第35話 若きパイロットの葛藤
「ロンウェル」ファミリーは、長期間の要塞攻略戦に備えて糧秣の徴発を試みていたが、それなりの物資を艦内に、蓄えていなかったわけではない。数か月に及ぶ攻略戦の間も、贅沢な食生活を絶え間無く続けていられるだけの食料は、外から補充する必要があったが、3割以下に減らされた生存者が、1か月間ほど、かろうじて飢え死にしない位の生活なら、艦内の2割ほどの食料で事足りた。
その食料で投降して来た者達を養い、身代金と引き換えに故郷に帰してやることになり、それ以外の分の食料はL4-ラグランジュ点の集落に分け与える運びとなった。「ロンウェル」ファミリーは、徴発に来て、逆に、糧秣を巻き上げられる結果になった。
「我がファミリーの他の艦隊は、あなた方に誘き出されたように思うのだが、どうなったのだろうか?」
捕虜の1人が、通信機越しにカイクハルドに尋ねて来た。「ロンウェル」ファミリーの幹部の、数少ない生き残りの1人と名乗っていた。
「そろそろ、残党が逃げ帰って来る頃じゃねえかな。」
カイクハルドの返答の2時間ほど後、救難信号を発する戦闘艦が、「ファング」の索敵網に捕えられた。
散開弾で滅多打ちにされた「ロンウェル」ファミリーの戦闘艦が、かろうじて超光速の移動を成し遂げ、ここに戻って来ようとしている。第1艦隊が「ファング」に降伏した事実を告げられると、彼等もあっさりとそれに倣った。
「盗賊を追ってタキオントンネルで移動した先で、数千に及ぶ大戦力に待ち伏せをされ、全く太刀打ちもできずに一方的に叩きのめされました。」
と、報告され、「ロンウェル」の生き残り幹部は驚愕し、その場に立ち合っていたカイクハルドに説明を求める表情を向けた。立ち合うと言っても無重力だったから、宙に浮いている状態で、床に立っている者はいなかった。
「皇太子カジャの集めた兵だ。カジャも軍政打倒に蜂起し、1万を超える大兵力で『シックエブ』に向かう機会を狙っている。その兵の訓練も兼ねて、お前達『ロンウェル』の戦力を適当なサイズに切り分けて、カジャの部隊の前に差し出したんだ。」
「つまり、あなた方が仕掛けた罠だったわけですね。我々の部隊はまんまと連れ出され、カジャ様の大戦力の真ん中に放り込まれたのですね。」
悔しそうに「ロンウェル」の幹部は歯噛みしたが、捕虜である立場上、言葉遣いは丁寧にならざるを得なかった。
小部隊に切り分けられ、あちこちに連れ出されて行った「ロンウェル」ファミリーの各艦隊は、ことごとくカジャの兵に袋叩きにされ、僅かな戦力だけが這う這うの体で続々と逃げ帰って来た。
50艦くらいにも及んだはずの「ロンウェル」の戦力が、今は6艦ほどしか残っていない。それもすべて、戦力未満の損傷著しい姿だ。見るも無残な惨敗、と言って良い。
戻って来た者も、全て捕虜となる。兵達がかろうじて食い繋ぐ程度の食料以外は、全て「ファング」に接収されてしまう。例の如く、艦に乗っていた女達も「ファング」パイロット達が分け合った。「ロンウェル」が、ここに来る途中で立ち寄った集落から強奪して来た女も大勢いた。囲われる相手が「ロンウェル」から「ファング」に変わっただけではあったが、「ファング」では暴力を受ける屈辱も飢えさせられる苦痛も無い。強奪された身の上でのそれは、なかなか得難い待遇だ。
幸か不幸かパイロット達の目に留まらず、囲われなかった女達は、「ファング」の根拠地に送られるか、「シェルデフカ」の集落に引き取られる事になった。「ロンウェル」の下でなら皆無と言えた故郷に帰れる可能性も、ゼロでは無くなった。必ず帰れる、とも言えないが。
男達は、身代金と引き換えに故郷に戻す予定だ。それに向けての作業は、クンワールに代行してもらう事になった。盗賊団兼傭兵団より歴とした軍閥である「カフウッド」ファミリーの方が、そういった作業はやり易い。「ファング」は、身代金からいくらかの分け前をもらうだろう。金より物納の方が、この時代の「グレイガルディア」では多くを占めるので、身代“物”と言うべきだろうか。
それでまた、根拠地も潤う。「シェルデフカ」領域の集落の面倒を見る為に、かなりの出費を強いられていた「シェルデフカ」の「ファング」根拠地だったが、「ロンウェル」ファミリーへの勝利によって、ずいぶんと取り戻す事ができそうだ。
これから続々と送られてくる軍政派遣の征伐隊を餌食にして、「ファング」は集落支援の為に支払った分を数倍上回るくらいの収入を期待している。それこそが、盗賊兼傭兵としての暮らしの立て方、というものだった。
いずれ収入に繋がるはずの捕虜を抱え込んだ「シュヴァルツヴァール」は、クンワールとの合流ポイントに向かう手筈だったが、その前に、根拠地に立ち寄る必要も生じていた。
