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第十九章

 デモが行われた当日は、淀んだ曇り空の日だった。今にも雨が降りそうで、幸先が良さそうな天気ではなかったが、『イデア』の群衆は誰一人としてその空模様に気を留めてはいなかった。リューゲの都にほど近い場所に集合し、皆が手ぶらだった。アレスとエフィだけが、もしものときのために、と軍から支給されたリボルバーを所持していたが、それはひた隠しにされていた。あくまでもこれは平和的なデモになる予定だった。ソフィアは『イデア』の中でもヴァーズニッヒを動かした功績のために高い地位を当てられていたので、仕立てられた良いドレスに身を包み、既に素朴な表情はどこかへ消えてしまっていた。『イデア』の民にとってソフィアは聖母に他ならなかった。『イデア』自体の人数は、あの日から増える一方だった。すでに五百人近い信者を抱えていたから、アレスの自信も頂点に達していた。これだけの数がいれば、いくらリューゲでも混乱させられるに違いなかった。


「諸君」


 アレスが叫ぶ。


「聖戦への準備は良いか」


 エフィはアレスの隣で群衆たちを見下ろしていた。エフィは『イデア』に興味などなかった。ただ、イディのいた場所にいることができれば良かったのだ。アレスの襟足を見つめて、エフィは満足そうに笑う。あの日、エフィはイディが死んだものだと思っていた。でも、これではもう死んだも同然だ。あの孤児は惜しいことをした、とエフィは心の中で思ってほくそ笑んでいた。アレスに先導されて、『イデア』はリューゲへと進む。それがすべてオットーによってイディをはじめとする国教の人間たちに把握されていたことを、アレスもエフィも知らなかった。


 リューゲでは国教の率いる国防軍がすでに門前で待ち構えており、イディは最後尾にオットーと共にいた。本来ならば最前線でアレスと出会いたかったが、身体が許さなかった。それでも牧師には、告発の報酬としてアレスを捕まえることがあればどのような処置を下す前にも自身に会わせてほしいと約束していた。イディは久方ぶりに昔の軍服に腕を通していた。


「本当にこれでいいのか」


 オットーは物々しい様子に怯んで言ったが、イディは無表情だった。オットーの言葉が聞こえていないのか、何も言わない。オットーはその張り詰めた横顔を見ると、すぐに諦めて下を向いた。いよいよ自分に出来ることなど何もないのだ、と悟ったからだ。次第に軍の前方がどよめき始め、『イデア』が進軍してくるさまが見えたのが分かった。そのざわめきにイディはふと顔を高く上げ、目を見開いて様子を伺おうとした。


 アレスはといえば、予想外の待ち伏せに舌打ちをしたものの、止まる気はなかった。数十名がその状況に逃げ出したが、ソフィアを始めとする残りの者たちは士気に溢れていた。軍は武装しているが、アレスは門に近づくと仁王立ちになって指揮を執っていた壮年の牧師を見た。エフィが右手を上げ、群衆が足を止める。アレスは意地悪そうににやりと大きく笑った。


「随分物騒ですね」


 よく通るアレスの声が、イディにも聞こえていた。イディはそのまま立ち上がって駆け出したい衝動を抑えながら、事の成り行きを見守る。アレスの声が続いた。


「我々は平和的解決を望んでいます。死は救済などではない。貴方達が我々を殺したところで、我々は生き続ける」

「そんなことはない」


 気づけばイディも叫んでいた。国防軍が驚いて全員背後のイディを見つめた。オットーがここぞとばかりにイディの車いすを押し始めると、軍は二手に分かれるとイディを通した。誰もがイディの顔を知っていたからだ。『冥府の守り人』とまで呼ばれたことすらあった。変わり果てたその姿に、軍の者たちは少し驚いた。イディが国防軍の最前線、牧師の隣までたどり着くと、オットーは車いすに手をかけたまま死を止めた。


