第十六章
エフィは根回しに奔走していた。
アレスには『奇跡』が必要だ。そう信じていた。そしてそれを与えられるのは自分だけだと、根拠のない自信に突き動かされていた。手順は分かっていた。信者を取り戻すのが先決だ。それには、アレスの父親の力が及ばないところに行く必要があった。失った信者を取り返すのは難しい、とエフィは判断していた。
ヴァーズニッヒは、リューゲにほど近い農村である。エフィが目をつけたのはそこだった。リューゲには近いが、リューゲの市議会の力は及ばない。人里離れた村なので、恐らく『イデア』の噂も届いていないはずだった。ヴァーズニッヒにはお粗末な教会があり、国教の支配下ではあったが、彼らにとって重要なのは自身の行く末よりも今日の農作物だった。エフィは真っ白なローブを着て、運転手を雇ってヴァーズニッヒに向かった。聖職者に見えるように身なりを整えたつもりだった。
ヴァーズニッヒの村は思った通り閑散としていて、どの家も粗末な作りであった。村民は突然乗り付けられた車に驚いて、興味深げに観察する者と、いそいそと家に帰っていく者に分かれたが、エフィがヴァーズニッヒの地に足をつけると、皆が少し息を呑んだ。金色の巻き毛に、深い海のように青い目を、汚れも皺もない白いローブが際立たせていた。エフィは手近な村民に近寄ると、恭しく挨拶をした。
「突然のご無礼、お詫び申し上げます。村長にお会いしたいのですが」
簡潔に要件を伝えると、村人は仰々しく跪いて頭を下げ、すぐに立ち上がってエフィを先導した。連れていかれたのはただでさえ人気のない村から隠れるように立っていた木造の小屋だった。村長だという人物は驚いたことに三十代ほどの質素な風貌の女性で、エフィはそこでついに確信した。これはきっと成功する。
「突然申し訳ない。私はエフィ・バウアーと申します」
エフィは流れるような動作で頭を下げると、村長はぎこちなく頭を下げた。
「ソフィア・マイヤーです。この度は遠路はるばる、どのようなご用事でしょうか」
ソフィアは長らくそんな言葉は使ったことがないといった様子でどぎまぎと続けた。思い立ったようにエフィに粗末なダイニングテーブルの椅子をすすめ、自らも対面に座る。お若い村長ですね、とエフィはにこやかに言った。ソフィアは恥ずかしさのあまりに俯いていた。
「父が、亡くなりまして」
「それはお辛かったことでしょう」
「母も早くに亡くなりましたから…。辛い、というよりは、こういう運命であったのだと」
エフィが観察したところ、家にある国教を彷彿とさせるものは、壁にかかった荒い作りの十字架程度だった。エフィはソフィアの言葉に一瞬だけ目を輝かせ、すぐに穏やかな表情に戻って深く頭を下げた。
「ご冥福をお祈り申し上げます。しかし貴女はまだお若い。運命などに翻弄される歳ではないでしょう」
「歳など、関係がありましょうか。運命というものは降ってかかるものです」
「そのように国教が教えましたか?」
エフィは平和的な口調を保ったまま言った。ソフィアは一瞬こちらを見て、すぐにまたばつが悪そうに下を向いた。エフィは笑う。卑しい笑みがこぼれずに良かった、と内心安心していた。
「ご安心ください。わたしは国教の者ではありません」
その言葉に、ソフィアが恐る恐るエフィを見る。濃い茶色の髪によく映える、ヘーゼル色の目だった。
「異教徒でおありですか」
「恐れる必要はありませんよ」
「そのようなことが許されるのですか」
「許す、許される、というのは国教の言い分です。人の信仰心はもっと自由であるべきだ」
エフィは朗々と続けた。ソフィアは少し警戒を解いたのか、ほっと溜息をついて胸のところで右手を握った。
「国教を信じていないわけではありません。今でも我々ヴァーズニッヒの者たちは作物の収穫を神に祈ります」
「神は貴女方を救いましたか?」
その質問に、ソフィアは困ったような顔で言葉に詰まった。
「…私は、国教の神の力不足を嘆いています。私の周りにも、何人も大切な者を失い、今も無き救いを求め彷徨っている者たちがおります。そのような人々を救わずして、神があらせられる意味はあるのでしょうか」
エフィが言うと、ソフィアは眉を寄せてなおも困惑した。エフィは喋るのをやめなかった。
「私は、神に出会いました」
その言葉一つで、ソフィアが急に顔を上げ目を見開いた。エフィははやる気持ちを抑えるので精一杯だったが、それでも落ち着いた口調を保つよう細心の注意を払っていた。
「神はおっしゃりました。人々は平等に扱われるべきだと。富める者も、そうでない者も。失った者も、持っている者も。貴女方が生活に困窮しているのを察するのは容易いことです。しかし何故国教の神は貴女方を見捨て、街の権力のある者たちばかりを生かすのでしょう」
「…その神は、我々をお救いになるのですか」
エフィの中で、歯車がかみ合った音がした。エフィは幼いころに「天使のようだ」と称された微笑みを思い出して、それを顔に出した。ソフィアの顔は赤くなり始めていた。
「お会いになりますか」
ソフィアが硬直する。
「お会いできるのですか。私のような者が」
「言ったでしょう。我々の神は人々に優劣をつけません」
その代わり、とエフィは秘密でも語るように唇に人差し指を当てた。
「村を上げてミサにお越しいただきたい。ヴァーズニッヒに、救いをもたらしましょう」
* * *
イディは祭壇の前に、車いすのまま佇んでいた。神学校への入学が認められたのだ。元々いた孤児院が国教の運営下であったことと、イディが軍人としてそれなりに功績を上げていたことが幸いした。勉強は今でも上手くできる気はしなかったが、少なくとも第一歩だ。イディの胸には十字架がかけられていた。
「アレス」
イディは祭壇の前で呟く。ある一時まで、この祭壇はアレスのためにあるのだと思っていた。自信家で、野心家で、しかしそれを裏付けるだけの頭脳を持って、そして美しい見た目を持った彼が自分を見初めたときから、彼が神の化身ではないかと疑わない日はなかった。いつかアレスは皆に認められて、この祭壇に上がる日が来るのだと、どこかでそう思っていた。『イデア』なんて、恐ろしく空っぽなものではなくて。
自分をここまで導いたのはアレスだ、とイディは信じていた。勉強のできない、愚図でのろまで、地位のかけらもない自分を、軍人としてまっとうな人生を歩めるほどにとりなしてくれたのがアレスだった。彼が自身にとっての救いであったことに間違いはなく、だからこそ、イディは今度こそ彼の役に立ちたかった。イディは胸の小さな十字架を握ると、少し俯いてから、意を決したように目の前にそびえる祭壇を見た。
ぼくはあなたを信仰しているわけではない。
イディははっきりと心の中で思う。
「あなたはぼくの武器でしかない」
誰にも聞こえないように、イディは小さく、それでも戦いに臨んでいるときのように煌々と光る眼で言った。
「これは戦争だから」
そして戦争なら、得意だから。イディは言い聞かせるように頷いて、車いすを動かして祭壇を離れた。そうだ、これは戦争だ。アレスの敵になるものをすべてなぎ倒してしまえばいいのだ。そのためならどんな手段もいとわない。信じない神を信じることだってできる。そうしたらきっと、アレスは再び自分のことを見てくれるだろう。今までだってそうして、力で守ってきたのだ。手足が思うように動かなくても、立っていることすらままならなくても、やり方だけは知っているはずだ。
イディは最後に一度だけ祭壇を一瞥して、教会を去った。