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第十一章

 以来、アレスは暇を見つけてはリューゲの街にある本屋や図書館を手当たり次第に渡り歩くようになった。夜まで出歩いては、大量の本を抱えて帰ってくる。それらすべてが宗教に関する本で、国教に関するものも多くあったが、最も多いのは世界中の異教に関する本だった。イディはそのどれも読んで理解することはできなかったが、アレスが無言で本を読むことはなく、熱に浮かされたようにイディに様々なことをいちいち説明した。国教の教義の矛盾については烈火のごとく怒り、異教の、自分にとって都合の良い部分に関しては頷きながらその素晴らしさを語った。イディですら少し不安になるくらいののめり込みようで、眠らない日も何日かあった。


 そんなある日、ただでさえ躁病の男のように饒舌で目をぎらぎらさせたアレスが、本を一冊だけ持ち帰ってきたことがあった。イディは思わずどうしたの、と聞いたが、アレスは答えることなく、イディの両肩を抱いて本を見せた。真っ白な装丁の本で、銀色の箔押しで『イデアの肖像』と書かれた本だった。『肖像』がなんであるのか、ということについてはイディも分かっていたが、著者名も何もない、少し不気味なくらい見た目には情報のない本だった。


「図書館で見つけたんだ」


 アレスは言った。本はひどく擦り切れていたが、なぜか色褪せてはいなかった。まるで誰かが読むたびにきちんと手入れをしていたかのようだ。アレスは立ったままぱらぱらと中身を確認すると、イディを見ずに言った。


「まさしく僕が求めていた本なんだ。題名の通り、『イデア』について書かれている。しかもこの男の言うところ、『イデア』には宗教的側面がある。『イデア』は真理であるからこそ信じられるべきものであって、ただし、その『イデア』は投影されている人間ごとに違う。万人のための宗教がうまく行かないのはその点においてだ」

「…アレス、ぼくにはさっぱりだよ」

「分からなくてもいい。重要なのは、国教も異教も間違っているということだ。真の『救い』を求めるならば、我々は自身の『イデア』を信仰するしかない。僕は僕を信仰するしかないんだ」


 イディはなおも不安げな表情でアレスを見たが、アレスは気づいていなかった。とはいえ、アレスはどうやら悩んでいたことの解決策を見つけたようだ。車椅子のせいですっかり背丈の差が出てしまったので、うまく動かない右手をアレスの頰に添えるのは大変なことだった。イディは困ったように笑った。


「求めるものが見つかったなら、それでよかった」

「まさに僕が求めていたものなんだよ、イディ。こいつを参考にすれば僕は、そして君も、『救済』を得られるかもしれない」


 そういうと、アレスは本の山でいっぱいになっていたダイニングテーブルを乱暴に片付けると、椅子に座って『イデアの肖像』を頭から読み始める。今度こそアレスはイディに内容を説明することなく、ただただ本に吸収されているようだった。アレスが本を読み終わる頃には朝の四時を回っていて、やっと口を開いたのは負傷以降体力のなくなっていたイディがうつらうつらと船を漕いでいたときだった。


「イディ」


 アレスは爛々と目を輝かせて、イディを見る。イディはぼんやりとした頭でアレスを見て、一瞬だけ戸惑った。眠いからなのだろうか、アレスがいつものアレスとは違って見えた。彼がアレスなのかどうか、少し判別がつかないくらいだった。イディが何も答えられないでいると、アレスはイディにつかつかと歩み寄ると、肩を乱暴に掴んでイディを起こそうと前後に振った。


「起きてる、起きてるよ」


 イディが喚くと、アレスは余計に気分を悪くしたようだった。


「君には手伝う気がないのかい? 僕がこんなに頑張っているというのに。僕は君のためにだってこうしているんだよ」

「ごめんよ、アレス。あれ以来少し頭が働かないんだ」

「頭が働かないのはいつものことじゃないか」


 アレスは呆れたように言うと、車椅子のイディに目線を合わせるために床に膝をついた。


「イディ、君の神様は誰かな」


 イディは初めてその質問の返答に詰まった。理由は分からなかった。イディが不安げな顔でアレスを見ると、アレスはついに激昂して立ち上がり、イディの頰を力一杯打った。イディは衝撃のまま右を向いていたが、アレスはそれに苛立つばかりだった。アレスがおかしい、と思うイディと同時に、アレスもイディの様子がおかしいと思っていた。今までの従順さが、少しずつ消えていっている。大聖堂に備えられた蝋燭のように。


「イディ、どうしたっていうんだい」


 アレスは冷たい声で言った。イディは顔を背けたままで、長い前髪のために表情が見えなかった。アレスが無理やりイディの顔をこちらに向かせると、イディは涙目になっていた。夏の日を思い出して、どきりとする。イディが最後にアレスの振るう暴力にそんな顔をしたのは、ずっとずっと、遠い昔の話だった。


