第四章
イディはアレスより随分前から軍人をやっていたが、実戦で活躍する以外に能のない男だった。それでも一個中隊の指揮官を務めていたのはアレスの指示に他ならず、とはいえ、アレスもイディの知性の欠如については承知していたので、実務上の指揮官はオットー・ノイマンという、アレスとイディとは三歳ほど上に歳の離れた男であった。オットーはアレスと同じ寄宿学校を出ていたが、大学へ進んだアレスとは異なり、寄宿学校を卒業するや否や陸軍に入隊していた。そういうわけで、アレスもオットーもお互いにそれなりに面識があったので、イディが戦場で功績を上げすぎたことが原因で周りに昇進を決定されてしまったときに、補佐官としてアレスがつけたのがこの男だった。オットーは裏表のない、人当たりの良い朗らかな青年だった。
「今回は少し手こずるかもなあ」
イディとオットーの率いる中隊を含む一個師団のキャンプでオットーはぼやく。二人は師団の指揮本部となる仮設テントの中にいて、外では雨が降りしきっていた。雨が降ると視界が悪いし、足元もおぼつかなくなる。オットーはそう言う意味でそう発言したのであったが、イディはお守りのように小銃を背中に背負ったままきょとんとしていた。
「イディ、あんまり暴れないでくれよ。君が痛い目にあったときに責任を問われるのは俺なんだぜ」
オットーは言ったが、イディには何も通じていないようだった。イディはただただ相手を反射させる黒い瞳でオットーを眺めるばかりで、それに慣れっこになっていたオットーも、その反応にはため息をついた程度だった。雨はとにかくひどく打ちつけていて、この調子では敵軍も簡単には手を出してこないだろう、というのが師団長たちの見解であった。
だが、往往にして経験上の予測というのは外れるものである。
森の中で駐屯していた師団の中で、パン、という銃声を合図にざわめきが起きた。夜も更けたというのに雨脚の収まらない夜で、不眠症のイディはキャンプの隅でお気に入りの小銃を手入れしながら時間を潰していた。銃声と共にイディが顔を上げ、瞬時にところどころのテントから人々が顔を出す。銃声は一度では終わらず、二度、三度連続して聞こえたかと思うと、大勢の人間が一斉に声を上げるのが聞こえた。
「囲まれたぞ!」
半分寝間着姿のオットーが軍服を引っ掛けながら叫び、イディが雨の中に走り出した。その姿を見てオットーはイディの名前を呼んだが、イディは振り返ることなく混乱の中に消えていく。キャンプはめちゃくちゃだった。そこかしこで銃声や悲鳴、救護班を呼ぶ声がしたが、イディはその間を縫って走りながら鳥のように周りを見渡した。狙わなければならないのは親玉だ。歩兵に構っている暇はない。
目の前に男が飛び出し、イディは味方か敵かの判別を付けるや否や、小銃の柄を使って相手の頭を殴り飛ばした。生きていようが死んでしまおうが、イディに関係はない。包囲されているということは、キャンプの中に司令官は出てきていないはずだ。イディは少しだけ考えてから、阿鼻叫喚の地獄と化したキャンプを抜け、一人で森に侵入した。誰かを連れていく、という考えはなかった。邪魔なだけだ。
森に入ると、喧騒が遠のいた。ふと立ち止まり、物陰に身を隠しながら耳を澄ませる。怒号の間に、話声が聞こえている。イディはなるべく木々や草むらに自身の体が隠れるように、極力音を立てないように移動すると、時折立ち止まって音の方向を確認し、そのまま突き進んだ。五十メートルほど森の中に入ったところだろうか、ようやく音の発生源に行き着く。イディが確認したところ、少しひらけた場所があって、そこに小さなテントが張ってあった。お粗末なところを見ると、つい最近展開したばかりに見えた。人数を確認しても、四人しかいない。指揮官クラスではなさそうだったが、少なくとも彼らがキャンプに突撃した連中よりも位の高い人間たちであることは明らかだった。イディは小銃を構え、そして絶句した。
キャンプの中に、一人だけ見慣れた軍服が混じっているのだ。
謀反、という言葉はイディの頭には咄嗟には浮かばなかった。驚きのあまり小銃を少しずらしてしまい、かちゃりという音が静かな森に響き渡った。すぐにキャンプの男たちも銃を構え、背中を寄せ合って四方を確認する。しばらくは前方のキャンプの騒ぎと、さらに強さを増した雨の音ばかりが鳴っていた。イディがテントに近づこうとしたとき、がちゃ、という嫌な音がその後頭部に響いた。
「ザウアー中尉」
目だけで振り返ると、自身を同じ黒い軍服に身を包んだ男が立っていた。イディはそもそも人の名前と顔を覚えるのがひどく苦手だったが、いずれにせよこの男の名前を覚えている人間なんかいないだろう、と思った。男の声に、テントに四人もこちらに気づいたようだった。背後に一人、前方に四人。イディは小銃を落として両手を上げ、降参の意思表示をすると、少しだけ銃身を下げた男の小銃を右足で振り向きざまに蹴り上げるとそのまま男を地面になぎ倒し、相手の小銃を奪って前方の四人に銃口を向けた。ざくざくとこちらに歩いてきていた四人が一瞬怯み、足を止める。イディはなぎ倒した男の胸部を踏みつけて自身の体重で潰し、気絶させるか、あわよくば殺そうとしていた。
「フォン・リヒターの犬です」
四人のうち、こちらの軍服を着た男がほかの三人に伝えた。こちらの軍服を着た男はイディを見て明らかに怯えきっていたが、ほかの三人は要領を得ていない様子であった。一人は恰幅がよく、イディに言わせれば銃の構え方が雑で、実戦向きとは言えそうもない人物だった。となると、使えないやつが二人、使えるかもしれないやつが二人。問題なのはその二人が隣り合わせに配置されていないことで、一人を狙えばもう片方からこちらが狙われるのは確実で、ましてや残りが本当に使えない軍人たちだとしても、この近距離ならどちらかの弾がイディに当たる確率はかなりのものだった。頭を回して考えると、イディは結局いつもの結論にたどり着く。
――多少の犠牲は、仕方あるまい。
イディは使えそうな男のうち、一番狙いやすそうなほうの頭を瞬時に撃ち抜いて、同時に自分の右肩にビリビリとした衝撃が走るのを感じた。それでも構わず前に突進し、もう一人、落としておきたい男の足を狙う。即座に近づいて男の持っていた小銃を自身の小銃の砲身で弾き飛ばすと、銃を横に振り翳してもう一人をなぎ払い、残りの男――自身と同じ軍服を着込んだ男だった――に小銃を向ける。男は真っ青になっていたが、イディが何も言わずに薬莢を弾き出す。すぐにドン、と先ほどとは全く異なった打撃のような感覚が身体を打った。
自身が小銃を発砲したからではなかった。
イディは構わず発砲し、目の前の男が崩れ落ちる。同時に、自身の世界も揺らいで、目を大きく見開いたまま横に倒れた。
最後に目に映ったのは、やはり自身と同じ軍服を着込んだ、軍帽を目深にかぶった、巻き髪の金髪の青年の姿だった。