第二十一章
アレスの処刑は公開処刑ではなかったが、それが行われるという事実は公表された。街には張り紙が出たし、新聞記事はそのことでもちきりだった。皆がどこか戦々恐々とその瞬間を待っていた。国教が異教徒を処刑するのは、度々あることではなかった。処刑が行われる当日の朝はこれまでと打って変わって憎いほどの青空だった。イディは二日眠っていなかった。それでも何をするわけでもなく、ただただ宿舎から街を眺めていた。過去や未来に思いを馳せることも、悔いることもなかった。何も感じられなかった。現実が自分を置いて進んでいく様を、ただただ眺めているだけだった。
オットーはそんなイディを気遣って一日に一度は顔を出していたが、それでも何の話をしても空返事しか返ってこないので、当日に顔を出すことはなかった。もう一人にしてほしいのだろう、と思ったのだ。当日、オットーは暗い顔で婚約者のエマに朝の挨拶をした。結局、オットーも眠れなかった。エマはすべてを承知していたので、特に励ますこともなかった。ただ淡々と朝食を作り、せめて食べるようにと言いつけるだけだった。
アレスはといえば、驚くほど晴れやかな気持ちだった。準備のため地下牢を出たとき、その空の眩しさに目がくらんだ。待機するように申し付けられた別の独房からは小さな四角い窓から空が見えて、アレスはそこを見つめていた。神も祝福してくれているのだろう、と思わずにはいられなかった。異教徒の排除を。アレスはもう『イデア』について考えることはなくなっていた。自分は間違っていた。そして天罰が下ったのだ。下したのは神ではなく、イディだった。アレスは国教徒に戻ったわけではなかった。ただイディのために救われようと、決心していた。
エフィはその目立つ巻き毛を帽子で隠して、リューゲの街にいた。軍服を着こんでいた。処刑が公開されないことは分かっていたが、軍部のどこで処刑が行われるのかも分かっていた。軍部にさえ潜り込めば、その様子を見ることができる。自身の反乱行為が軍部に知れているであろうことは、考えなくても分かることだった。とはいえ、そんなことよりもアレスの処刑に皆がそれぞれ複雑な気持ちで沸き立っていて、その中に紛れ込むのは容易なことだった。軍部の階段を上がり、裏庭の一部が見えるところまで行く。そこにはすでに人が詰めかけていて、皆が今か今かと処刑の瞬間を待ち構えていた。エフィは群衆の中に割り込むと、アレスが向かって立つであろう壁が見える位置についた。今にもアレスがそこに立ち、背後から死刑が執行される。
「アレス・フォン・リヒター」
四角い窓を見つめていたアレスは、厳しい声にゆっくりと振り返った。シュルツだった。その顔には同情のかけらもなく、ただただ蛆虫でも見つめるような目をしていた。アレスは狂った患者のようににやりと笑うと、これはこれは、と呟いた。
「直々のお出迎えを頂けるとは」
「無駄口を叩くな。時間だ」
アレスは肩をすくめて大袈裟に両手を半分だけ上げると、手錠をかけられやすいように前に出す。シュルツの部下が手錠をはめると、もう一人の部下が後ろからアレスを歩き出させるように押した。足取りは軽かった。今まで自分を縛っていたものは、もう何もなくなっていた。自身が処刑される場所を見ても、何とも思わなかった。上を見ると、軍部の人々が窓から所狭しとこちらを見ていた。アレスはそれを見上げて微笑む。自分でもどうして微笑んだのかは分かっていなかった。
イディはその場に立ち会う手筈になっていたから、その時にはもう処刑場にいた。ここまで自分を連れてきたのはオットーではなく、軍部の人間だった。再び軍服に身を包み——そしてこれが最後になるだろう、とイディは思っていた——車いすの上で手を組んでいた。アレスが現れても、もう動揺しなかった。アレスがこちらの存在に気づいて、少し真顔になった後、すぐに笑顔になる。イディも応えるように笑った。今日、自分たちは救われるのだ。確認するようにアレスとイディは笑って、アレスがついに突き出されるように広場に出た。群衆がどよめく声が、窓を挟んでも聞こえた。エフィは固唾を飲んでいた。これからだ。自身のイデアは、今にも昇華されようとしている。気持ちが逸ってどうしようもなく、にやにやと笑った。
