第十二章
アレスの様子がいつもと違う、といち早く気づいたのはエフィ・バウアーだった。寄宿学校時代のアレスの後輩にあたり、現在は指揮司令部で職務を共にこなしていた。近しい間柄というわけではなく、アレスはエフィを部下として認識しているくらいだったが、エフィは違った。エフィは寄宿学校のころから、アレスに恋い焦がれていた。
はじめは執拗につきまとって自身の存在をアピールしようとしたが、イディという男のことを知ってから、エフィは身を引いた。もともと爪を噛む癖があったのが酷くなったくらいだった。身を引いたのも、イディという男に対する引け目でも、自身に対する自信のなさでもなかった。ブロンドに真っ青な目をした容姿は、烏みたいな彼よりずっと良いと思っていた。ただ、勝つ算段はなかった。アレスのイディに対する執着は異常だったし、イディも異常な男だった。急ぐことはない、とエフィは思った。それで、寄宿学校からいまに至るまで、エフィはアレスの記憶から消えない程度に付き合い、それでも心の底からアレスのことを慕っていた。顔が良く、頭も良く、凛としている。育ちだっていい。エフィは自身の生い立ちを憎悪といえるほどに嫌っていた。平民だった。母にはやけにプライドがあって(それが遺伝したのではないか、ということについてエフィは認めようとはしなかった)、エフィを普通の学科ではなく、寄宿学校に入れた。エフィにとって寄宿学校は恐ろしかった。皆が自分よりも裕福で、自分の知らないことをたくさん知っていて、エフィは自身の育ちが露呈することをとにかく恐れた。もちろん、エフィのような育ちのせいとはいたし、もっとひどい奴もいた。ただ、そういう奴は決まっていじめられていた。親の裕福さは、スクールカーストに如実に表れていた。
だからエフィは自身の生い立ちを隠すどころか、嘘で固めて切っていた。自身は誰も知らないような地方の良い家系の長男で、たしかに田舎者ではあるが、マナーと流儀に関しては高尚な知識を持っていることを表現し続けた。片親が大病に臥せっているから、なかなか金銭的な余裕がないのだとも言っておいた。そうすれば私服がおざなりであることにも説明がついた。それでも制服は誰よりもきちんと着込んで、優雅な態度を心掛けていた。髪は毎日きちんと整えた。お陰でエフィを陰ながら彼を慕う女生徒すら現れるほどだった。
どこか表情に陰りのあるアレスに、エフィはゆっくりと近づいた。これが好機だと、エフィの中で何かが言っていた。エフィはアレスの前に立ち、ゆるく敬礼をして准将、と声をかけた。
「…何か、気がかりなことでも?」
優しい声音を装ってエフィが声をかけると、アレスが顔を上げた。アレスが何も言わなかったので、エフィは焦る心を隠して穏やかな表情で続ける。
「あまり、調子が優れないように見えたものでしたから」
「…そうか。それは、申し訳ない」
アレスはアレスらしくなく言った。謝られると、エフィはついに困ってしまった。それと同時に、アレスの様子がおかしい、という自身の見立てに自信がつく。エフィはなおもアレスの前に立ったまま、柔らかく相手を見下ろしていた。
「…失礼をお詫びします。もし、私でよければ何でも命じてください」
エフィが言うと、再び顔を伏せていたアレスがはっとしたようにエフィを見る。しばらく沈黙が流れて、アレスは緩慢に口を開いた。
「…バウアー少佐、君は神を信じるかね」
突然の質問に内心たじろぐ。それでも、自分の感情を押し殺すことには慣れ切っていたので、エフィはにこやかに笑ったままだった。
「准将の求めているお言葉にもよります」
「君は有能だな」
アレスが少し笑ってそう言うと、エフィはすっかり気を良くした。どうやら、会話の方向性は間違っていないらしい。エフィはそれでも何も言わずにただにこやかに佇んだまま、アレスの次の言葉を待った。
「例えばの話だが」
アレスはいつもの調子を取り戻して言った。
「君が大切なもの――そうだね、たとえば、名誉とか、家族とか――を失ったとして、君はどうする?」
「……復讐を考えます」
エフィは慎重に言葉を選んで言った。前の言葉から、彼が宗教的な答えを期待しているとは思えなかったのだ。そしてそれはエフィの素直な意見で、アレスはエフィを見ると、今度は満足そうに笑った。
