想い、歩む先に
短いくせに難産でした。
「ああ、無事来てくれたんだね。あたしが思ってたよりもずいぶんと早いご到着だ。この嵐だから。もしかしたらしばらく来れないんじゃないかと思っとったよ」
「この嵐は私にも予想外だった。今年は冬が来るのがずいぶんと早いな、目覚めが近いのかもしれない」
「あはは、そうかもしれんね。なら、お迎えが来る前にもしかしたら会えるかもしんないんねぇ。なんて、さ」
老婆の口調から待ち人が来たのだろう。
だが、若者は来客の声に、どこか聞き覚えがあった。
知るはずもない地で巡り合った声。
妙に懐かしく、だが自分が知るそれよりもどこか若い。
まさか……
そんな思いが心を駆け巡るが、振り返ることは出来ない。
「今日は千客万来だよ」
「千客?」
「アンタの他にも客が一人来てるのさ。こんな廃村に外から二人も来るとは、一体何年ぶりだろうね」
「そうか」
「アンタは若い頃と違って無口になっちまったからね。旅人さんを緊張させちまうから、カウンターの端っこさ座んねぇ」
「……」
旅人は無言のまま、カウンターに腰を落とす。
若者の喉が微かに震えた。
いや、そんなはずはない。あり得るはずがないのだ。
だから、これは気のせいだ。
二度とは交わることのない人生……
「さあさあ、身体も冷えちまったろ。ろくなもんはないが、酒だけは良いのがある。それでも飲んで身体を温めな」
「すまんな。そうだ、これは私からの土産だ」
そう言って二人がカウンターの上に置いたのは、同じ銘柄のワインボトル。
そして、どちらからともなく笑いだす。
「やれやれだねぇ。お互い長い永い付き合いさね。こんな事もあるのかねぇ」
「呆れるほどに長く永い時を共に歩んだ。こんな事もあるさ」
「酒はどっちのを先に開けるんだい」
「私のから開けよう。キミが用意してくれた酒は次の楽しみにしておく」
「次、かい……」
ポンっと封を切る乾いた音が鳴る。
「そう、さね……だけど、アンタが次来てくれるときには、あたしゃこうやってアンタにお酌出来るかどうか」
老婆の声が悲哀に揺れた。
「アンタは何時までも若いままだが、あたしゃもう皺だらけのババアさ。もう目もろくに見えん」
「アカリ、キミの肉体は確かに老いた。だが、その魂の輝きは消して朽ちることのない目映さを放っている」
「アハハ、やめとくれよ。こんなババアつかまえて輝くも何もないさね……って、ああ旅人さん、こっちで勝手に盛り上がってすまんね。貰い物だが、良ければアンタも一杯どうだい」
老婆の誘いに若者は一礼する。
「友人なのでしょう。俺のことは気にしないで」
「気にしようにも、もう出せる物も酒ぐらいしかないんだけどね。ま、お言葉に甘えさせてもらうさね」
そう言って離れていく老婆を見送り、若者はグラスの中のワインを無言で見つめた。
「アカリ、良いのか?」
「ああ、許して貰った。それでさっきの話の続きだけど、どうやらあたしにもぼちぼちお迎えが来そうでねぇ」
「……そうか」
「だから、さ。こまめに会いに来とくれよ。もう、友人って呼べるのは、アンタぐらいさ。あの娘にも会いたいが、果たして覚えてくれとるか……なんて久しぶりに会ったってのに、湿っぽくなるには早すぎだねぇ」
「お互い年だ湿っぽくなるのも仕方あるまい。何て、年と言うには長く生きすぎだがな」
「ホント、思えば随分と生きちまったねぇ。ああ、そうだ、アンタに会わせたいのが居たんだ」
「私に?」
「ああ、ちょっと待ってておくれ」
老婆はそう言うと、部屋の奥へと消えた。
薄暗い酒場を束の間の沈黙が支配する。
若者は、自分の声が喉の奥まで出かかるのを覚えた。この旅人と話がしたい、そんな衝動が自分を突き動かす。
だが、恐らくそれは許されない事だ。
その名を呼ぶことは、あたかも神官が神に救いを求めるかのごとき行為であり、同時に、彼が夢の中の住人であるということを思い知らされるのだ。
そう、これは夢。泡沫の夢だ。
なら、自分は何故ここに居るのだ?
わからない……
剣よ、お前がこの夢を見せているのか?
「またせたね、あんたに会わせたかったのはこの娘さね」
若者が自問を続ける内に戻ってきた老婆の手には幼子が抱かれていた。
愛らしい顔立ちだ。
女の子、だろうか。
孫娘か?
若者がそんなことを思っていると、赤子を見た旅人は驚いたように瞳を見開いていた。
「確か、遥……だったな」
「覚えてくれてたんだね」
「起こしたのか」
「言っただろ。あたしのお迎えももうぼちぼちさね。そうなったら、この子はもう二度とこの世界には出られないよ。こんな世界じゃ生きていくだけでも辛いだろうけど、それでも、どんなに辛くても自分が生まれた世界にもう一度起こしてやりたかったんだよ」
「母親としての、願いか」
「そうさね……でももし許されたなら、この子を平和な時代に起こしてあげたかったよ」
これ以上は盗み聞きだ。
若者はそっと二人に背を向ける。
ただ、客が他にはいない廃墟のような酒場。
途切れ途切れに会話は聞こえてきた。
おや、目を覚ましたみたいだ。あはは、アンタのことを怖がらずにじっと見て手まで伸ばして。怖い物知らずな娘だ――
あ、そういや忘れていたけど、一番なついてたのは――
あたしらには一万年前でも――
きっと、なんも変わっちゃ――
あんたは、あんたのままさ。強いくせに、涙もろくて、バケモノと罵られようと誰よりも情に――
ああ、そうだ、会いたかったねぇ……あんたが愛した女と。そういや、あたしと同族だったんだってね?
この娘といい、その娘さんといい。あんたはあたし達一族を惹き付ける何かを持ってるのかもね――
遠い遠い思い出を噛みしめる会話。
それはとても優しい声音だ。
そんな二人の雰囲気がおもむろに変わり始めたのは、老婆が故郷の思い出を切り出した辺りからだった。
ねえ、何かとんでもない事を考えてるんじゃ無いだろうね?
およし……もう、良いんだ。良いんだから……頼むから、今のは忘れておくれよ――
ボーン……
ボーン……
それは突如鳴り響いた柱時計の音だった。
若者が驚き振り返ると、そこは今まで居たはずの場末の古びた食堂では無かった。
真っ暗な、宇宙のように真っ暗な世界。
いや見上げた先や眼下には星々のようなモノが輝いているところを見ると、真に宇宙なのかも知れない。
上も下も分からない世界。
だが、若者は歩いた。
何千、何万、何億……
足が棒になりすり切れるほど歩いた先に――
「初めまして、あの人の希望」
ただ何かに突き動かされるまま、導かれるままに歩いた先。
そこには、宇宙の闇を貫くほど巨大な柱時計の下で嫋やかに微笑む女がいた。
次回、第一部最終回です。






