第十七章
ヴァーズニッヒの『使徒』の噂は、エフィが思っていたよりも早く出回った。農作物を出荷したり、隣村と交流したりしている間に、ヴァーズニッヒの民が『新たな神』について漏らしたのだ。話は瞬く間に、主にリューゲの力の及ばない小さな農村に知れ渡り、その次の日曜日にアレスが屋敷にたどり着くと、屋敷の前には見たこともないほどの人だかりができていた。皆が粗末な格好をして、中には大荷物の者も、引き車に家財道具を積んできた者もいた。エフィは門の外でアレスを待っていた。
「何の騒ぎだ」
アレスは目を見張って言った。エフィは満足そうに微笑む。
「君の力だよ」
エフィはそう言うと手を差し出し、アレスを引っ張った。門にほど近いところにいた群衆がその動きに気づくと、群衆の中心が左右に割れて道が出来た。誰かが何かを叫び、その叫びを合図に群衆から歓声が上がった。アレスには何がなんだか分からなかったが、国教の者たちが攻め込んできたわけではないというのはすぐに判別ができた。エフィに導かれるままアレスはポーチを上がり、振り返って群衆を見る。エフィはアレスのすぐ後ろに立って、囁くように言った。
「みんな君の噂を聞きつけてきたんだ。みんな、君が救うべき『救われない者たち』なんだよ」
アレスはエフィを見て、それから群衆をもう一度見た。皆が期待に満ち溢れた顔でこちらを見ている。群衆はじりじりと前に迫っていて、屋敷の前庭を埋め尽くすほどだった。アレスの中で、消えかかっていた自信に再び火がついた。アレスは意を決して群衆を前にすると、高らかな声で言った。
「救いを求める者たちよ、貴方達は正しい選択をした」
群衆は息を飲んでその様子を見つめていた。ソフィアは群衆の最前でアレスを見上げ、エフィに視線を送ると、目が合ったのを確認してそっと頭を下げた。アレスはその様子には気づかずに、熱に浮かされたように顔を赤くした。
「国教は間違っている。それは貴方達も分かっていることだと思う。私はかの悪名高き、持てる者ばかりに栄光をもたらす神をこの手で祭壇から引きずりおろそうとしているのだ」
アレスは身振り手振りを加えて熱弁した。群衆が沸く。アレスは一度口を閉じて間を溜めると、これは戦争だ、とエフィにしか聞こえない声で呟いた。
「これは聖戦だ。間違う者を正して何が悪い? 我々こそが真実だ、『イデア』なのだ」
言い切ると、群衆はそうだそうだと口々に叫んだ。中には涙を流す者もいた。ソフィアも目に涙を溜める一人だった。日光にほど金色に近い鳶色の髪を光らせ、瞳孔の開いた大きな青い目で群衆を見つめるアレスは、群衆の目にはこの世のものには見えていなかった。
「私の名前はアレス。君たちの神となる者だ」
そして、オットーは門の前で立ち止まっていた。その言葉を聞いて、背筋が凍るような思いだった。群衆の一番後ろからアレスを見たが、アレスがこちらに気づくことはなかった。オットーは沸き上がる群衆を前にして、イディに知らせなければ、とただそれだけを思った。オットーは急いで踵を返し、リューゲの街に戻ろうと歩き始める。次第にその歩幅は大きくなっていき、速くなっていって、しまいにはオットーは走っていた。イディに知らせなければ。すべてが手遅れになる前に。
そうしてオットーがリューゲの大聖堂に帰ったとき、イディはオットーを待っていたように祭壇の前にいた。足音に顔を上げ、オットーの顔を見るなり、無表情で目を伏せた。オットーは息をつこうと身体を折って何も言えずにいたが、イディは車いすを動かしてオットーのそばによると、その肩に片手を乗せた。
「ありがとう。もうじゅうぶんだよ」
荒い息をしながらオットーがイディの顔を見ると、イディは笑っていた。オットーにはその微笑の理由がわからなかったが、先ほどのアレスよりよっぽど世離れした顔つきだった。何もかも分かっていて、そしてすべてを受け入れた顔。すべてを拒否して今にも戦おうとしている人間と、ずっと一緒に生きていた男の顔だとは思えないほどに穏やかな顔だった。
「アレスは決めたんだね」
「…ああ」
「そうなることは分かっていた。ぼくは誰よりもアレスのことを知っている自信があるから」
イディは苦笑した。もう腹を決めている、という様子だった。オットーが深呼吸をして折っていた身体を元に戻すと、イディはその肩から手を離して続けた。
「国教に、『イデア』を告発する」
その言葉を聞き返そうとして、オットーは一度失敗した。正気か、と絞り出すのが精一杯だった。国教の異教徒に対するスタンスは明白だった。自身たちの神を信じぬものは、改心をしない限り排除されるべきだとされていた。改心したとしても、元々異教徒であったことはついて回るし、まっとうな生活を送ることは国教が許さないだろう。イディがアレスの行動をすべて告発するようなことがあれば、アレスの命運は決まっていた。
死だ。
イディは微笑んだままだった。
「こうするしかないんだ。もちろん恩赦を受けられるように申し出る。早いうちに告発してしまえば被害も少ないかもしれない」
イディはもはや別人のようだった。元々ひどくたどたどしかったのが、流れるようにそう言葉を紡ぐ。でも、とイディは強く言った。でも。
「たとえばアレスが罪に問われても、ぼくは間違ったことはしていない」
有無を言わせぬ口ぶりだった。黒い瞳が、祭壇の光を反射していた。
「アレスはきっと」
そこで、少しだけ言葉に詰まる。祭壇を睨みつけて、決心したように言い切る。
「アレスはきっと、もう二度と戻れないから」
オットーはもう何も言えなかった。イディがそのとき、否定も肯定も必要としていなかったからだ。黙るオットーに向き直って、イディは再び笑った。今度は少し疲れているようだった。
「オットー、ありがとう。きみはもう、普通の生活に戻りなよ」
「見届けるよ」
言葉尻にかぶせるように、オットーは早口で言う。イディは少し驚いたようだった。オットーは拳を握って、イディを見下ろした。
「見届けるよ。俺はお前らの友達だったんだぞ。たとえばそうじゃなくなってしまっても、俺にだって見届ける権利くらいあるだろう」
イディの顔を、逡巡の色が駆け巡った。それでもオットーの意志は強く、じっとイディを見つめる。そのうち根負けして、イディはそう、と小さな声を漏らした。
「わかったよ。でもね、オットー、きみは絶対こっち側にきてはいけないよ」
イディはそう言って再び寂しそうに笑い、その瞬間、オットーは自分とイディの間に決定的な溝を見た。柵のようだ。黒くそびえたつ、刑務所のような柵。その先に、オットーは行けない。昔、アレスとイディがそうだったように。その柵はきっと、ずっと超えられないものだったのだ。どんなに手を伸ばしても、触れていても、アレスとイディはきっと分かたれたままだった。オットーはその柵にしがみつきたい衝動に駆られて、思わずイディに手を伸ばすと、躊躇してその手を引っ込めた。
「祈ってるよ」
オットーは散々言葉を選んでから、静かに言った。
「アレスが、せめて、生きていられるように」
「死こそが救済だとは、よく言ったものだね」
そのときのイディの表情を、オットーは一生忘れることがなかった。目の奥に深い絶望を宿して、それでも口を結んで、大声で叫びたいのを我慢しているような顔。イディは口角を少しだけ上げて笑ったふりをすると、車いすを動かして宿舎のほうへと戻っていった。残されたオットーは、ただ茫然とそこに立ち尽くすしかなかった。