「これよりアレス・フォン・リヒターを、虚偽の主張により民衆を扇動した罪において処刑する」
シュルツが叫んだ。周りの軍人たちは誰一人ぴくりとも動かず、また無表情であった。イディも皆に倣って軍人の時分の顔をした。アレスもまた同じだった。アレスから手錠が外された。
「フォン・リヒター、前へ」
シュルツの声に、アレスは大きな歩幅で石壁に向かって歩く。拭い切れずに固まった血がところどころにこびりついた石壁。准将として、処刑を見たことは何度もあった。まさか自分がこんなところに立つとは、と場違いなことを思って心の中で笑った。可笑しかった。結局抑えきれずに口角を上げてしまうほどだった。シュルツは続けて叫んだ。
「最期の言葉を聞こう」
アレスは肘を曲げたまま両手を上げて仁王立ちになると、振り返ることはなく高らかに言った。
「イディ、愛してるよ」
エフィが息を呑み、処刑人が銃を上げる。
一瞬の出来事だった。
ダン、という音の後に、数秒遅れてアレスが地面に崩れ落ちた。その瞬間、イディもエフィも同時に銃殺刑にあったような気分になった。心がすっぽりと抜けて、心臓が体の奥深くまで沈み込むような感覚。悲しいのでも驚いたのでもない、言いようのない感覚。崩れ落ちたアレスはすぐに待機していた軍部の者たちによって担ぎ上げられ、運ばれていった。五分とかからなかった。シュルツが手を上げ、全員が撤収する中、一部の人間は壁に跳ねた血痕をいち早く掃除するために群がった。イディはその様子をしばらく見ていたかったが、軍部の人間によってすぐにその場を離れることになった。その一方で、エフィはすべてを見守っていた。処刑が終われば見るものもないと、次々に帰っていく人々の中で、ただ一人立ち尽くしていた。
アレスが死んだ。
イディは茫然としていた。大丈夫だと思っていた。言いたいことはすべて伝えたし、今更何を告げられても、きっと自分は大丈夫だと思っていた。アレスは救われたのだ。
本当にそうだろうか。
押し殺していた疑念が、どんどんと形を作った。それは自分自身にそっくりな人間になると、真っ白な部屋の中で黒い椅子に座って、イディを挑戦的に見て笑みを浮かべていた。
「本当にこれでよかったと、思っているのかい」
自分の中のイディが言う。イディは頭を振ってそれを振り切ろうとしたが、イディの中のイディは笑うだけだった。
「そんなはずもないよな。きみの唯一の、家族みたいな男だったんだから。それを殺したのはほかならぬ、きみなんだよ。救済という大義名分を掲げて、だ」
イディの中のイディは意地悪くそう言うと、イディの反応を待っていた。イディは血が出るほど唇を噛み締めていた。そうだ。死が救済だと、信じていたのは誰だ。
「きみの本当の神様は、誰だったんだろうね」
イディの分身はそう言って霧のように消えた。気づいたときにはもう遅かった。イディは唇から血を流したまま、茫然と空を見上げた。
ぼくの、本当の神様は。
ほんとうにかみさまになってしまった。
イディは泣くこともできなかった。窒息しそうだった。いっそそのまま死ねれば良い、とすら思った。エフィも、離れた場所で同じ気持ちでいた。空を見上げて、ただただ呆けていた。アレスが死んだら、アレスは自分の中で生き続けるはずだった。それでもアレスは最後までイディしか見ていなかったし、アレスがイディよりもエフィを思っていたころは、当の昔に過ぎ去っていた。その日、エフィの中のアレスも死んだのだ。そして死は、何も象徴しなかった。ただただすべての終わりであるだけだった。
やたらと青い空だけが、国教の『神』としてただ二人を蔑んでいるようだった。