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第二章

 アレス・フォン・リヒターは、リューゲのプロヴィンスを支配するフォン・リヒター家の長子であり、唯一の子供であった。だからといって溺愛されていた、という記憶はアレスには一切なかったが、母親は優しかった。良家の長男らしく、物心がついてすぐに家庭教師がつき、ピアノやヴァイオリンを習って英才教育を受けたので、名門の寄宿学校に送られてからも首席の座を守ることは容易かった。同時に、アレスは容姿にも恵まれていた。金髪に近い鳶色の髪に、母譲りの透き通った水色の瞳。目は大きく、睫毛に強調され、控えめな鼻と唇は天使の彫刻のようだった。


 父親は好きではなかった。帝国議会の重鎮を務める厳格な男だったが、母のことを愛しているようには見えなかった。アレスを見つければ気に入らないところをあげつらい、病弱で床に臥せりがちな母親に暴言を浴びせ、手をあげることもしばしばあった。はじめはアレスも抵抗を試みたが、母親はよくアレスを抱きしめて言った。


「わたしの心優しい息子。お母さんは大丈夫よ。あなたはあなたのことだけを心配しておいでなさい」


 その言葉を聞くたびに、アレスはもっと強くならねば、と思うのだった。非の打ち所がない男にならなくてはいけない。腕っぷしに自信はなかったが、頭は良かった。父親を圧倒する権力を得なくてはいけない。アレスはそう信じていた。そして母親の自慢の、強い息子でなければならないのだ。


 イディと出会ったのは、寄宿学校に進んですぐのことだった。寄宿学校にのすぐ隣に、孤児院が併設されていた。先代の理事長の遺志、ということだったが、お世辞にも手入れの行き届いているとはいえない孤児院だった。寄宿学校の校庭とは黒々として背の高い柵――刑務所のようだ、とアレスは思っていた――で区切られていて、アレスはいつしかそこに一人の少年の姿を見るようになっていた。年の頃は変わらなそうだったが、痩せこけていて、烏の羽根のように黒い髪がぼうぼうと生えていた。アレスが近寄ると、少年は物珍しそうにアレスを観察した。その不躾さに腹が立って、柵越しに相手の髪を引っ掴むと、少年が即座に泣き出したので、アレスは逃げるようにその場を去った。その少年が、イディ・ザウアーという名前の孤児であることを知ったのは、ずっと後のことだ。


 はじめは面白半分だった。家に帰れば従順な息子を、母の前では強い男を、学校では失敗も間違いも犯さない完璧な生徒を。権力の前に必ず頭を垂れ、自身を押し殺すことに飽き飽きしていた。その点、イディは無力だった。彼は言葉を喋ることがなかった。口が利けないのだと分かるまでには少し時間を要した。


「いいかい、イディ。大人の言うことは何も信じてはいけないよ」


 自身に言い聞かせるように、アレスは呟いた。校庭では人の目が多いので、イディになんとか指示をして、裏庭で落ち合うことになっていた。二人の間には黒い柵が変わらずそびえ立っていた。


「大人は悪いやつらばかりなんだ。君だってそう思っているだろう? 誰も君のことなんか気に留めちゃいない。見たまえよ、そのひどい出で立ちを。いつだって生傷だらけじゃないか。いじめられてでもいるのかい」


 アレスは一人で喋り続けた。イディは何も言わず、しがみつくように黒い柵を両手で持って、その隙間に顔を挟んでいた。アレスはその顔を見て舌打ちすると、鼻を鳴らした。


「君の顔を見ていると苛々するんだよ」


 アレスは手近にあった石を力ませにイディに投げつけた。柵に跳ね返って当たらなかったので、今度は至近距離から同じことを繰り返した。はじめのうちは痛みに泣き喚いたものの、そんな日が三日、一週間、一ヶ月と続くにつれ、イディは何も言わなくなっていた。それどころか、髪をむしられようが、頬を引っぱたかれようが、表情ひとつ変えることがなかった。それがアレスを余計に刺激し、イディへの暴力は日に日に悪化して、気づいたころにはアレスは憎んでいたはずの父親と全く同じことをしていた。弱いものに暴力を振るい、欲望のはけ口にする。そのことに気づいたのはじりじりと暑い夏の日で、学校が夏休みに入る直前のことだった。アレスもイディも汗だくになっていた。


「ごめんよ、イディ」


 アレスはいつものように裏庭でイディと対面すると、すぐに泣き出して言った。


「こんなつもりじゃあなかったんだ。ちょっとだけ嫌なことばかりで、どうしていいかわからなかったんだよ」


 弁解するようにアレスが柵に近づくと、イディは尚もまじまじとアレスの顔を見つめ、「だいじょうぶ」とだけ言った。それが質問であったのか、答えであったのかは分からなかったが、アレスは人生で後にも先にも一番だと思えるくらいに泣いた。以降、アレスはイディに言葉を教えることに専念した。暴力を控えることは難しかったが、謝ればイディはいつだって「だいじょうぶ」とたどたどしく答えるのだ。ある日、イディは謝るアレスに向かって手を差し出し、涙の伝う頰に触れた。


「シスターが、ほんを、よんだ」


 外国語でも喋るかのように、音節を区切ってイディはゆっくりと言った。


「かみさまが、」


 そこまで言って、続きを説明する言葉が足りなくなったのか、イディは困惑して眉根を寄せた。神様がどうしたんだい、とアレスが聞くと、イディはより一層困ったような顔になって、わからない、と答えた。


「かみさまが」


 イディは壊れた機械のように繰り返して、突然顔を上げた。


「かみさまだ」

「だから、誰が神様なんだい」


 アレスがついに泣くのをやめ、もどかしさのあまり強い口調で迫ると、イディは大きく微笑んで、「きみだ、」と言った。




「フォン・リヒター准将」


 突然名前を呼ばれて、アレスは内心たじろいだが、それを悟られまいと目の前の文書を持ち上げると、瞬時に内容を読んでシュルツを見た。今、自分は会議の最中にいた。幸いなことに、夜遅くまで続いた会議だったこともあって、ほとんどの参加者が思い思いに憂いを表現していて、誰もこちらを見ていなかった。


「概ね賛成ですが」


 アレスは今度は黒板を見やって、前後の話の当たりをつける。どうやら北部前線の援軍の是非の話のようだった。


「一個師団を割くような話ではないかと存じます。北部前線は山も多い。騎兵の多い敵が出来ることも限られているでしょう。後方支援連隊に小隊を送るよう手配いたしましょう」


 アレスの言葉に、あちらこちらで賛成の声が上がる。会議を率いていたシュルツも、アレスの言葉を吟味するようなふりこそしたが、すぐにそれでは、と咳払いをした。


「支援策に関しては准将に一任致すものとする。異論がなければ各自は通常任務に戻るように」


 ちらりと時計を盗み見ると、深夜の三時を回っている。アレスはイディのことを考えたが、焦るようなことはなかった。イディはアレスを置いて、ひとりで勝手に就寝するような男ではない。きっと言いつけ通りにウイスキーを買って――一度自分が好きだと言ったから、馬鹿の一つ覚えみたいにローレンツの店で買ったウイスキーだろう――自分では一滴も飲まずに、グラスを用意して待っているはずだ。そう考えると自然と口が緩み、アレスは周りの同僚ににこやかに挨拶をして席を立つと、さっさと帰路についた。

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