第十八章
『イデア』の再興は早かった。ヴァーズニッヒを含めた農村の人々を巻き込んで増えた信者は、周りの人間の興味を引いた。ユーピテルの力でねじ伏せられていた人々の中でも、変わらず生活に困窮していた人々が何人か『イデア』に戻ってくることすらあった。アレスは恐る恐る恩赦を願う彼らの帰還を大袈裟に歓迎して受理した。信者が増えれば増えるほど、ミサの度に群衆が大きくなった。まだ信徒になる決意をしていない者にもアレスは対等に接した。
「急ぐ必要はどこにもありません」
アレスは語る。
「貴方方が真実を求めるなら、我々はいつでもここにいるでしょう」
さらにアレスは、国教徒の隠れた『イデア』の信仰も許可していた。たとえ恐れのあまり国教を捨てられないものの、『イデア』に興味のある人間ならば誰でも迎え入れた。
「いつかきっと、我々も堂々と信仰を掲げる日が来るのです。そのときまで国教に頭を下げていたとしても、真実は変わりません。貴方のイデアは確かに存在するのですから」
エフィはその様子を満足そうに見守るばかりだった。そのうち『イデア』はだんだんと組織化され、アレスとその従者であるエフィのほかに、アレスが何人か敬虔な信徒を見繕って国教の牧師に当たる仕事を与えた。自ら宣教に名乗り出る者もいた。再興した『イデア』は新興宗教と呼ぶに足りる姿になっていた。屋敷の中で自身に充てがっている部屋で、アレスは信徒の前に出る際に必ず着用するようにしていた仰々しい上着を脱ぐと疲労に深いため息をついて、それでも楽しそうにエフィを見た。
「順調だね」
エフィはベッドの縁で言う。真っ白な服で固めたその姿は、『イデア』のシンボルに相応しいものだった。アレスは微笑みながら頷いて、エフィの頭に手を置く。君のおかげだよ、とアレスは素直に言った。
「君を選んだのは間違いではなかった。君は本当に良い働きをするね」
「…あの孤児よりもかい?」
アレスの言葉に、エフィはぎらりと目を光らせて控えめに言った。エフィの中で、イディに対する闘争心はまだ消えていなかった。アレスはエフィの頭を撫でようとしていた手をぴくりと止めると、まじまじとエフィの顔を見て、それから卑しく笑った。
「彼は僕を見捨てたんだよ。そんな奴をどうして愛せると思う?」
「僕はずっと君についていくよ、アレス」
悪人のような顔でにやにやと笑うエフィを、アレスは気にも留めなかった。代わりにエフィを離れると、やや離れた場所にあるソファに座る。古臭く、スプリングも疲れ果てたソファだったが、アレスは足を組んでそこにもたれかかった。
「そろそろだと思うんだ」
アレスは背もたれに片手を回すと、エフィに向かって言った。エフィはベッドから立ち上がり、つかつかと歩いてアレスの隣に座る。ソファの上に足も上げて、女性のように座りながらエフィは話の続きを待った。
「人数的には申し分ない。ほとんどの人間はリューゲの配下にない。デモを起こしても、多少の死人やけが人は出るだろうが、今度こそ崩壊はさせられないはずだ」
「同意見だね。まずは見せつけてやることが大事だと思うよ。僕たちが、どれだけ本気なのか」
「平和的なデモならリューゲの人間もこちらに関心を抱くだろう」
アレスはエフィを見ると、大きく口角を上げた。
「ねえ、アレス、僕は君のことが好きだよ」
エフィは突然言った。アレスはその顔をしばらく見つめていたが、すぐに鼻を鳴らした。
「分かってるよ」
「僕は君を見捨てたりしない。君は僕の神様なんだ。ずっと」
「そうだよ。僕は君の神様だ」
アレスはうんうんと頷いて言う。エフィは満ち足りた様子で唇が擦れたような小さな笑みを漏らすと、さっと立ち上がってドアの方へ向かった。途中で立ち止まり、振り返る。
「デモについて、連中と話し合ってくる。明後日には計画が出来上がると思うよ」
「その点は任せたよ」
エフィは返事の代わりにいつもの『天使のような』微笑を返すと、そっと部屋を出て行った。残されたアレスは閉まったドアを眺めていたが、すぐにソファにもたれるのをやめて、前傾姿勢になって膝の上で手を組むと、組んだ手に顎を乗せた。
「イディ」
