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第九章

 イディが傷痍軍人となったのは、それから一週間ほど経った頃のことだった。見た目には五体満足に見えていたが、容体が安定するにつれて、五分と起立していられないことが分かったのだ。本人は大丈夫だと言い張ったが、本人の意思とは裏腹に、立っていられなくなって崩れ落ちてしまう。事の顛末を、オットーは包み隠さず上層部に報告するしかなかった。


 イディはリューゲに戻ることができたが、もはや何も彼を楽しませることはできないようだった。アレスが声をかけても上の空であることが多かったし、日中、アレスがいない間——ひどく心配なので、看護師の経験のあるメイドをつけておいた——はただただぼうっと外の様子を眺めているばかりだという話だった。立つのも歩くのもままならないので、車椅子を使っていた。イディは自身の状況に悲しむわけでも、怒るわけでもなく、そこにあったのは虚無だった。


「イディ、いい加減にしておくれよ」


 ある日アレスはたまらずに言った。イディはアレスのを方を向くことなく、何も言わなかった。イディ、ともう一度強く呼んでみるが、反応はない。もう真っ暗になって、星以外に見るものがなくなった窓の外を、イディはぼんやりと眺めていた。つかつかと歩み寄って、アレスがイディの胸ぐらを掴む。


「困るよ、君がそんなのでは。戦えなくなったことがなんだっていうんだい。君は死ななかったんだぞ。それだけで十分じゃないか」


 イディからは何の反応もなかった。アレスは掴んでいたイディのシャツを乱暴に離して、理解できないとばかりに両手を上げた。死んだ母のことを少しだけ思い出した。


「…もう、ぼくにはきみを守るすべがなくなってしまったんだよ」


 イディは小さな声で言った。アレスは即座にイディのほうを見て、車椅子の隣に跪くと、イディの手を握った。


「そんなことは気にしなくて良いんだよ。君は僕のことそばにいてくれればそれでいいんだ」

「…すまないけれど、少し放っておいてくれないか」


 イディはまるで人が変わってしまったかのように、はっきりとした口調でそう言った。いつもはどこかたどたどしく、外国語を喋っているようだったのに、その言葉は何の躊躇いもなくするりと唇をすり抜けていた。アレスはついぞ激昂して、イディの頰を思いっきり叩いたが、それでイディが心を入れ替えることはなかった。アレスは血が出そうなほどに唇を噛んで、イディの側を荒々しく離れると、ジャケットをひっつかんで外に出た。


 アレスは嗜好品を特別好むような男ではなかったので、酒も煙草もそこまで興味がなかったが、こんな夜は別だった。アレスは少し熱気の残るリューゲの街に出ると、賑わっていそうなところは避けて、うらぶれた酒場を選ぶと中に入った。無愛想な店員がこちらを見て、カウンターに座るように勧めてくる。その通りに着席して、必要以上に言葉を使わないようにウイスキーを頼むと、アレスはジャケットを脱いで頭を項垂れた。イディはまだ救われていなかった。


「まだ力が足りない」


 アレスは呟いて、目の前に出された氷の入ったウイスキーのグラスを傾けた。目線を上げると、屈強で粗暴な店員の背後に、ずらりと様々なタイプの偶像が並んでいた。石でできたものや、木でできたもの、壁に掛けられるものや、シンボルだけを強調したもの。アレスは最悪だ、と内心舌打ちをした。国教の神とされる男の絵画まで飾ってあった。アレスはウイスキーのグラスに唇をつけると、一瞬躊躇ってグラスを置いた。


「…敬虔な信徒のようですね」


 アレスが話しかけると、店員は少し驚いてこちらを見たが、洗い終わった食器を洗う手を止めずに頷いた。


「もともとはそうではありませんでした。しかし、奇跡を目の前にしたのですよ。母が病に伏せてしまったとき、俺には何もできなかったから、とにかく祈りを捧げたのです。すると母の病状はみるみるよくなり、今では元気に実家の農場を営んでいます」


 男は少し饒舌になって語り、アレスは自分の左頬がぴくりと痙攣するのを感じた。ウイスキーを煽って、鼻を鳴らす。酒が回り始めたわけでもないのに、アレスの気は大きくなっていた。


