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第十章

 イディが十五歳を迎えた頃の話である。


 イディを家族に迎えたい、という家庭はひとつも見つからないままだった。ほかの子供に比べて頭が良くなかったこととか、容姿は整っていたものの、アレスによる度重なる暴力や、孤児院内でのいざこざで常に生傷が絶えなかったこととか、理由はイディにもいくらでも思いついた。しかしイディにも暖かい家庭に招き入れられ、幸せな人生を送ることの何が面白いのか見当もつかなかったし、だったらアレスといたい、と思っていた。アレスは愚図な自分と違って、頭が良く、容姿も端麗で、人望があった。鳶色の髪に水色の瞳はそれは絵画のようで、神さまのようだ、とイディは思っていた。その分、アレスを快く思わない連中がいるのも知っていた。寄宿学校内では、実家の権力も相まってあまりトラブルは起きなかったようだが、小さな頃からアレスは隣接する孤児院の子供たちからときたま嫌がらせを受けていた。孤児院の子供たちからすれば、アレスは『狡くて』『傲慢で』『いじめっ子』なのだという。アレスと接するようになったイディが痣を作って帰ってきたり、口を切っていたりするのを見て、孤児院の子供たちのアレスに対する悪意は明白になっていった。イディは何も言わなかった。自分より愚図な人間を相手にするのは良い考えではない、とアレスも言っていたから。


「大体にして、彼らがなんと言ったって、僕の権力が失われるわけがなかろう。それとも何か、彼らは僕を殺そうとでもしているのかね」


 アレスは柵の向こうでさもおかしくないという顔で言った。イディはたっぷり時間をとって文章を構築してから、ゆっくりと確かめるように発言した。


「でも、きみが、実際のところ、怪我をしたりした、こともあったろう?」

「僕に怪我をさせた孤児はどこへ行ったと思う?」


 アレスは挑戦的に笑って、イディを見た。たしかに、いじめっ子はときどき『いなくなった』。シスターたちからは家族が見つかったと説明を受けていたのを、イディは鵜呑みにしていたし、その言葉を聞いてもイディには状況がわからなかった。困惑するイディに、アレスはまあいいさ、と肩をすくめた。


「それにしたって、君が守ってくれるんだろう? 君、見てくれと違って腕っ節だけはいいじゃないか」


 イディは思わず頷いて、じわじわと湧き上がる安心感を噛み締めた。そうだ、ぼくが彼を守ればいいのだ。ならば何も心配することはない。


 だから、アレスを敵視していた孤児院のグループの年長者――器量が悪くて、図体ばかりでかい嫌な奴――が廊下で徒党を組んで座り込んでいたとき、イディはふと立ち止まって相手を睨め付けた。年長者はしばらくイディの存在に気づかなかったが、円をなして座っていたので、先にイディに気づいた子分に小突かれて振り向いた。はじめは驚いていたが、すぐに年長者はにやにやと笑った。


「これはこれは、イディじゃないか。今日もアレス様と逢引かい?」


 年長者が大げさな身振り手振りで言うと、子分たちも卑しげな笑みを浮かべてイディを見た。


「君もよくあんな奴と付き合ってるよ。わからないのかい? ああいう高慢ちきな奴いるから俺たちみたいな子供たちが迷惑するんだぜ」


 イディは何も言わずに年長者を見下ろしていた。年長者はこれみよがしにため息をついて、子分たちに言う。


「見ろよ、この忠犬をさ。盲目で何も考えてやいない」


 子分たちが口々に同意を表すと、年長者は満足そうだった。下らないな、とイディは思った。


「それで、先の話だけれど」


 年長者はイディのことを無視すると、再び子分たちに向き直り、それでいてイディに聞こえるようにわざと大きな声で言った。


「いくらあのアレス様に権力があろうと、俺たちが寄ってたかっていじめてしまえば、きっと心を入れ替えるだろうよ。恐怖を味わわせないといけないんだ。そんなのは簡単さ。ただ人数が必要なだけだよ」

「…それは、どういうことを、するんだい?」


 イディがぼそりと聞くと、年長者はイディを振り返らないままわざとらしく考え込む姿勢になって、そうだな、と言った。


「恐怖ってのはね、もっと本能的なものだと、俺は思うんだよ。そう、暴力だね。命の危険に晒されれば、誰だって恐怖を覚えると思うんだ。そうしたら、そういう危険に晒されたということを覚えて、天下のアレス様だって俺たちのことを見直すんじゃ…」


