第十三章
『イデア』の教義を作ることは容易いことだった。要するに、アレスが求めていたものをただ項目として追加していくのが主要な方法で、それを筆記したり、必要に応じて意見を述べたりするのがエフィの仕事になっていた。『イデア』の教義は自然と死に関する新しい考え方を提案するものだった。
〈死は救済などではない。だがしかし、終わりでもない。死してなお人は生き続ける。魂などというのではない。それは記憶でもない。人は天界に行くために不自由な身体を置いていくのだ。自身のイデアを求め、ようやく彼に出会って、真の自分となるために〉
エフィはタイプライターを打つ手を止めた。顔を上げると、アレスは真正面に座っている。ここのところ、エフィは毎日のようにアレスに会っていた。アレスからイディについて聞くことは一度もなくて、それがエフィの気を良くした。アレスは顎に手を当てて考え込んでいた。
〈人々に業などなく、だがしかし平等ではない。富んでいることもいないことも、病めることも健やかであることも、人間のレンズを通した物の見方でしかない。ここに記するところの神は、そのように判断しない。神は各人を天界のイデアの投影として、その点において人々を平等に扱うのである〉
アレスの明朗な声と、タイプライターを打つ音だけが、ただただ空っぽの部屋に満ち満ちていた。オットーがその部屋の扉を叩いたのは、夕暮れ時だった。
「オットー」
エフィが扉を開くと、オットーはひどくたじろいだが、アレスは気にも留めずに両手を広げて立ち上がると、にこやかに相手を迎え入れた。エフィのことはオットーも知っていたが、名前と顔が一致するくらいで、どんな人間なのかはわからない。ただ、エフィの顔に浮かべられた優越感だけは読み取ることができて、オットーは胸が縮まる思いだった。数日前、頰真っ赤にして尋ねてきたイディのことを思った。
「お邪魔かな」
オットーは精一杯いつもの調子を取り繕って言った。アレスはいやいや、と大げさに笑ってみせた。
「ちょうどいいところにきたよ。我々は今、ちょうど第三者の意見を必要としていたところなんだ」
『我々』、という単語が引っかかったものの、オットーは招き入れられるがままに部屋に入ると、いつもはイディが座っていたベッドの縁に腰掛け、アレスはタイプライターから引っ張り抜いた紙をオットーに渡すと、隣に座って意気揚々と話し始めた。
「『イデア』の教義となる文言の一部だよ。我々が思うところでは、既存の宗教はあまりにも複雑ではないかと思ってね。十項ほどのわかりやすい教義をこさえようとしているんだ」
オットーは早まる心臓を抑えながら教義を読み込むと、アレスに紙を返しながら、良いじゃないか、と言った。こればかりは嘘ではなかったが、問題なのは目を煌々と輝かせているアレスと、卑しさの拭えない微笑み方をするエフィの両名にある、と思った。
「僕が神の子であると言うのはおこがましいが、僕は『イデア』に出会った経験がある」
アレスは紙をエフィに渡すと、そう続けた。オットーは思わず眉をひそめて、慌ててさも話を真剣に聞いているかのような顔に誤魔化した。
「『イデア』は真実を教えてくれた。僕は、我々は人々にそれを伝える義務があるのだ」
アレスは両手を背の後ろで組んで、窓際に歩み寄った。夕焼けが燃えるように赤い時刻だった。
「オットー、どうだね。君も参加するかい」
その言葉に、頭の中で様々なことを考えようとして失敗していたオットーはびっくりして目を丸くした。『アレスのそばにいてやって欲しいんだ』というイディの言葉を思い返した。オットーは自分がそこにいる意味を思い出すなり、大きく頷いた。力強さのある眉が、オットーの目を強調していた。
「それは光栄な申し出だよ、アレス。是非参加させてもらおうじゃないか」
「ならば決まりだ。エフィもオットーも、これからはまず出来る限り多くの人に教義について囁くことを目標として欲しい。『イデア』あるいは僕の名前を出さずにだ。まるでどこかで聞き及んだかのように、噂話のようにして欲しいんだ」
すっかり顔が変わってしまったアレスも、鋭さは変わっていないようだった。エフィはただただ笑っていない目で微笑んで、オットーはうんうんと頷いてみせながら、やはり心ではイディのことを思っていた。アレスは、もうイディなどとは出会ったことがないような、そんな振る舞いになっていえた。そして、実はその代わりにずっとエフィと一緒にいたかのような、そんな様子だった。
「ある程度噂話が広まって、興味のある人間が出てきたら、オットー、君はエフィを紹介したまえ。エフィ、君は頭が良いだろうから、誰にこの話をして、誰にこの話をしないかの判断はつくだろう。そこからだ。ただし、絶対に僕の名前を出すんじゃないぞ」
