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第二十章

 『イデア』の鎮圧には一日しかかからなかったが、騒動が収まるまでには数日を要した。非武装で戦闘経験のない信者たちを捕まえるのは容易なことだったが、その様子を見ていた国教徒たちの混乱を収めるのに困難を要したのだ。ある一派は国教の乱暴なやり口を批評したし、ある一派は新興宗教への恐怖を露わにした。騒動が収まっても人々の心は沸き立ったままで、国教の重鎮たちは焦っていた。『イデア』自身が解体されたところで、その波紋は確かに広がっていたのだ。アレスやソフィアは信徒たちと共に逮捕されたが、エフィは雲隠れしていた。信徒たちの多くは牢に閉じ込められていて、アレスも同様だったが、信徒たちとは異なる独房に入れられていた。イディはオットーの力を借りてその独房を訪ねると、オットーに丁重に席を外すようにお願いすると、アレスを見た。国防軍と衝突した生傷が痛々しかった。


「アレス」


 イディは冷たい柵に手をかけた。懐かしい気持ちすらした。昔はアレスがこちら側に立っていたのだ。可哀想な自分を見て。イディはそう考えると、すぐに頭を振った。


「…恩赦を願っている。もしかしたら、君は追放されるだけで済むかもしれない」


 アレスは独房の隅に座って、イディのことも見ていなかった。ただ膝を抱えて、虚ろに地面を眺めている。イディは無言でその姿を見つめると、柵を撫でるようにして手を離した。アレスはようやく顔を上げると、すっかり汚れた顔でイディを見た。


「…君は正しかったよ、イディ」


 アレスは笑った。


「結局救われることなんてなかったさ」


 自虐的な笑みだった。イディは目を逸らせたい衝動に駆られたが、なんとか堪えていた。イディが尚も無言でいると、アレスは立ち上がって柵に近づき、車いすのイディと目線を揃えるためにその場で跪いた。アレスは柵に手をかけ、柵の間からイディを見ていた。


「君の言うことを聞いていればよかった。何度も救おうとしてくれたのに」


 今更何もかも遅いのだ、と二人とも分かっていた。アレスは困ったようにイディを見上げていたが、口角は上げたままだった。より一層、昔に戻ったようだった。今度は勝手が違う。何も知らないのはアレスのほうで、何もかも分かっていたのはイディのほうだった。


「昔を思い出すね」


 アレスは同じことを考えていたのか、そう呟いた。イディは軽く頷くしかなかった。心の中はもう罪悪感でいっぱいだったのだ。これで本当に良かったのか、と自分に聞いた。これしかなかったんだ、と叫ぶ自分と、放っておけばよかったのに、という冷徹な自分が喚いていた。イディは表情を崩さないことに全身の力を使っていた。


「あの時、君は僕のことが神様に見えたと言ったけど」


 アレスは寂しそうに目を細めた。


「今では、君が僕の神様に見えるよ」

「…そんなことはないよ」

「あるさ。ここから救ってくれるんだろう?」


 精一杯絞り出した返答も、すぐにアレスの嘘くさい陽気な声でかき消された。アレスが柵の間から手を伸ばし、イディの手を取る。イディはされるがままにその手を握って、ひどく後悔した。少なくとも、ここに来るべきではなかったのかもしれない。


「イディ、僕は君のことが好きだったよ」


 アレスは優しい声音でそう言った。その言葉で、イディはようやく決壊した。開いている方の手で頭を抱えて泣いた。いい歳をして、と冷徹な自分が言ったが、そんなことはどうでもよかった。次から次へと涙が流れるばかりで、最後には嗚咽していた。アレスもいつの間にか泣いていたが、声は出さなかった。イディはしばらくしてようやく顔を上げたが、顔はぐしゃぐしゃになっていた。


「愛してるよ、今でも」


 イディは泣く。アレスは握っていた手を離して、イディの頭に置いた。


「分かってる。だから最後のわがままだよ」


 アレスは泣きながら、精一杯笑った。


「恩赦なんか、要らない」


 イディが絶望に包まれて固まるのと、地下牢に降りてくる足音がしたのは同時のことだった。イディが『イデア』について告発し、このすべての事態を率いていた壮年の牧師が現れた。牧師はイディがそこにいることに少しぎょっとしたが、すぐに厳格な表情でかつかつと二人に歩み寄った。牧師はイディに去るように命じることを考えたが、従いそうもない、と考え直していた。牧師の背後にはまだ若い別の牧師が二人ついていた。


