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第二十二章

 アレスの葬儀は行われることがなかった。埋葬された場所も、誰にも分からなかった。イディはたっぷり一週間、宿舎から出ることがなかった。食事も取らず、睡眠も取っていなかった。ただただ時間だけが過ぎていくのに、自分はあの瞬間で止まってしまったようだった。イディの背後には『イデア』が立っていた。無言のまま、イディをにやにやと見つめていた。こうなることは分かっていたじゃないか、と彼が口を動かさずに言うのを、イディはずっと聞いていた。そうだ、こうなることは分かっていた。イディの頭の中で、アレスの最期の言葉がガンガンと響いた。ぼくは彼を救えなかった、とイディは思った。それは最初から確信に満ちたもので、イディは空ばかり眺めていた。アレスがそこにいないことは、しっかり分かっていた。


 オットーは何度かイディを訪ねようと試みたが、失敗するばかりだった。イディの部屋には内鍵がかけられていて、誰も入ることができなかった。イディは誰にも会うつもりがなかった。ただ、一週間が過ぎて、アレスが死んでしまった同じ曜日になったとき、意を決して部屋を出た。孤児院を訪れようと思ったのだ。すっかりげっそりとしたイディの姿に修道院の誰しもが驚いていたが、誰も声をかけることはなかった。皆、アレスとイディのことは知っていたからだ。孤児院を訪ねるのは容易だった。宿舎のすぐそばにあったからだ。イディが訪ねると、孤児院は当時自分がいたときよりもずっとまともな作りになっていた。それでも、隣の寄宿学校との間の黒い鉄柵はそのままになっていた。前庭では子供たちが思い思いに遊んでいて、修道女たちが遊びに興じていた。その端を通り抜け、孤児院の建物の横も抜けて、裏庭に入る。アレスの話を毎日聞いたのはここだった。アレスが良く座っていた切り株は、朽ちかけていたけれど確かにそこにあった。イディはそれを見るなり、かつて恐らく自分が顔を挟んでいた鉄柵を触って、アレス、と呟いた。小さな頃の、純粋そうだけれど同時に厭世的な、目ばかりが大きいアレスの姿が浮かんだ。


「諦めが悪いなあ」


 イディの背後で、『イデア』は言った。イディは振り返らなかった。『イデア』など存在しないと分かっていたから。でも確かに声は聞こえるのだった。イディは何も答えずにいたが、『イデア』は構わず続けた。


「どんなに思い出にすがったって、彼はもういないんだよ」


 『イデア』はイディの分かっていることしか言わなくなっていた。顔の周りを蠅が飛んでいるのと同じことだった。イディはそれを無視すると、全身全霊で昔のアレスの姿を想像した。失敗して、頭を撃ち抜かれた姿で、それでも笑っている彼を想像してしまったときに、しまった、と思った。遅かった。


「もう、やるべきことは分かるね」


 『イデア』が耳元で囁いた。イディは鉄柵に手をかけて項垂れた。『イデア』の言う通りだった。もうやるべきことなど、ひとつしかなかった。それでもそれを先延ばしにしていたのは、やはり諦めきれなかったからだ。アレスは本物の神様になったのだ、という期待を振り切れなかった。彼が作った『イデア』が彼の殉死の元に再興したならば、きっとアレスは生き続ける、と思いたかった。そうすれば報われるはずだ。


「そんなことはないと、分かっているのに」


 『イデア』が間髪入れずにそう囁いて、退屈そうに背伸びをすると、欠伸をした。イディの脳はだんだんと考えることをやめていた。惰性で鉄柵から手を離し、しばらく動かなかった。それから仕方なく車いすを動かして、楽しそうな子供たちの脇を通り、宿舎に戻った。宿舎に戻ると、オットーが待っていた。


「イディ」


 オットーは心底心配した顔で駆け寄ってきたが、イディは無表情だった。オットーに肩を抱かれても、感覚すらどこかへ行ってしまったようだった。オットーは抜け殻のようなイディを何度か振ってみたが、イディが帰ってくる様子はなかった。イディはオットーを見ていたが、その眼はもう生気を失っていた。大丈夫か、と聞きたかったが、大丈夫なわけがなかった。オットーにはもうかける言葉もなかった。何を言っても、きっと響かない。イディがこれからどうするのか、うっすらオットーも感じていた。そしてそれを止めるように言いつけたかったが、自分の立場ではないような気もした。いっそここを去ってエマの元に帰りたかったが、それもできなかった。そうしてしまえば、自分はイディを見捨てることになる。