 年長者が言い切らないうちに、イディは片腕だけで年長者の首根っこを掴むと、引っ張り上げて近くの壁に叩きつけた。子分たちが悲鳴をあげて散り散りになり、ある者はさっさとその場を離れ、ある者はすくみあがって動けなくなっていた。イディは自分より高い位置に磔にした年長者を見上げて、無表情で聞いた。


「こういうことかい?」

「…イディ、違うんだ、待ってくれ。話を聞いてくれよ」

「じゅうぶん、聞いた。またアレスを、いじめるつもりなんだろう?」


 イディはそのまま空いていた方の手で年長者の首元を押さえつけた。年長者の顔が瞬時に真っ青になった。


「恐怖を、あじわえば、こころをいれかえる、のかい?」


 年長者はもう物が言えなくなっていた。イディには幸いなことに、この廊下は孤児院の最果てにあり、人がなかなか通らない場所だった。だからこそ年長者たちはここを溜まり場にしていたのだ。イディは首を絞める力を緩めて、今度は年長者を床に投げ飛ばした。


「ただ死んでしまうのでは、そうは、いかないだろうね」


 イディは表情ひとつ変えなかった。咳き込む年長者に詰め寄り、大きく拳を振りかぶる。イディの目的は明白だった。



 殺してやろうと思った。



 翌日、いつものように裏庭にやってきたイディの顔と手にはどす黒い血がついていた。固まっていたところから、今日のことではないとわかるし、イディ自身は怪我をしていないようだ。アレスはびっくりして顔をしかめた。


「物騒だな。どうしたっていうんだい」

「きみを、いじめようと、していたひとたちがいたよ」

「いつものことじゃないか」

「でも、こらしめてやったんだ」


 イディはこれ以上ない笑顔でポケットに手を突っ込むと、何やら髪の束を取り出した。アレスは余計に驚いて、柵に近づくと、差し出されたそれを見た。それだけで合点が行くくらいには、アレスのほうは頭が良かった。


「…殺したのかい?」

「わからないけれど。うごかなくなったから」


 イディはなおも楽しそうだった。アレスは髪の束を手に取り、見聞するように掲げてから、イディを見てそうか、と呟いた。


「僕のためかい?」

「あたりまえじゃないか。きみを、守らなくては」

「見上げた根性だね」


 アレスは感心して、髪の束を自分の制服の胸ポケットにしまった。それから柵越しに手を伸ばし、イディの頰に手を添える。


「君はそれでいい。これからも期待しているよ、僕の愛しいイディ」


 その言葉にイディはさらに気を良くして、大きく頷く。




 その約束を果たせなくなってしまった。




 イディは変わらず真っ暗なリューゲの街を眺めたまま、なんとか頭を振って記憶を追い出した。まだ納得が行かなかった。動けなくなった? この自分が?それしか能がなかったというのに? 握った拳にも力は入らなかった。焦燥のあまり膝を殴ろうとしたが、それもうまく行かなかった。イディは泣きこそできなかったが、顔を覆って車椅子の上で身体を折って項垂れた。


 それでもだ。


 イディはすぐに顔を上げて、眉根を寄せた。


 命がある限り、何をしたって、彼を守るつもりだ。イディがそう思い直したのと、息急き切ったアレスが部屋に飛び込んできたのは同時だった。


「イディ」


 アレスは上気した顔でイディの元に駆け寄ると、その肩を両手で抱いた。


「答えが見つかりそうだ。僕も君も、きっと大丈夫だ」


 アレスの言葉に、イディはようやくぎこちなく笑う。長いこと表情を変えていなかったので、笑い方も忘れそうになっていた。


「…ねぇ、アレス。ぼくもね、思ったんだよ」


 イディは肩に添えられた手に自分の手を重ねて、なんとか微笑んだ。


「アレス、ぼくはきみを絶対に守るからね」

「…そうだね。でもね、イディ、今度は僕だって君を救おうと思うよ」


 アレスとイディは額を合わせて、子供の頃のように笑う。


 そうだ、僕らは、大丈夫だ。


 お互いに、それでいて相手とは違うところで、二人はそう確信していた。

これにて第一幕が終了となります。第二幕の連載は次週9日(月)を予定しております。ここまでお付き合いいただきありがとうございました。第二幕にご期待ください。

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