第三章
リューゲの都の中心には、大聖堂がある。アレスが生まれるよりも前にあったものだ。リューゲにはたくさんの教会があったが、アレスが洗礼を受けたのも、日曜日のミサに出席するのも、まだ外出ができるくらいには健康であった母と時たま訪れるのもこの大聖堂だった。アレスはその日、イディと共に大聖堂を訪れていた。
大聖堂は、構成されているパーツすべてが芸術品でできているかのような場所だった。窓にはすべてステンドグラスが嵌め込まれ、太陽の光を色とりどりに変えて床に落とす。ステンドグラスはひとつひとつが何かの光景を表していて、大聖堂の左から右へと見回せば、国教の信ずるところの物語の概要がつかめるようになっていた。大きく開け放たれた扉から真っ直ぐに赤い絨毯が伸び、その先には祭壇と偶像が鎮座していた。祭壇も偶像も真っ白で、一片の汚れも埃もなかった。祭壇の周りには床に至るまで所狭しと蝋燭が灯されていた。アレスも何度か蝋燭を供えたことがある。祈りを捧げ、蝋燭に火を灯せば、神に願いが届くであろうとの話だった。
ミサのある日曜日だったので、教会は混雑していた。老若男女とはいったもので、何事かを呟きながら泣きじゃくる老婆や、事態を理解していない小さな少年もいたし、熱心に神父と語り合う、見るからに金持ちそうな男性もいた。
「…我々の神の慈悲深さについては、底知れぬものです」
適当な席を見繕ってアレスがイディを連れて長椅子に腰掛けた時、そんな会話が聞こえた。ふと振り返ると、神父が何かを懐に収めるところが見えて、アレスは少し顔をしかめた。それが免罪符の売買なのは明白だった。通常の信仰と祈りに加えて、金を払えばさらなる加護を得られるという制度だったが、導入されたのはつい最近のことだった。言い換えれば、免罪符がなくてもこの国教の祈りと救いは成り立っていたはずなのだ。アレスにしてみれば、そんなことを是とする神父のほうが無信心だと思っていた。
「きみのお母さんのことを祈るよ」
ふとイディに声をかけられ、アレスは祭壇に向き直って姿勢を正す。イディはにこやかに笑ったまま、アレスのことを穴が空くほど見つめていた。アレスの母親はもともと病弱であったが、このところあまり容態が芳しくない、という話はイディも知っていた。アレスが大聖堂を訪れるたびに、母親が天寿を全うし、神のもとに正しく召されるように祈っているのを知っているのは、イディだけだった。
「ふたりで祈れば、早くに届くかもしれないからね」
イディはそう言って手を組み、顔を伏せてすっかり沈黙する。アレスはその姿を一瞥してから、目の前の偶像を眺め、母のことを思って同じように手を組んだ。
「そういえば」
黙っていたかと思えば、イディが思い出したように呟いた。
「きょうも懺悔をしていかなくてはと、おもって」
イディは教会の仕組みや教典については疎かったが、懺悔に執着しているところがあった。指揮司令部で紙と黒板ばかり眺めているアレスと異なり、イディは前線の軍人だった。ここのところは戦火もくすぶっているばかりでイディも前ほど駆り出されることはなかったが、つい先日に数日間、アレスの命で北部前線に顔を出していた。嬉々として帰ってきたイディは身体中に包帯を巻かれていたが、いつものように救護班の指示をひとつも守らなかったのだろう。血で凝り固まった包帯を剥がしてやるのはとんだ重労働だった。
いそいそとその場を去り、懺悔室へと向かうイディを見て、アレスも自然と彼の後ろをついていった。盗みや不貞を働いたわけでも、イディのように実際に誰かを殺めたりしたことは少なくとも直近ではなかったが、それでもなんとなく手持ち無沙汰で、狭苦しい懺悔室に入った。荘厳な教会の雰囲気とは打って変わり、黒々しい色合いでまとめられ、神父の衣擦れの音と手だけが垣間見える懺悔室で、アレスは座りにくい木の椅子に腰掛けて黙り込んだ。
「今日はどのようなお話でしょうか」
年齢の判別がつかない男性の声がする。優しい声音ではあったが、流暢すぎるあまりに彼が何度その台詞を言ってきたのかが分かるような気がした。アレスはしばらく自分の白い手を見つめて、はっきりとした口調でいう。わたしは軍の者なのです。
「ご存知のように、大戦の戦火は今でこそ落ち着いていますが、命を落とさぬ者がいないわけではない。わたしは先陣を切って戦い、人を殺める立場の者ではありません。ですが、やっていることは同じだと感じるときがあります。わたしの命はただひとつ、変わらず人を殺めるように、というところに尽きるのです」
そう演説すると、神父がごそごそと座り直した音が聞こえた。
「…神も現在の大戦を快く思っておられるわけではありません。神の願いはすべての人類が皆平等に導かれることにあります。ですが、此度の大戦はそのような神の思し召しだといえるでしょう。神は大戦を通してこの世界をようやくひとつにしようと思っていらっしゃるのです」
神父の声はアレスに比べて聞き取りづらく、滑舌も悪かった。アレスは右から左にその言葉を受け流しながら、では、と少し口調を強めた。
「神は特定の人間の死を望むことがおありですか」
「教典をお読みならご存知のはずだ。我々の全知全能なる神の存在を、愚かにも信仰できぬ人間というのはいるものです。そのような人間たちを、無信心から解放する、というのも我らが神の意志に他なりませぬ」
「死は苦しみからの解放ですか?」
「その通り。どんな人々にも生ゆえの苦しみというのは存在いたします。そのようなときに、死は究極の救いでもあるのです」
ふと、アレスは毎日朝と夜に、自分で作った粗末な祭壇に向かって祈る母の姿を思った。彼女もまた、生に囚われている。アレスが一礼を述べて懺悔室を出ると、イディは頭を透明な糸で吊るされているかのように真っ直ぐ立って、アレスのことを待っていた。アレスを見るや否や、イディは破顔してその手を取り、率先して教会を後にする。今日はどちらも休暇手当が出ていた。
教会を出ると、むわりとした空気がアレスを包む。階段を下りながら周りを見渡すと、そこここで乞食たちが小競り合いを起こしており、教会の従事者たちがなんとか彼らを聖堂に近づけまいと必死になっているところだった。教会の言うところによれば、彼らは業を背負っているのだと言う。前世で大罪を犯し、そのために苦しみを背負わされていると。
ならば自分の母親はどうだというのだ。
アレスではない誰かが、アレスの頭の中で言った。突然のことに驚いて階段を降りる足を止めると、イディが不思議そうにこちらを見上げていた。
「どうしたの、アレス」
「なんでもない」
アレスはぶっきらぼうにそう言って、イディの手を振りほどいてさっさと階段を降りていく。アレスが、その後大聖堂を振り返ることはなかった。