「アレス・フォン・リヒター」


 牧師が深い声でアレスを呼んだ。アレスは名残惜しそうにイディから手を離すと、立ち上がってそちらを向いた。涙は拭かなかった。


「処分が決まった」


 イディは恐怖のあまりそちらを見ることができなかった。次の言葉はもう明確に分かっていたのだ。ずっと分かっていたのに、目の前に突き付けられた今になって、事の重大さが身に染みた。牧師が口を開く。イディは叫び出しそうだったが、地下牢は静まり返っていた。






「異教徒として民衆を扇動した罪により、死刑を命じる」






 アレスは唇を噛んですぐに挑戦的に笑い、地下牢にはイディの嗚咽だけが響いた。


「明後日だ。心の準備をしておくように」


 牧師は申し訳程度にそう言うと踵を返し、今度は階段を上がっていく。泣き止まないイディに、アレスはもう一度だけ手を伸ばしてその頬に触れると、子供のように屈託なく笑った。


「死が救済とは、よく言ったものだね」


 どこかで聞いた台詞だった。自分が言ったのだ、と思い出すまでには時間がかかった。アレスを心配させてはいけない、と自分の中の自分が意見の一致を見ていた。イディは精一杯笑ったが、結局苦しげな表情になっただけだった。




* * *




 騒動から逃走したエフィは、屋敷に戻っていた。遅かれ早かれそこにも国教の者たちがやってくるとは分かっていたが、行き場がなかったのだ。どうして、とエフィは思っていた。どうして、と思うたびに怒りが沸くので、しまいには本部となっていたデスクの上に置いてあるものをすべてなぎ倒していた。ふと一冊の本が転げ落ちて、エフィの目に留まった。『イデアの肖像』だった。諸悪の根源だ、とエフィは思った。本を乱暴に掴んで、窓の外に投げようと振りかぶる。それから思い直して、適当な椅子を引っ張ってきてそこにどすんと座ると、最後のページをめくった。『イデアの肖像』は途切れていた。背筋が凍る思いだった。そうだ、アレスはきっと、処刑されてしまうのだ。


 だからこの物語は続かない。


 エフィは頭を抱えた。ただただ、彼に見初めてもらいたいだけだったのだ。イディが羨ましくて仕方がなかったから、模索に模索を重ねた結果だった。イディがいなくなれば、自分を見てもらえると思った。結局、アレスは最後までイディしか見ていなかった。それでも、一瞬でも彼は自分のものだったはずなのだ。エフィは混乱する頭を抱えたまま立ち上がると、薪がくべてあるだけの暖炉に近づいておもむろにマッチを擦った。暖炉に火をつけ、燃え上がるのを待って、持っていた『イデアの肖像』をその中に放り投げる。この物語はもう、続かない。思えば思うほどに絶望して、その場にへたり込んだ。


 アレスはエフィの『イデア』に他ならなかった。エフィにとって彼はいつだって真実だった。頭が良くて、育ちも良く、見た目も麗しかった。そうでなければいけないと、エフィが強く願っていたものをすべて持っていた。彼が自身のイデアであると信じたかった。そうすれば救われるはずだったのだ。彼についていけば、きっと自身も報われるのだと固く信じて疑わなかった。その『イデア』が潰えようとしていた。守ることだって出来たのかもしれない、と思うと、車いすからよろめくように立ち上がったイディが連想された。彼はアレスを守ろうとしていた。ずっと。


 それでも。


 エフィは燃え盛る炎を見ていた。イデアはイデアの世界に存在するべきものではなかったか。昔学校で習ったことを必死で思い返そうとしていた。それならば、アレスはきっと死なない。イデアとなって、彼のいるべき世界で、永遠に生き続けるのだ。そしてその世界でのみ彼は幸せになれる。エフィは目を見開いたままくすくすと笑い始め、しまいには大声で笑っていた。そうだ、その通りだ、と自分の中で思った。『イデアの肖像』はただの物語に過ぎない。現実なら、書き換えてしまえばいい。エフィは立ち上がると、のろのろと部屋を出て自身の部屋に戻ると、緩慢な動作で支度を始めた。


 見届けなければならない。


 自身のイデアが昇華される、その瞬間を。

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