第十五章
『イデア』の崩壊はそれは容易いものだった。砂上の城とはよく言ったものだ、とアレスははっきりとしない意識の中でそう思った。信者はあっけなく去っていた。それも、跡形もなく。百人近く集まっていたというのに、ある日曜日、会合に現れた者はいなかった。オットーすら顔を出さなかったので、アレスはすぐに事態を把握した。父親の仕業だ。呆然とするアレスを、エフィは心配そうな顔で見た。
「アレス」
呼んでみるが、アレスは応えなかった。エフィは構わず続けた。
「こんなの、一時的なことだよ。君のお父さんは確かに何か手を回したのかもしれないけれど、きっとみんな真実を思い出して――」
「うるさい」
アレスはエフィを一蹴すると、唇を噛んでエフィを睨んだ。エフィが見たことのない、憎悪に満ち溢れた顔だった。エフィは一瞬たじろいだが、それでも食い下がった。
「でも、アレス」
次の瞬間にはアレスの平手打ちが飛んでいた。エフィはイディほどその動作に慣れていなかったので、勢いで大きく飛ばされて地面に倒れこんだ。打たれた頰を覆って、エフィは地面からアレスを見上げる。アレスはもうエフィを見ていなかった。肩で息をしながら、いなくなった信者たちを見つめていた。エフィにとってはその事実の方が憎たらしかった。
「今日は帰ってこないでくれ」
アレスは絞り出すように言うと、そのまま祭壇であったはずのポーチを降りてさっさと邸を後にした。エフィは取り残されて、歯ぎしりをした。こんなはずではなかった。こんなはずでは。
アレスが自室に戻ろうとすると、扉の前にはイディがいた。粗末な車椅子に座って、手をゆるく組んで見つめていたが、アレスの足跡を聞くや否やぱっと顔を上げた。なんとも言えない郷愁感がアレスを襲ったが、アレスはそれを顔に出さないように努めていた。イディは相変わらず長い前髪を真ん中で分けて垂らしたまま、真っ黒な瞳でこちらを見つめていた。
「アレス」
エフィではなかった。アレスはとにかく動揺しないようにと自分を律していた。本当は部屋の中に招き入れて、洗いざらい起きたことをぶちまけたかった。イディなら聞いてくれるし、イディなら言って欲しい言葉を知っていると思った。ただ、プライドが許さない。いつからこんなことになってしまったのだろう、と再びアレスは自分に聞いた。
「…話は聞いたよ」
イディは柔らかい口調で言った。アレスは棒立ちでイディを冷たく見下ろしたまま、意を決して歩み寄るとドアを開き、イディの車椅子を押して中に入った。後手にドアを閉めると、すっかり車椅子の扱いに慣れたイディはくるりとその場で回ってこちらを向いた。イディは寂しそうな顔をしていた。
「もうこんなことはやめたらどうだい。きみだって、ほんとうは分かっているんだろう?」
一瞬、イディがあの『イデア』そっくりに見えた。なんでも知っている、そしていつも正しい『イデア』。イディは眉を下げてアレスを見ていた。アレスはなにも言えなかった。
「…元に戻ろうよ、アレス。宗教なんてもうどうでもいいじゃないか。きみもぼくもたしかに変わってしまったけれど、このまま生きていくことだって、全然できるんだよ」
『イデア』よりも何倍も穏やかな口調でイディはゆっくりと説明した。それでイディが『イデア』とは全く別の存在であるということを認識できた。アレスは眉根を寄せたまま、やはりなにも言えなかった。その代わり、思わず手を振り上げていた。
イディはひるまなかった。
アレスは振り上げた手を下ろして、その場に崩れ落ちた。神にでも祈るような体勢だった。イディ、とアレスは頭を膝に埋めて、くぐもった声を出した。
「僕はもう戻れないんだよ。僕にはもう、この道しか残されていないんだ。もう戦えない君のところへ戻って、母さんが死んだことを受け入れて、それでいて平気な顔をして神に祈るなんて、そんなこと、もうできないんだよ」