L4-ラグランジュ点の住民の為の隠し集落と、同じエッジワース・カイパーベルトの中に、「ファング」の「シェルデフカ」領域における根拠地はあった。クンワールとの会合ポイントに設定された場所もそうだ。
ドーナツ状に広がるエッジワース・カイパーベルト上の、中心星から見て隠し集落から60°ほどずれた位置に「ファング」の根拠地があり、90°ほどずれた位置にクンワールとの会合ポイントはある。
どちらの場合も、移動距離は数十億kmにもなり、光速でも数時間かかる計算だ。歯を食いしばって耐えねばならない加速を10時間くらい続けても、光速の1%程度にしかならない現実を考えれば、タキオントンネルで超光速の移動をしなければ、どうしようもない距離だ。
超光速移動でやって来た根拠地では、「ロンウェル」ファミリーから奪い、パイロット達が選ばなかった女達を降ろすのだが、「シュヴァルツヴァール」に囲われていた中で、身籠ったりパイロットから暇を出された女も降ろさなくてはいけない。
身籠った女は、無条件で最初に立ち寄った根拠地に降ろして行くのが、「ファング」のルールだった。いつでも人手が不足している根拠地に人員を供給することは、「ファング」を維持して行く上で必須だった。囲った女達の胎に宿った命は、「ファング」にとっては貴重な人材だ。
そして、今回「シェルデフカ」領域の根拠地に降ろして行く身籠った女達の中に、なんとナワープもいた。
当然のように、カビルは全力でヴァルダナを冷やかす。
「おい、おい、おい、おい、ヴァルダナ。お前、遂に、トーペーの忘れ形見を、孕ませちまいやがったのかっ!わっちゃー!トーペーの奴、あの世で泣いてるんじゃねえか?可愛いナワープの胎の中に、他の男の胤が、しかも、あいつにとっちゃ見ず知らずの男の胤が、実を結んじまったんだからな。」
「う、うるさい!『パレルーフ』の責任だ、これは。あいつらのせいで、一旦は全滅を覚悟させられちまったから・・その・・、ナワープが・・何か、見た事もない・・眼の色で・・・あ、あんな、とんでもない技・・・・・」
「あっははは、死を前にして、無理矢理、胤を搾り取られたってか、あーっははは。すっかり、身も心も組み敷かれちまってんだな、お前は、ナワープに。いーっひっひっひ」
「そ、そんなんじゃねえよ!・・けど、あいつに、・・あんな眼で・・あんな風に、あんな技まで繰り出されて・・迫られて、どうしろって言うんだよ?」
「どうもできないんだろ?眼の色変えて迫られたら。そういうのを、身も心も組み敷かれてる、って言うんだよ。」
笑いで顔を真っ赤にしているカビルと、怒りなのだか羞恥の念なのだか分からない理由で顔を真っ赤にしているヴァルダナの会話を、根拠地に乗り込む為に「シュヴァルツヴァール」の乗降口の手前で待機しながら聞いていたカイクハルドが、真面目な顔になって尋ねる。
「ヴァルダナ、お前、ここでナワープを降ろしてしまって、大丈夫なのか?」
「何だよ、それ、カイクハルド。俺が大丈夫じゃないわけ、ないだろ。」
「そうか、ヴァルダナ、お前、ナワープ無しじゃ、生きて行けねえ体に、なっちまったのか。」
「うるせえんだよ、カビル!そんなわけ、あるか!」
そんなやり取りの後に根拠地に乗り込んで行った彼らだが、十時間程後に根拠地での用事を済ませ、クンワールとの会合ポイントに向かって出発しようとした時に、「シュヴァルツヴァール」にヴァルダナは、まだ戻って来ていなかった。
「何やってるんだ、ヴァルダナ。もう、出発だぜ。」
腕の端末で、離れた位置にいても「ファング」のパイロト同士は会話ができる。カイクハルドは「シュヴァルツヴァール」の航宙指揮室にいたが、ヴァルダナは根拠地の中らしい。
「・・なあ、カイクハルド。しばらく、ここにいたら、いけないか?・・ナワープの出産が済むまでで、良いんだ。無事に出産するのを見届けたら、直ぐに『シュヴァルツヴァール』に戻る。代わりのパイロットくらい、いるだろ?それまでは、そいつに俺の代行やらせてくれないか?」
「お前の代わりのパイロットを仕立てることは、できる。だがな、お前を『シュヴァルツヴァール』に戻す事は、保証できねえ。『シュヴァルツヴァール』が次にいつこの『シェルデフカ』の根拠地に来るかは、分からねえんだ。お前ひとりを拾う為にここに来るような事も、ここから輸送船か何かを出す事も、できねえ相談だ。パイロットの補充は、別の領域の根拠地でもできるんだからな。それに、『シェルデフカ』にもローカルに活動している『ファング』は3つあって、お前がパイロットを再開したいって言い出した時に、そっちが補充を必要としてたら、お前はそっちに回る事になる。『シュヴァルツヴァール』に戻れる可能性は、相当低いぜ。」