「その返答は気に入ったね。さすれば、バウアー少佐、君は今誰に復讐をしたいんだい?」
会議室の雑音はすべて膜の外で鳴っているように静かだった。エフィは今度も本音を隠そうとはしなかった。世界です。エフィは言った。アレスはその言葉に少しばかり目を見開いて、口角をあげてにやりと笑った。
「僕が、君のその復讐を手助けしようと言ったらどうする?」
エフィは天にも昇る気持ちだった。その言葉を聞くや否や、すべてをかなぐり捨てていやらしいほどの満面の笑みを浮かべ、胸の前で祈るように、あるいは女子生徒が好きな男性に話しかけるときのように、手を組んだ。
「畏れ多いですね。しかし、私が准将の助けにもなれるのだとしたら、喜んで共に歩みましょう」
「模範解答だ」
アレスは椅子の背もたれに腕をかけて、足を組んだ。そして、おもむろに鞄の中から白い表紙の眩しい本を出す。『イデアの肖像』と銘打たれたその本は、エフィの目には聖書のように見えた。アレスはそれを机の上に置くと、エフィのほうに指だけで押し出した。
「宿題だよ」
エフィは一瞬目を白黒させて、それでもすぐに喜びに飲み込まれて、本を手に取り赤子のように胸に抱く。一礼してその場を去り、会議室を出ると、エフィは抑えきれないとばかりに目を爛々と輝かせた。ついに、憧れの男がこちらを見たのだ。エフィは大事に抱いていた本の表紙を見て、それから愛おしそうにそれを撫でると、つかつかとその場を離れる。待ちに待っていた日がついに訪れたのだ。スキップをしそうな足をなんとか抑えながら、エフィは自室へ戻るべく歩を進めた。
* * *
「イディ」
アレスとの住処に戻れなくなったイディが、オットーの住居の扉を叩いたのは、あれからすぐのことだった。オットーは心底驚いて、とにかくイディを招き入れた。車椅子をここまで押してきたのはメイドらしく、メイドは一礼するとその場を去っていった。どうしたんだ、こんな夜中に。オットーは聞いた。
「アレスとすこし、けんかをして」
イディの右頬が真っ赤になっていることについては、オットーも触れることができなかった。イディは居間に通されると――オットーは実家に住んでいたが、そのときにはもう父親も母親も寝ていたし、オットーなど寝間着姿だった――窓際まで車椅子を動かして、悲しそうに窓の外を見つめた。外は真っ暗で、やはり何も見えなかった。
「オットー、きみにお願いがあるんだけれど」
イディはオットーを振り返らずに言った。住まわせてほしい、ということだろうか。それならば問題はない。オットーは思う。だが、イディの要望はそんなものではなかった。イディがゆっくり振り返り、無表情になって言う。あれすのそばにいてやってほしいんだ。
一瞬、オットーには何のことか分からなかった。
「イディ、どう言う意味だ」
「その言葉のとおりだよ。アレスにつきまとってほしいんだ。彼の命令にはすべて従って、彼を敬っているふりがしてほしい」
「アレスにはお前がいるじゃないか」
「そうも言ってられないんだ。もう、アレスは昔のアレスじゃなくなってしまった」
イディは泣きそうな顔になった。
「何かに取り憑かれてしまったようだ。宗教という名の幻想に。でもぼくはね、彼を見捨てようとは思えないんだよ。できることなら自分の手で彼を救いたいが、彼はもうぼくの言葉なんて聞いてくれやしない」
イディは元来のぼそぼそとした喋り方ではなくなっていた。早口でそうまくし立てると、たじろぐオットーに「無理なお願いをしてごめんよ」と謝った。
「でも、ぼくはアレスが何をしているのか、知る必要があるんだ。スパイみたいなことをさせて申し訳ないとは思うけど、もしオットー、きみもアレスの先を案じるなら、手を貸してほしい」
イディはそう言うと、オットーが今まで見た中でももっとも生気に満ち溢れた目で言った。虚無のような瞳には光が宿っていた。オットーは気迫に押されて、いつの間にか頷いていた。
「きみに危険が及びそうになるならば、すぐに身を引いて構わない。それまでは、アレスの行動を逐一報告してくれないか。ぼくは教会に身を寄せるつもりだから、そこで決まった日時で落ち合おう」
イディは車椅子を器用に動かして、オットーに向き直った。
「やらなきゃならないんだ。約束したんだ」
ぼくが、アレスを救うって。
イディは断固とした声音でそう言うと、顎を上げた。