「僕が聞いてるんだよ、イディ。君の神様は誰だ?」


 イディは尚も答えず、ただ困惑してアレスを見ていた。


「僕じゃないのか?」


 アレスは氷のような声でイディを問い詰めた。両肩を掴み、憤怒のあまり赤くなった顔を近づける。


「言えよ。君の神様だぞ。前にも何度も言ったじゃないか」


 イディは頭の中の回路が爆発したような気がしていた。何も考えられない。正解なのは、いつものように純粋にアレスを慕う言葉を発することだと分かっていたが、それをしてしまえば、ついにアレスをこの崖の淵から深淵へと突き落とすことになる、とどこかで思っていた。アレスは変わってしまった。自身の神様であったアレスは、こんな人間ではなかった。ついに人間ではなくなったから、こんなことになってしまったのだろうか。


 アレスは諦めて大きなため息をつき、イディに背を向ける。


「出て行けよ」


 イディに行くところがないと分かっていて、アレスはわざとそう言った。


「今は君の顔なんか見たくないんだ。出て行ってくれ」


 イディがでも、と声を出すと、アレスは背を向けたまま大声でがなった。


「出て行けと言ってるだろ。信心のないやつなんか、僕はいらないんだよ」


 アレスが振り向くと、イディの顔は恐怖におののいていた。見覚えのある顔だ。まだ出会って間もない頃に、イディがよく見せた表情。アレスは一瞬我に返って、イディに歩み寄ると、もう一度跪いてイディの膝に頭を埋めた。


「…ごめんよ、イディ、そんなつもりじゃなかったんだ」


 イディはようやくはっとして、アレスを見下ろした。アレスが、ようやくアレスらしくなった。イディは鼻をすすって、アレスの柔らかい髪を撫でる。イディは泣きそうな顔になっていた。


「…アレス、きみはたぶん、疲れているんだよ」

「……そうかもしれない」

「頼むから寝ておくれよ。そんなんじゃ、身体を壊してしまうよ」


 イディが懇願するように言うと、アレスは顔を上げた。涙目になってしまったのはアレスも同じだった。わからないんだ、とアレスは呟いた。


「分からないんだよ。イディ、君は本当に救われたくないのかい? 生まれて、誰にも愛されないで、挙句こんな目に遭って、それでも救われたくないのかい?」

「救われるということが、きみを失うということならば、ぼくはそんなもの求めないよ」


 イディは断固とした口調で言い切った。言い切ってから、自分で自分の発言に驚いた。アレスにこうして真っ向から楯突いたのは、はじめてのことだったかもしれない。アレスの表情は途端に絶望へと変わり、アレスはイディの打たれて赤くなった頰に手を当てた。


「イディ、君は僕を見捨てるのか?」

「そうじゃない。ぼくはきみを救いたいんだ」

「だったら僕を信じておくれよ」

「信じているよ。だからこそ、きみのやっていることはきみのためにならないと、そう思っているんだ」


 アレスは熱いものにでも触ったかのように、イディの頰から手を離す。立ち上がって後ずさりするアレスとは裏腹に、イディは力を込めて続けた。






「アレス、きみは神さまなんかじゃないよ。ただの人間なんだ」






 アレスはその言葉に目を見開くと、何も言えずにそこに立ち尽くしたままだった。イディは饒舌だった。


「こんなことはもうやめようよ。きみのお母様が死んでしまったことだって、ぼくがこんな目に遭ったことだって、きみのせいでも、誰のせいでもないんだよ」

「…そんなこと、あるわけがない」


 アレスはイディに言ったのか、自分に言い聞かせたのか分からない調子で呟くと、手近にあったジャケットを掴んだが、イディから目を離すことはなかった。


「君がそんなことを言うなんて、信じられないよ。君だって約束してくれたじゃないか。僕を救ってくれるのではなかったのか」

「救おうとしているじゃないか。きみは今、間違った道を歩もうとしてる。だからぼくはそれを止めたいんだ。また元の生活に戻りたいんだよ。きみやぼくが変わってしまったとしても、全部が起こる前みたいに、しあわせでいたいんだよ」


 イディの言葉に、アレスは意を決したようにジャケットを着込み、何も言わずに扉へ向かった。イディはその様子を目で追うことはなく、ただただ俯いていた。


「イディ」


 アレスは最後に振り返る。イディはこちらを見ていなかった。


「最後のチャンスだ。君の本当の神様は、一体誰だい?」


 イディはたっぷりと時間を取ってから、同じように振り返る。




「…少なくともきみじゃない。今のきみでは」




 アレスはその言葉を聞くと、何か反論しようとして、すぐにやめた。扉を開け、外に出る。扉が閉まった音で、イディはようやく止めていた呼吸を吐き出した。


 アレスは深淵に落ちた。自分の手は、まだ彼に届くだろうか。

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