アレスは秘密結社を打ち立てた少年のように落ち着きなく動き回ると、てきぱきと指示を出した。実際、エフィもオットーもその命は驚くほどよくこなした。最近近しいものを失った人や、病や怪我に倒れている人々、貧しく路上で生活している人など、とにかく国教の教義を理解しきれずに戸惑っている羊たちをかき集めた。噂は大袈裟には広まらなかったが、『イデア』に興味を持つ人は少しずつでも着実に増えて、それが五十人を超えたとき、アレスはエフィとオットーに彼らをある場所に集めるように指示をした。リューゲのオストにある森の中にある、手入れをされていた頃は荘厳だったのであろう朽ち果てた屋敷が、アレスの指示した場所だった。
「お集まりの諸君」
会合に集まったのは三十人ほどで、アレスは人々が集まり始めるとどこからともなく現れて、屋敷のポーチに座った。人々は戸惑いながらも、アレスが登場すると一斉にそちらに注目した。集まった人々の経緯上、アレスがこの国の軍人であるということを知っている人間は、どうもエフィとオットーだけのようだった。
「『イデア』のはじめての集いへようこそ。そしてここにいることを感謝しよう。諸君らは皆、国教に虐げられてきた。だからここにいるのだろう。いろいろなものを失い、いや、『神』という得体の知れない何かに奪われて、そして苦しみの海に溺れている」
アレスは語った。白いシャツにツイードのズボンを履いて、赤いタイをしていて、宗教者には全く見えなかった。寄宿学校時代を彷彿とさせるような、若々しく小綺麗な身なりだった。
「そこに救いの手を差し伸べるべく、『イデア』は発足する。『神』の定義はここで変わる。『神』とは人々を裁くものでも、奪うものでも、導くものでもない。『神』とは真実を知るものを指し、『神』の命とはその真実を伝え、人々に救済をもたらすものである」
人々はアレスの言葉に聞き入っていて、衣擦れの音や、森に住まう鳥たちの声が聞こえる程度だった。エフィはアレスの隣に立っていて、オットーは群衆の後ろからことの顛末を見守っていた。アレスは両手を高く上げて、天を仰いだ。
「今ここに、私は救済を宣言する。諸君らは『イデア』を信じ、真実を知ることで、この世の苦しみや悲しみが取るに足らないことを知り、そして失ったものは真実には失われていないということを知る」
アレスは立ち上がってポーチから降りると、頭からボロ布を被った女性の手を取った。
「たとえば、貴女は一体どうしてここに?」
「…わ、わたしは、親を早くに失いました。身を寄せる場がありませんでしたので、春を売り、路上で暮らすしかなかったのです。それが神のお導きであるのならば、わたしはどうにも信じられませんでした。わたしは何も悪いことなど、ひとつもしていないのです」
女性の言葉に、アレスは頷いて群衆を見た。
「この女性の人生を国教に照らし合わせれば、彼女は業を背負う罪人で、しかるべき人生を送っているとされる」
女性はその言葉に目を伏せて、布で顔を隠そうとした。アレスはそれを妨げて、女性のボロ布をゆっくりと下ろす。
「しかし『イデア』において、彼女には救済が与えられる。彼女のご両親は、イデアとひとつになるために天に昇った。イデアは天界に有り、そしてイデアこそが本物の諸君なのである。つまり、天に昇ることは、何かを失うわけでも、苦しむわけでもなく、ただ元の姿に帰ることを指す。そして彼女の人生が悲痛に満ちているとされるのは、国教の教えに他ならないい。『イデア』は何人たりとも、その生き方において差別することはない。お名前は?」
アレスが女性に向き直ると、女性は小さくアナ、と答えた。
「アナ。そう、貴女は罪を犯したわけでも、犯しているわけでもない。全ての苦しみは国教に課されたまやかしに過ぎないのだ。『イデア』は君を歓迎しよう。この屋敷を、『イデア』を信ずる者の家として、開放する」
そう言いながら、アレスは屋敷を仰いだ。群衆がざわめき、アナの顔が少しだけ色めき立った。アレスは満足そうに笑うと、アナに一礼すると、ポーチを上がって再び両手を広げた。
「『イデア』による救済に祈りを」
『イデア』による救済に祈りを。誰かがその言葉を反芻すると、それはさざ波のように広がって、すぐに大きな群衆の声となり、オストの森に響き渡った。アレスが瞳孔の開いた目で群衆を見下ろし、その歓声を煽る。オットーはその様子を眺めながら、噛みしめるように、少しばかり憎しみを込めた声で言った。
「『イデア』による救済に祈りを」
イディは今、どこで何を思っているのだろうか。