第十四章
アレスの父親、ユーピテル・フォン・リヒターが息子の行動に気づいたのは、アレスが『イデア』を発足させてからすぐのことだった。政治家の間で、ある新興宗教――『イデア』のことだったのだが――の話題が持ち上がったのだ。リューゲのオストの森にある、長らく人の住んでいない屋敷で、定期的に会合が開かれているという。そしてそれを率いているのが、他ならぬユーピテルの息子であると言いにくそうに進言したのはユーピテルの秘書だった。
「まさかと思い、確かめるために部下を一人派遣したのですが、間違いなくご子息であったようです」
秘書が言うと、ユーピテルは事態を理解できずに硬直すると、秘書に問い返した。
「例の新興宗教の教祖が私の息子であると?」
「教祖なのかどうかは判りかねますが、率いていることに間違いはないようです。会合において群衆の前で演説を行っているようで」
「私の息子がか?」
信じられないとばかりにユーピテルが聞き直すと、壮年の秘書は困ったように頭をかいて「はい」、と言った。ユーピテルはまだ現実を把握できないまま、秘書に聞いた。
「厳密に、その宗教とやらは何を信仰しているのだね」
「それがよく判りません。イデアという、プラトン哲学における言葉を中心にしているようですが、少なくとも国教の教義に対抗することを目的としているらしい、というのは部下の言葉でした」
「馬鹿な男め」
ユーピテルは吐き捨てた。それが一瞬、自身に向けられた言葉なのか、アレスに向けられた言葉なのかが分からずに、秘書は狼狽した。だが、どうやらユーピテルが腹を立てているのはアレスについてらしい。ユーピテルはだんだんと怒りに震え始め、ついぞ机を拳でドンと叩くと、怯える秘書に向かってぎらぎらとした目を向ける。
「教会に連絡しなさい。その信徒たちとやらを摘発しろ。そしてアレスをここに呼び出せ」
秘書はその指示に、かしこまりました、と小さく言って部屋を出て行った。残されたユーピテルは顔を真っ赤にして、飾ってあった家族写真をなぎ倒した。死んでしまった妻と、まだ幼い息子が写っていた写真だったが、ユーピテルにとってはそのどちらも枷でしかなかった。妻とは政略結婚であったし、子供の存在は煩わしいばかりだったが、ある程度の地位を築くのに、家族を持っているという前提は必要だと思っていた。妻という枷が外れた今、息子が脅威に変化しようとしている。たしかに息子とは仲が良いとはお世辞にも言えず、マリアを迎えたことでその溝が深まったのは分かっていたが、まさか宗教を企てるとは。自分の理解には到底及ばないその行動に、ユーピテルはただただ激昂していた。自身の、国の、そして国教の、何が気に食わないと言うのだろうか。気に食わないならば、暴力でねじ伏せるほかない。
アレスがユーピテルの元に出向いたのはその日の夕方だった。
議会の中の事務室に、まず秘書が入る。ご子息を連れてまいりました、という秘書に、ユーピテルは顎だけで出ていくように指示をし、入れ替わりにアレスが入った。軍服は着ておらず、シャツにやけに洒落たリボンタイとズボンを身につけていた。その風貌が亡き妻にそっくりだったので、ユーピテルは神経が逆撫でされる思いだった。
「お前が何をしたか分かっているのか」
「僕は正しいことをしたまでです」
ユーピテルががなると、アレスは健やかな微笑みで応えた。まるでもう、父親のことなど眼中にないといった様子だった。ユーピテルは一層腹を立てて立ち上がると、アレスに近づいてその頰を殴った。アレスはよろりと揺らめいたが、倒れることはなかった。口を切って、唇の端から鮮血がちらりと覗いた。
「お前は私に恥をかかせたいのか? 国にも国教にも泥を塗って?」
「そんなつもりは毛頭ありませんが。ただ僕は、僕が正しいと思うことを民衆に伝え、民衆が応えたまでのことです」
「いい加減にしろ」