その名前を呼ぶ声は、もはや憎しみに満ちていた。愛情ゆえでも、悲しみゆえでもなかった。アレスは眉を寄せて、いないイディを睨みつけるように中空を見ていた。
「愚図の君が考えられることなんてたかが知れてるのさ。今更何が救済だ。君をずっと救ってきたのは僕だっていうのに」
アレスは明瞭な声で独り言ちた。
「君に邪魔なんかさせない。僕を信仰しない君なんか、もう要らないんだ」
そしてその頃、イディは牧師たちを前にしていた。軽く信仰を示す動作をしたあと、イディは顎を上げて彼ら一人一人に挨拶するように視線を送ると、目の前に座る壮年の男性を見た。彼がこの大聖堂で一番偉い牧師だった。牧師は全員が着席するまでの間、無言を貫いていたが、部屋が静まり返ると深い声でイディに聞いた。
「して、告発とは何のことかね」
イディは無表情のままだった。
「『イデア』を御存じでしょうか」
「フォン・リヒター氏のご子息が関わっているというあの団体のことかね」
「左様です。フォン・リヒター氏の息子は私の友人です。彼は母親を亡くしたショックで人が変わってしまいました。今はイデアなんて、訳の分からないものを追いかけて、自身を神だと宣言しています」
何人かの牧師たちが笑った。壮年の牧師はそれらを視線で一蹴して、イディに言葉を続けるように促す。
「『イデア』は危険です。現在はヴァーズニッヒを中心としたリューゲの市議会の手の及ばぬ村々の人間をそそのかしているようです。規模はそれなりに大きい。恐らく次の行動はリューゲにおいての宣教でしょう。早めの対策をお伺いに来ました」
イディはすらすらと述べた。壮年の牧師が困惑と不審の入り混じった顔でこちらを見ていた。その頃にはイディもまっすぐ座っているのに疲れていたが、ここで倒れるわけにはいかなかった。
「たかだか数百人の新興宗教を相手に、我々が動く必要があるかね」
「…戦争において、何が一番恐ろしいかを御存じですか」
その言葉に、牧師は戸惑う。顔や手に複数の小さな傷を残したイディには説得力があった。イディは構わず続けた。
「反乱分子です。事実、私がこのようなことになったのも、軍の裏切り者のせいでした。そして私はそれが誰なのか、確信しています」
「…続けたまえ」
「彼は『イデア』で『使徒』を名乗っているようだ」
イディの頭が、意志とは関係なくその日の出来事を巻き戻した。あの日イディの目に最後に映ったのは、雨の中で光る金色の巻き毛と、アレスよりも濃く深海のように真っ青な目だった。それがエフィ・バウアーという名前で、今はアレスのそばにいることを、イディは確かめていた。
「軍部には通達してありますが、照合には時間がかかる。その間に首都でデモでも起こされたら、リューゲは混沌とするでしょう。この戦火の中で、これ以上この国が問題を抱えていいはずはありません。それを止められるのは貴方方だけだ、と思ったのです」
イディが言うと、牧師は遮るように右手を上げた。イディは軍人であったときのように命令通りすぐに口を閉ざすと、牧師は大きなため息をついて、組んでいた手に額を押し付けた。
「君の申し出は検討しよう。ただし、フォン・リヒター家のご子息は君の友人なんだね?」
牧師は確認するように聴く。イディが頷くと、牧師も頷いた。
「彼の身の保証が約束できないことを、分かっていての告発かね?」
「承知の上です」
イディは吐き捨てるように言い切った。部屋がざわめき、牧師は驚いてから顎髭を撫でる。
「恩赦はもちろんお伺いいたします。ただ一時の気の迷いであることと、そのようなことになった正当な理由があると私は思います。ですが、私はあくまでも彼を救いたいだけなのです」
淡々としていた言葉に、熱が籠り始めていた。
「どうか、お願いいたします。彼を救ってほしい」
イディはそう言って頭を下げる。イディの目には見えていなかったが、牧師は逡巡したあと、有無を言わせぬその厳しい口調で、一言だけ言った。
「よろしい。『イデア』を異教徒として認めよう」
イディは頭を上げなかった。唇を噛んで、ずっと自分の膝を見つめていた。
もう後戻りは、できない。