第一章
大戦により混乱する世界とは裏腹に、首都リューゲの一日は極めて平和なものであった。雄鶏の鳴き声を待っていたかのように人々は活動をはじめ、新鮮な果実やらパンやらを並べた市場が並び、子供たちは石を蹴りながら連れ立って学校へと足を向け、そのうちにリューゲはざわめきと怒声、それから笑い声に満ちていく。アレスはそのような退屈な街の光景を軍部の二階にあるバルコニーから眺めながら、無表情で頬杖をついていた。鳥の羽のように長く密集した睫毛をたまにしばたかせ、ため息を漏らす。その光景を後ろから眺めていたイディは少し微笑んでからアレスの背後につくと、同様に街を見下ろした。
「退屈だ」
アレスはイディを振り返ることなく、独り言にしては非難めいた声色で言った。イディは何も言わず、ただ両手を後ろで組んで(軍人故の癖だった)次の言葉を待つ。こういうときは不用意に発言しないほうがよい、というのは、イディが知っている数少ない処世術のひとつであった。アレスは突然振り向き、イディを睨みつける。それでもイディは表情を変えず、ただただアレスを見つめながら、背筋を伸ばして立っていた。
「なんとか言えよ、この愚図」
イディは口を閉じたままである。アレスは大きなため息をついて、自分よりほんの少しだけ背の高いイディを上目遣いで見つめると、彫像と化している相手を避けるように室内に戻り、手近な椅子を引き寄せて座った。イディがゆっくりと身体の向きを変え、手は背後に回したままアレスを見る。
「イディ」
断固とした口調でアレスが言う。眉根を寄せ、イディを睨みつけながら、首を傾げて腕と足を組んでいる。イディは近くにあった別の椅子を引き寄せると、背筋を正したままそこに座り、今まさに授業を受けようとしている子供のように両手を両膝の上に置いた。アレスはしばらく沈黙してから、形の良い唇を歪めたまま再び口を開く。
「なんだか、不満そうだな」
イディはなにも言わない。
「君はいつだってそうだよ。そうやって育ちの悪い犬みたいに僕の言葉を待ってさ。自分が何をしたいのかも言えないどころか、何を与えられたって、飼い主の区別もつかないんだろう?」
イディはアレスの湖のような瞳とは裏腹に、真っ黒で虚ろな目でアレスを見つめ続ける。アレスは大げさに右手の甲を額に乗せると、椅子に大きくもたれかかってはぁ、とこれ見よがしに失望の声を上げた。
「なんだって僕は君なんかを選んだんだろう。もっと使い勝手の良いやつはたくさんいたはずなのにな。君ときたら主体性が無くて、何にも面白くないのさ。なあ、なんとか言えよ」
「…ぼくはきみのこと、すきだけど」
ようやくぼそぼそとイディが口を開くと、アレスは笑ったのか馬鹿にしたのかわからないような小さな声を上げて、椅子の前後をひっくり返して座り直した。背もたれの上で腕を交差させてガタガタと椅子を揺らす。イディは少し微笑んでいた。
「そう言うのを求めてるんじゃないのさ。分からないかな。分からないだろうね、君みたいな教養のないやつには」
「言ってもらわないとわからないんだよ、ぼくは」
「それが面倒なのさ。少しは僕の意思を汲んで先回りしようとか思わないのかい?」
「ぼくはきみの言う通りにしか動かないということだよ。大体にして、そう命じたのはきみじゃなかったかな」
「ついに口答えか。良い身分になったもんだなあ、君も」
そう言いながらも少し口角を上げると、アレスは椅子を揺らすのをやめた。何か面白いものはないかとばかりに室内を見回し、すぐに飽きたのかもう一度深く背もたれに顎を乗せると、
「では聞こう」
と明朗な演説者の声音で言う。
「イディ、君は神様を信じるかね」
「そうだね、その神様とやらがきみであるならばぼくは信じるだろうね」
イディはそう言って微笑み、アレスは満足そうに頷く。
「神様の存在は絶対かね?」
「その神様がきみであるならば、そうだろうね。だってぼく、ずっと前に約束したもの」
「まあ、いいだろう。及第点をやるよ」
アレスが肩をすくめてそう言うのと、部屋の扉がノックされたのはほとんど同時のことだった。入りたまえ、と言うが早いか、アレスは立ち上がって椅子を元の位置に戻す。失礼します、と顔を出した青年は部屋に滑り込んでかかとを打ち、敬礼すると、アレスに向かってその命を報告する。
「シュルツ上級大将より召集であります。帝国北部において予期せぬ交戦有り、至急指揮司令部に集合せよ、と」
アレスは青年が語り終えるより先に軍服のコートを着込み、ボタンを留めながらカツカツとブーツを鳴らして扉の方へ向かう。
「イディ」
扉を開いて待つ青年をよそに、アレスは途中で足を止めると、ふと思い出したかのようにイディを振り返った。
「朝になっても三時には戻るよ。上等なウイスキーでも見繕っておいてくれ」
返答の代わりにイディが模範的な敬礼を見せ、アレスは青年と共に部屋を後にする。残されたイディはしばらく敬礼を続けると、アレスの足音が聞こえなくなったところで手を下ろし、振り返ってバルコニーの外に広がる空を見た。雲ひとつない快晴である。上等なウイスキーならば、ローレンツの店か。頭の中であたりをつけて、イディはふと壁にかけてあった聖母の絵画に目を向けた。聖母は腕の中の赤子に視線を伏せ、背後には後光が描かれている。イディは思わず聖母の頰を指で撫でると、すぐに手を引っ込め、やたら大きな音のする扉を開いて、自身の仕事場へと向かった。