ユーピテルは他人に聞こえるかどうかなどといった問題は御構い無しに怒鳴った。アレスはたじろがず、ただただ気味悪く口角を上げているだけだった。ユーピテルはアレスの額に向かって人差し指を突き刺すと、顔を近づけて鼻息を荒くした。
「この恩知らずが。今に見ていろ。宗教に力などない。私が命じれば貴様の『信徒』とやらを根こそぎ奪ってやることだってできるんだ」
アレスはようやく眉をしかめて、父親を上目遣いに睨んだ。
「それが正義だでとも仰るのですか。金が、権力が、すべてですか」
「そうだ。そして貴様にはすべて与えたはずだ。金も、権力も。それをこのような形で――」
ユーピテルは怒りのあまり言葉に詰まると、つかつかと机に戻って机を両の拳で叩いた。アレスは父親を睨みつけたままだった。
「――あの孤児にそそのかされたのか?」
ユーピテルは最後の希望にすがるように、アレスを振り返った。アレスがイディという名の、何処の馬の骨とも知れない孤児と親しくしているのは知っていたが、実害がないので放っておいたのだ。アレスはまた余裕を持った笑みで首を横に振った。
「イディは関係がない。イディは『イデア』の信仰を拒否しました」
口に出してから、アレスは自分の背筋を悪寒が駆け下りるのを感じていた。そうだ、ずっとイディのことを忘れていた。ずっと自らに、盲信的に服従していたかわいそうなイディ。彼はついに自分に楯突いて、どこかへ行ってしまった。『イデア』とは、イディが楯突くような、そんなことなのだろうか。現に父親であるユーピテルも頭が沸騰したかのように怒っている。何故、誰も理解してくれないのだろうか。
自分が間違っているから?
アレスはそこまで考えて、水に濡れてしまった犬のようにぶるぶると頭を振るわせた。すぐにエフィのことを思った。彼は、イディよりずっと優秀だ。頭も良く、話もわかる。彼が同意してくれているならば、間違っているということは、少なくともないだろう。
「話にならない」
ユーピテルは吐き捨てた。
「部下に貴様の信徒を摘発するように命じた。崩壊も時間の問題だろう」
その言葉に、アレスは驚いて目を見開く。
「権力で人々の信心を殺すというのですか? 真実を?」
「いいか、真実が見えていないのはお前の方だ。この国はもうすでに成り立っていて、国教はその支えなのだぞ。平和を乱して、私に恥をかかせ、そのどこに真実があるというのだ」
アレスは口答えをしようと口を開いて、それからすぐに閉じた。何を言っても無駄だと思ったのだ。代わりに唇を噛んで、しばらく考え、顎を上げた。
「信徒が僕を裏切るはずがない」
そう言うと、ユーピテルは鼻で笑った。
「すぐに分かる。貴様の言う真実や信心がいかに脆いものかを」
ユーピテルは勝ち誇ったようにそう言って、アレスに部屋を出ていくように命じた。命じられなくても出ていくつもりだったので、アレスはすぐに回れ右をすると、扉を開いて廊下に出た。廊下には何人か人がいて、全員がこちらの様子を伺っていたようだ。アレスの姿に、皆が悪魔でも見るような形相になった。それがアレスを苛立たせて、アレスは廊下にいる人々を睨めつけると、大股で議会を出た。議会を出てからも、人の目はつきまとった。こちらを見て噂話をしている人々もいた。大通りを歩けば、アレスは既に国教の『悪魔』だった。
こんなのは間違っている。
そう強く思うが、感情がついていくことはなかった。歩けば歩くほど、どんどん不安が襲った。本当に信徒たちはいなくなるのだろうか? ならば自身はどうすれば良い? エフィと話せば解決策を見出せるだろうか?
イディなら?
アレスは歩く足を止めて、車椅子に座ったイディを思い浮かべた。自身の部屋の窓際で、イディは青い空を見ている。アレスの存在に気づくと、イディは振り返って、子供のような顔で一言だけ、「おかえり」と言った。涙腺が緩むのが分かって、アレスは再び無理矢理に歩き出した。
きっと大丈夫だと、保証してくれるものが何もなくなっていた。