上に胡座をかいて頬杖をついていた。


「母親だけでなく、イディも失うとは、運の悪い男だね」

「どちらもまだ死んだと決まったわけじゃないだろう」

「分かっているはずなのに。お母様はきっと死んでしまうよ。ずっと分かっていたことじゃないか」

「神が彼女を見捨てるとでも?」

「生まれたときから彼女は見捨てられていたんじゃないかな。なんたって、あの身体だもの。イディだってそうだ。母親も父親もいなくて、それでも彼らは誰よりも神を信じていると言うのに」

「少なくともお母様は、苦痛から解放されるはずだよ。それは神のご慈悲じゃないか」

「君の神様は、殺すために人を生むのかい?」


 アレスが言葉に詰まり、対面している意地の悪そうなアレスはふふ、と笑って膝を叩いた。


「傑作だね」

「殺してやる」

「君に俺は殺せないよ。なんてったって、俺は君のイデアだ。君は俺の投影でしかないんだよ。本物はこっちなんだ」


 アレスの『イデア』は立ち上がると背を向けて振り返った。


「せいぜい頑張るといいさ。すぐに気づくよ。君が間違っていることに」


 アレスは絶望と憎しみの混じった目で相手を睨みつける。アレスの『イデア』は楽しそうに笑うと、いいかい、と赤子に話しかけるような口調で続けた。




「よく考えたまえ。君の本当の神様は、誰なんだ?」




 突然白昼夢が終わり、アレスは指揮司令部の廊下で立ち尽くしていた。幸いなことに周りに人はおらず、ともすれば恥を晒すような場面を誰かに見られることはなかったが、アレスは足から力が抜けていくのを感じていた。


 母もイディも、苦しむために生まれてきたようなものだった。どちらも幸せなことより、不幸せなことのほうが多くて、しかし現世での苦しみは前世での行いや現在の信心の浅さが原因だという。母もイディも、自分よりよっぽど経験な国教の信者だ。前世で何かしでかしたのだとしたら、そしてこんなにも早くこの世を去ることになったら、彼らは天国に召されることなく、また同じ人生を繰り返すのだろうか。


 ふと、父親のことが浮かんだ。母親に手をあげる父親は健康そのもので、金もあり、地位もあり、ただし敬虔な信徒だとは思えなかった。忙しいことを理由に祈ることが少なかった。少なくとも母親とイディよりは不信心だった。ならば父親は前世でとても良い行いをしたとでもいうのだろうか。だとしたら、なぜ父親は天に召されることなく、再びこの世界で人間として息を吹き返したのだろう。


 救いは一体どこにあるというのだ。

 

 行き場のない怒りを発散するように、アレスは大股でブーツの底を鳴らしながら歩くと、すれ違う人間の挨拶も気にも留めず、執務室に入って後ろ手に扉を閉めた。閉めるや否や身震いをして、母親の死とイディの死を思った。それが救済だとして、ではなぜ神は自分から最も大事な人間を一度に奪い去ろうとしているのだろうか。やはり自身もまた、前世での行いが悪かったのか? 信心が足りていないから?何度問いをかけても、答えが見つかることはなかった。ふと、聖母の絵画が目に入った。愛おしげに腕の中の赤子を見つめる聖母。彼女は自身の子供が奪い去られても、きっと神を信じ続けるであろう。自分にはそれができるだろうか。そう思ってしまってから、しまった、と思った。たとえばすべてが神に筒抜けだったとして、神は少しでも彼を疑う自分に更なる試練を課すかもしれない。アレスは頭を振って嫌な考えをすべて追い払おうとして、持っていた書類を書きもの机の上に投げ出し、次の会議に必要な資料を取り出すと、精一杯それに集中しようとして、失敗した。




『君の本当の神様は誰だい?』




 『イデア』の言葉が反芻される。その言葉については、学校の哲学の授業で習ったことがあった。物事のほんとうの姿。あの『イデア』が自分の本質ならば、神の本質はまたどこか違うところにあるというのだろうか。偶像も教会も神父も超えたどこかに、本当の神がいて、そして彼は本当のところ、教義や祈りに関わらない天秤を持っているのだろうか。


 ではその神は、どんな男なのだろう。アレスは自分の掌を見つめた。今まで自分を誰よりも上等なレールに乗せていたトロッコの歯車が、音を立ててひとつ外れた気がした。

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