「不思議ですね。僕は生まれてこのかたずっと神に母の病を治すよう懇願してきましたが、神は母をお救いにならなかった」

「それは恐らく、あなたの母上に問題があったのではないでしょうか。何かやましいことでも。神が祈りを聞き入れないとは思えません」


 食器を拭くのをやめ、カウンターに手をついて男は真面目くさって言った。アレスはその言葉にしかめていた眉を上げ、立ち上がって咄嗟に持っていたグラスの中身を店員に向かって放つ。どの口が、とアレスは叫んでいた。


「どの口が俺の母にそんなことを言うんだ? 母に悪いところなんてひとつもなかった。ただ生まれた時からずっと苦しんで、救いを求め続けて死んだんだ。お前らの思うところの神様ってやつに」


 店員は怯まなかった。


「そのような行いがそもそもの問題であるように感じますが?」

「そもそもの問題なんて、分かってるじゃないか、神のほうにあるんだよ。あんなのはまやかしだ。あんなものを真面目に信仰していただなんて、今では反吐が出る」

「その辺りにしておきなさい」


 子供のように感情的な言葉を吐き続けたアレスの後ろから、柔和な声がした。敵意を持って振り返ると、浅黒い肌の男が立っていて、見た目からすぐにこの国の人間ではないことがわかった。どこか、東の国の出身なのだろうか。彫りは浅く、流れるような布を重ねたような衣服を着ている。男はアレスの左肩に手をかけると、カウンターの上に多めに金を置いて、店員に向かって笑った。


「何卒ご容赦を」


 男はそう言うと、アレスを掴んで外に出ようとする。何をするんだ、とか、離せ、とかアレスはやかましく喚いたが、男の力はかなり強かった。酒場を出て、うらぶれた路地に連れて行かれる。そこでようやく男はアレスの腕を離すと、右手を左胸においてて家ににお辞儀をした。


「少々手荒かったのはお詫びいたします。わたくしはアジール。見ての通り、この国の者ではありません。無論、この国の宗教にも信心はございません」


 敵意をむき出しにしかけていたアレスも、最後の言葉に引っかかりを感じて、アジールと名乗る青年の顔を見る。目が小さく鋭いところが、ある種の鳥を連想させるような顔立ちだった。


「あなたの言う通り、この国の宗教は間違っていると思わざるを得ません。わたくしはそれを正すために参りました」


 訛りのひどい喋り方で、アジールは続ける。アレスはしばらく放心していたが、ようやく頭の中で話を整理して、聞き返した。


「あなたの信ずる宗教はどのようなものなのですか」

「神が多数おります。とはいえ、神とはいっても、あなたたちの宗教のように絶対的な力は持っておられません。彼らは人を裁いたり、救いを与えたりはしません。ただ導くのです」


 アジールは予め用意していたとばかりにすらすらとそう語った。


「では、人の死はどのように受け止められるのですか」

「万物は流転致します。死は回避できません。ですが、死は終わりでもない。我々が死んだならば、魂は残り、次の身体に宿って転生するのであります。そしてまた生き、死んでいく。その過程で魂が成長していく」

「非常に興味深いですね」

「それは光栄です。我々は我々の神を信じない者たちを、力で屈服させようとは思いませぬ。ただ、このようにお話をさせて頂いて、少しでも気に留めてもらえればと思っております」


 アレスはアジールに連れ去られたとき、忘れずに掴んできたジャケットを着込んで襟を正し、アジールに丁重に礼を言った。


「ここで出会ったのも何かの縁でしょう。わたくしは同じところに長く留まる人間ではありませぬゆえ、またお目にかかることは難しいかと存じます。しかし、我々の神は信徒を選びません。そのことだけは覚えておいて頂きたい」


 アジールはそう言うと、では、と再び深くお辞儀をして、路地を出るとリューゲの夜に消えていった。アレスは呆然と立ち尽くして、それから迷いなく路地裏を出るとイディの元へ帰ろうと歩き出し、気づけば駆け足になっていた。


 可能性が見えた。アレスは人知れず目を爛々と輝かせると、リューゲの夜の街を走っていった。

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