第二十三章
アレスの死後、エフィを中心とした『イデア』は新興宗教としてある程度の広がりを見せるようになった。主に国教の手の届きにくい町や村の人間が多かったが、アレスの死をきっかけに、リューゲの中でも密やかに『イデア』は信仰されていた。国教のやり方は手酷過ぎたのではないか、と思う者たちがいたのだ。オストの森の屋敷はアレスが存命していたころからところどころ改修されていたが、そのうちに立派な屋敷になった。エフィは祭壇の前にいたが、どこか複雑な面持ちだった。
イディの死について知ったのは、かなり最近のことだった。軍部を抜けてほとんど屋敷に隠居していたので、何も知らなかった。死んだアレスとは逆に、額から頭を撃ち抜いて死んだそうだ。そのことを知るまで、エフィは精神の均衡を保っていたつもりだった。イディが死んだ。アレスの後を追って。
「エフィ」
背後から声をかけたのはソフィアだった。エフィはびっくりして振り返る。ソフィアにはもうかつてエフィが出会ったころの面影はなく、豪奢なアクセサリーを身に着けていた。引っ込み思案だったのがすっかり自信を持って、昨今ではエフィの代わりに式事を進めることも少なくない。イディの死について知ったエフィを、ソフィアは心配していた。エフィはソフィアを見つめたが、特に何も言わずに祭壇に向き直った。
「…あの男は決してアレスと同じ場所には辿り着けなかったでしょう」
ソフィアはエフィの斜め後ろに立つと、静かだが強い口調でそう言った。エフィは何も言わなかった。
「アレスが旅立ったのはイデアの天界です。『イデア』を信じぬ者が同じ場所に辿り着けるはずがありません」
ソフィアはもう、エフィの制御下にはいなかった。『イデア』はもうエフィの関与を必要としていなかった。斜面を転げ落ちる雪だるまのように、勝手に大きくなり、勝手に物事が進むようになった。その教義も、様々な人間に解釈された結果、アレスとエフィが制作したものとはかけ離れたものになりつつあった。似ている、とエフィは思う。このままいけば、『イデア』は国教とさして変わらぬ様相を呈するだろう。
「イデアの天界は誰も拒まないよ」
「ですが、あの男は悪魔に近い罪人です。アレスを殺したのはほかならぬあの男ではありませんか」
「それでもだ。アレスはきっとそんなことは望んでいなかった」
エフィの言葉にソフィアは食い下がろうとして、すぐにやめた。申し訳程度にお辞儀をして、すっとその場を離れる。夜も更けていて、聖堂は行くあてのない信者たちがいびきをかいて眠っているほか、空っぽだった。エフィは考える。ずっとアレスを傍に置いておきたかった、それだけなのだ。一瞬でもそれが叶ったというのに、死してなおアレスはイディといることを選んだし、イディはアレスといることを選んだ。それをもう超越することはできなかった。とすると、教義に対する揺らぎが生じる。イデアの天界に存在するのは、もうアレスだけではない。では本当の神とはいったい誰なのか。
エフィはゆっくりと祭壇を離れて自身の部屋に戻ろうとして、ふとアレスの部屋であった場所で足を止めた。思い付きでドアの取っ手を下げてみると、かちゃりと音がして部屋が開く。まるで、エフィを待ち構えていたかのようだった。エフィは短く逡巡してから、決心してドアを開くと中に入った。アレスが空気になって溜まったままのような部屋だった。極めて粗末だが、書き物のための机がある。そこには『イデア』の最初の教義を記したノートのほか、国教を糾弾するような主旨の、禁書ともとれる本が積み重なっていた。そんな中でエフィの目を引いたのは、椅子の下に落ちている、何かから破り取ったような紙だった。拾い上げて、椅子に腰かけて読み込んでみる。読み始めて、エフィはすぐに後悔した。
〈僕の最愛の人へ捧ぐ〉
文章はそう始まっていた。