「イディ」


 オットーはもう一度声をかけた。イディが身じろぎをして、小さな声ですまない、と言った。その言葉すら、空しく響くだけだった。まるで機械が発したノイズのようだった。オットーはその場に膝をついて、車いすのイディと目線を合わせようとした。車いすの車輪にかかっていた手を取って、自分の手で包む。イディの腕に力は入っていなかった。オットーは目を伏せた。


「何を言っても無駄なのは分かっているんだ」


 気づいたらそう言っていた。ふと顔を上げると、イディの背後にイディにそっくりな男が立っているのが見えた。そっくりなのではない。同じ人間だ。ただ、存在していないだけだ。そのイディは卑しく笑っていた。こいつに操られているのだ、と気づくのにそう時間はかからなかった。オットーは憎しみを込めてそのイディを見つめたが、彼は肩をすくめるばかりでどこ吹く風だった。操られているにしろ、あれがイディの一部であるのは間違いがなかった。アレスが言っていたところの、『イデア』なのかもしれない。あちらが本物のイディなのかもしれない、と思って、オットーは目の前のイディの手を強く握った。


「考え直してくれないか」


 オットーは全力でそれだけ絞り出して、相手の反応を待った。イディは茫然とオットーを見つめたまま、一言も発しなかった。それが終わりの合図だった。もうこの会話は――そもそも会話にすらなっていなかったが――続く余地がない。オットーが力なくイディの手を離すと、イディの手もだらりとぶら下がっただけだった。立ち上がり、なるべくどちらのイディも見ないようにして、間を通り過ぎて宿舎の玄関を出る。


「エマとお幸せに」


 そう言ったのがどちらのイディだったか、オットーは今でも分からないでいた。




 頭をリボルバーで撃ち抜いたイディの遺体が見つかったのは、その日の夜だった。




* * *




 エフィは気づいたら、『イデア』の本拠地であった屋敷に足を向けていた。辿り着くと、門前でソフィアが待っていた。心配そうな顔をしてエフィに駆け寄り、それでも悲しそうではなく、どこか希望に満ちていた。エフィはその顔を見て、少し生き返ったような気分になった。ソフィアは信じている。アレスが、神になったことを。


「アレスの後を継げるのは、貴方しかいません」


 ソフィアはしっかりとした口調でそう告げると、エフィの手を取って祈るように目を瞑って俯いた。そうだ、まだ自分には『イデア』がある。エフィはそう思いなおして、それでも腑に落ちない顔でいた。ソフィアを後ろに従え、屋敷の中に入っていく。聖堂のようになっていた玄関口は、信者でいっぱいになっていた。置かれた長椅子では収まりきらなくなって、窓枠や階段に座っている者たちもいた。エフィの登場に群衆は沸き、ソフィアの先導でエフィは彼らの間を通り抜けると、祭壇に立った。不安げなものも、すっかり顔が紅潮している者もいた。エフィはそれらすべての顔をじっくりと眺めると、アレスの声音を真似して宣言した。


「彼はその死をもって、真の神となりました」


 群衆が息を呑んで次の言葉を待つ。エフィはそう言いながらも、笑うことすらできないでいた。やがてエフィも、自身の『イデア』が玄関に立っているのを見た。白いローブに身を包んで、エフィの『イデア』はこちらをじっと見て、様子を伺っていた。


「我々が信じる神はただ、彼一人です」


 エフィは気持ちの籠らない声で続けた。『イデア』の存在が気になって仕方がなかった。それでも群衆の歓声に、現実に引き戻された。もう玄関に『イデア』は立っていなかった。そうだ、とエフィは今度こそ思い直した。アレスはイデアとなって、天上の世界の仲間入りを果たしたのだ。イデアがあるべき場所で、アレスは生き続けている。きっとそうなのだと、自身に言い聞かせる前に信じ込んでいた。エフィは大きく息をついて次の言葉を繰り出した。




「『イデア』に栄光を」




 群衆の歓声が、そのまま自身の力になったようだった。


 アレスは、まだ生きている。

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