 アレスとイディが、かなりの距離を挟んで対峙した。


「……イディ」


 大きく口角を上げたまま、アレスは呟く。エフィはあからさまに眉を寄せると、イディを憎しみの目で睨んでいた。何をいまさら、邪魔をするのだろうか。もう何もかも遅いというのに。


「死が救済でないなら、死はすべての終わりだよ。永遠に生き続ける命なんてないって、きみだって知ってることなのに」


 イディは叫んだ。アレスはひるまなかった。


「この分からず屋め。この期に及んで僕の邪魔をする気か? 君をあの恐ろしい場所から救ったのは僕だっていうのに?」

「今、恐ろしい場所に立っているのはきみのほうじゃないか」


 誰もがその様子を静かに見守っていた。イディは意を決して立ち上がった。倒れても構わないと思った。このままでは話がしきれない。アレスは立ち上がったイディに一瞬だけ驚いて、思わず手を伸ばそうとした。エフィはそれを見逃さずに、アレスより前に進み出た。


「それ以上彼を侮辱してみろ、僕が許さない」

「この裏切り者めが」


 エフィを見るや否や、イディの顔色が変わった。戦場で誰もが見たことのあるイディになっていた。敵を見据えて目の色を変え、普段の緩慢な動きがすべて嘘だったかのように変貌する。イディは瞳孔を開いて言った。


「アレスをそそのかしたのはきみだな」

「聞き捨てならないな。アレスを先に見捨てたのはお前のほうじゃないか」

「きみが本当に彼のことを思っているっていうなら、きみはこちら側にいるべき人間だ」

「彼の求めることを与えないのが君の愛か?」

「愛してるからこそだよ」


 イディが甲高く叫び、アレスは動揺する。ソフィアも前に進み出てアレスを支えようとしたが、アレスはその手が届く前にエフィを退けていた。退けられたエフィは目を見開いてアレスを見た。


「最後のチャンスだ、イディ」


 アレスは懇願するような震える声音で言った。






「君の本当の神様は、誰だい?」






 あたりがしんと静まり返り、イディはそれでもなお意地だけでその場に立っていた。イディが唇を噛み締め、その黒い目からついに涙を流す。堪えきれなくなって、イディは下を向き、疲労で両方の太ももに手をつくと、あらん限りの声で叫んだ。






「君では、ない」






 それが開戦の合図だった。アレスとエフィを残し、今度はソフィアが軍を率いた。国防軍もイディを避けるようにして前に進み出る。イディは顔を隠したまま車いすに倒れ込むと、そのまま顔を覆って肩を震わせた。オットーは黙っているばかりだった。アレスは進軍していく自身の信徒を眺めながら、ただ茫然としていた。


「あんな奴」


 エフィはその様子についに腹を立てて、群衆の叫び声に負けないように強く言った。


「あんな奴、もう忘れてしまいなよ。君のことなんて何も考えてやしないじゃないか」


 アレスは応えなかった。人形のように呆然と立ち尽くすばかりだ。アレスの中で、あの『イデア』とイディの姿がもう一度重なった。真実は、ほんとうは、彼なのではないだろうか。


「イディ」


 アレスはうわごとのように呟いて、その場に座り込んで泣いた。


「…どうしてこんなことになってしまったんだろう」


 そこここで衝突する人々の声の中で、アレスはエフィにも聞こえないような声で呟く。幸せだったはずなのだ。それははっきりしていた。母が死に、イディがあんなことになって、それでも憎めるのは存在していた神しかいなかったのだ。


「仕方ない、仕方なかったんだ」


 アレスは言い聞かせるように言って、涙をぬぐって顔を上げ、立ち上がる。もうエフィのことは見えていなかった。軍を扇動するために、アレスは群衆の方へと向かって駆け出した。






「『イデア』に栄光を」






 アレスの声が響き渡り、エフィは戸惑っていた。どうしてこんなことになってしまったのか、エフィにも見当がつかなかった。

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