〈遅かれ早かれ、僕は死に至ることだろう。それでも君の手によって死ねることは本望ですらある。これまでずっと君は僕のわがままに耐えてきたし、それでも僕を愛してくれていたね。君だけの神様であったときが、きっと一番幸せだったんだと思う。僕は道を間違った。もうその足で立てない君と一緒に歩いていくことだって出来た。後悔しかないよ。運命なんてあるわけがない。イデアなんて存在しない。イデアは理想にしか過ぎない。ある種の妄想。僕は僕の『イデア』を見たけれど、どう転んだって彼は僕じゃなかった。僕より強くて、僕より物を知っていたけれど、あれは僕じゃなかった。はじめは、僕の夢だった。でも彼の性格はどんどん悪くなっていった。それは僕が、彼に支配されてしまったからなのだろう。君が、君の『イデア』に翻弄されないことだけを願っているけれど、僕は君のことを知りすぎている。君はきっと、僕が何を言ったって、僕の後を追うんだろう。もう君は僕の命令なんて聞けないんだ。でもね、イディ、それで君が少しでも救われるなら、僕が生きていたって僕は止めない。天国なんてない、死後の世界なんてないけれど、またどこかで出会えることがあるなら、そのときは愛していると伝えたい。さようなら、イディ。君は最初から最後まで、僕の最愛の人だったよ。〉
アレス・フォン・リヒター、とサインのされたその紙を握っていたエフィの身体は震えていた。そうだ、結局アレスは神などではなかったのだ。ぼんやりとした疑念が徐々に形を伴って大きくなった。彼はただの人間だった。エフィは紙をくしゃくしゃに丸めるとポケットに入れて、立ち上がってうろうろと部屋を徘徊した。最初に『イデア』を作り、最初に『イデア』に背いたのはアレス自身だった。これはすべておままごとだった、とエフィは思った。真実を受け止めきれなくなった大人たちのおままごと。その点、イディは強かった。すべての救いに背を向けて死んでいった。
アレスは神様ではない。
本当の神様など存在しない。
頭がガンガンした。顔を上げると、自身の『イデア』が見えた。意地悪く笑った顔。そうだ、自分も支配されている。エフィの『イデア』は何も言わなかったが、ただただ表情だけでエフィのことを憐れんでいた。楽になってしまいなよ、という声が聞こえるような気がした。エフィはそれを振り切るように部屋の外に出て、自室に戻ってベッドの上で頭を抱えた。イディよりもアレスに近かったであろう、あの時あの瞬間に、彼を止められたのは自分だけだったのに。両手を見ると、きめ細かい砂が零れ落ちていくような感覚を覚えた。すり抜けていった。すり抜けさせてしまった。もう救いはない、と考えると、自身を自身の『イデア』が包むのを感じた。分かっているね、と『イデア』は無言で伝えた。エフィは稲妻に打たれたように突然立ち上がると、書き物机に向かった。言葉は考えなくても溢れ出たから、ひどい筆跡でエフィは短い手紙を書いた。書き終えると、ベッドの下に収めていたトランクを引っ張り出して、軍から支給されたリボルバーを取り出すと、弾が装填されていることを確認する。『イデア』はベッドの上でそんなエフィを見つめていた。エフィはもう一度彼を見ると、その優しい顔に驚いた。リボルバーを手にしたエフィを、『イデア』は歓迎するように笑っていた。
そうだ、これが正しいのだ。
もう救いがないならば、こんな洞窟にとどまっている暇はない。洞穴を出ればきっと、眩しくて何も見えないような世界が、そしてすべてを完結させてくれるような世界が広がるはずだ。エフィは熱に浮かされたようにそう思った。ふと、『イデアの肖像』のことを思い出す。あの物語に終わりはなかった。ならば自分が終わらせよう、と思った。きっとイディがやったように、額にリボルバーを当て、そして一抹の恐怖に目を瞑る。
引き金を引けば、この物語は終わる。
バン、という大きな銃声にソフィアは驚いて、すぐに事態を理解した。
『イデアの肖像』の終焉が、そこにはあった。