アレスは決壊したダムのように泣いた。イディはしばらくそんなアレスを目を伏せる形で見つめていたが、そのうちに意を決して口を開いた。アレス、ぼくは牧師になるんだ。アレスは初めはその言葉を音としてしか認知できなかったが、意味がわかるとすぐにイディを見た。動揺した。イディは冷静だった。
「ぼくは、牧師になるんだよ」
アレスを、信者を失うよりも大きな絶望が襲った。
「僕を裏切るってのかい」
「そうじゃない。ぼくはきみを救いたいんだ」
「だったら一緒に来ておくれよ」
「それはできない。だって、それが間違ってるって、ぼくは思うから」
イディは断固とした口調で言って、その真っ黒な目で、それでもアレスが知っている目よりはずっと生気に溢れた目でアレスを見つめた。アレスは思わずイディの足にすがったが、それが何の意味も持たないことはわかっていた。イディの気持ちは、変わらない。
「だからね、アレス」
すぐに、イディは泣きそうな顔になった。
「きっときみを、迎えに行くからね」
そう言って、イディはそっとすがるアレスを自分の足から退けて立たせると、すっと車椅子を動かして部屋の扉を開けてもらうためにアレスを見た。アレスはまだ事態が理解できていなかったが、イディの態度にはもう有無を言わせないものがあった。アレスが扉を開くと、イディは廊下に進み出て、一度だけ振り返って悲しそうに笑うと、そのまま去っていった。パタン、という扉の閉まる音がやけに大きく聞こえた。
今までのすべて、なにもかもが終わる音だった。
* * *
エフィは屋敷の中の、アレスが本部と定めた部屋でただ一人爪を噛んでいた。今朝のアレスの行動がずっとエフィにつきまとっていた。叩かれた頰は未だにじんじんと痛んだし、それでもエフィはそのとき、イディのようにそれを受け止められなかったことに腹を立てていた。エフィも、アレスがイディに手を上げる場面には何度か遭遇していた。殴られようが怒鳴られようが、イディは常に凛としていた。そして、彼は笑うのだ。それは慈悲深い神のように。
「なんとかしなくてはならない」
エフィは自身に言い聞かせるように声に出した。なんとかしなくてはならない。アレスを失うことだけはあってはいけない。せっかくここまで来たのだ、失うものか。もはや愛情とも羨望とも言い難い想いだった。執着、そう執着だ。エフィはそう思って立ち上がり、せわしなく部屋の中を行き来した。だからなんだっていうんだ。別のエフィがそう言った。
ふと、アレスが大事にしていた『イデアの肖像』が目に留まった。特に何も考えずにそれを机から拾い上げ、ぱらぱらと中身を見る。ある男が、災難に見舞われた挙句、救いを求めて自らの宗教を設立し、救いを得る物語。だが最後のページにたどり着くと、話は中途半端なところで終わっていた。著者はこの話を書き終えることがなかったようだ。エフィはもう一度頭に戻って、椅子に座ると少し真剣に中身を見聞した。一度読んだことはあったが、そのときは熱に浮かされていたに違いない。なかなか内容が思い出せなかった。
半分ほど読んだところで、男が『イデア』の啓示を受けるシーンに辿り着いた。男は自身が『イデア』と敬う神に、『イデア』は著者の男そのものであると伝えられる。男はしばらくその啓示を受け入れることができなかったが、ある日男は『使徒』に出会った。神の使いを名乗るその男は、男が『イデア』の啓示の確かさを信じる手助けをする。
〈「今こそ、さあ、目を覚ますのです。あなたこそが『イデア』であることを知るのは、鏡を覗くほど簡単なことです。それでも信じられないというのならば、あなたがもたらす『奇跡』をご覧に入れましょう。敬虔な異教徒ですらその目を見張るほどの『奇跡』を」〉
エフィはそこまで読んで、バタンと大きな音を立てて本を閉じた。心臓が高鳴っていた。これだ、これだ、これだ。エフィの中で群衆が叫んでいるようだった。
エフィはにやり、と意地悪く笑った。
――そうだ、僕が『使徒』になればいいのだ。