淡々としたカイクハルドの口調は、少し突き放すようでもある。
「そんな・・な、なんとか、ならないのか。ここでナワープの出産を見届けて、その後『ファング-0』に戻れるように、何とか手配できないのか?」
「それは、できねえな。お前ひとりの為に、『ファング』の規律を乱す事はできねえ。『シュヴァルツヴァール』の行き先も、パイロットの配属先も、個人の気持ちや都合では左右されねえ。」
「そ・・そんな。」
「ここで『シュヴァルツヴァール』を降りたら、お前は、姉ちゃんとは永遠にサヨナラする事になるかもしれねえ。『シュヴァルツヴァール』に戻れば、ナワープとはサヨナラだ。お前は今、どちらかとの決別を、決意しなくちゃいけねえ。」
「う・・っ」
つい最近17歳になったばかりの少年には、酷な宣告かも知れないが、ナワープかラーニーか、ヴァルダナはどちらかに、別れを告げなければならない。
普通に考えれば、カイクハルドに強引に押し付けられて部屋で預かっていただけのナワープと離れる方を選ぶはずの場面だが、今のヴァルダナにとってナワープは、そう簡単に割り切れる存在ではないだろう。そうでなければ、しばらくここに残りたい、などと言い出すはずがない。
自分の子を身籠っているとか、そんなものだけが理由では無いだろう。出産が済むまで、とか言っているが、それも口から出まかせだろう。ナワープがいない生活が、恐ろしいのだろう。カイクハルドは、そんな想像をした。
囲った女に惚れて、その女が身籠るとともに「ファング」を去って行ったパイロットも、過去には何人かいる。それを禁じてはいないし、カイクハルドは止めようとした事はなかった。
が、当然、あまりそんなパイロットに続出されては、「ファング」が維持できない。パイロットに複数の女を囲わせているのも、一人を溺愛させない為の布石でもある。勿論それで防ぎ切れるはずもないが、確率を減らす効果くらいはあるだろう、と思われている。
同じ根拠地で降りた男女は、そのまま共に暮らしていける可能性は、低くはない。根拠地からどこかの集落などに移住させられる可能性もあるが、共に行動したいパートナーがいる場合は、それも斟酌して、誰がどこに移住するかなどは決められる。
移住という話が出ないケースもある。その場合、男は戦闘艇のパイロット以外にも、資源採取や施設建設・メンテナンスの技師として働く道もある。輸送船や連絡艇のパイロットなどの仕事もある。各領域専門のローカルな「ファング」のパイロットになる道もあり、その場合も、パートナーの暮らす根拠地には頻繁に訪れる。彼女と共に過ごせる時間も多くなるだろう。
必ず意中のパートナーと添い遂げられる、とまでは、こんな戦乱の時世では保証してやれないが、添い遂げたいと切に願う男女が力ずくで引き離された、という話を「ファング」根拠地に関しては、カイクハルドは聞いた事は無かった。誰かのパートナーを強引に奪い取れる権力、などというものも「ファング」には存在しない。「ファング-0」のかしらですら、そんな権限は与えられていない。
ヴァルダナも、ナワープに心底惚れたというのなら、ここで「ファング」を離れ、彼女と共にこの根拠地で生きて行く、という選択肢は悪くはないだろう。ラーニーの存在が無ければ。
しかしヴァルダナは、いつか姉であるラーニーを連れ出し、彼女にふさわしい暮らしをさせてあげるのだ、という決意のもとに「ファング」のパイロットになった。カイクハルドを殺して姉を取り返す、という決意が今、彼の中でどうなっているのかまでは分からないが、姉と離れ離れになり、二度と会えなくなるかもしれない、となれば、その決意は壮絶な苦痛を伴うだろう。
だが、
「こ・・ここに、残る。あ・・姉上とは、は・・はな・・れ・・て・・・」
と、絞り出すように、ヴァルダナは呟いた。
「・・そうか。ナワープに、そこまで惚れ込んじまったか。」
「・・す、済まない、カイクハルド・・。ここまで、色々・・教えてくれて、鍛えてくれたのに・・」
「いいや。俺の事なんか、良いさ。別に、悪い決断でも、間違った選択でもねえぜ。全てを捨てて、一人の女の為だけに生きる、ってのも、男の生きる道の一つさ。ナワープを守るのに俺の教えのどれかが役立てば、お前を鍛えて来たのも無駄にはならねえしな。」
「う・・ん」
「で、姉ちゃんには、ひと言、挨拶するのか?あいつには、お前が『ファング』に入っているってのは教えてねえし、会える機会があるとも言ってねえから、今更、一生会えなくなるって伝える必要も、ねえかもしれねえがな。でも、話ができる機会は、これが最後かもしれねえから、話したいって言うんなら、あいつに通信を繋いでやっても良いぜ。」
「え?・・ええ・・あ・・ああ・・あの・・うっ・・」
「話すか、話さねえか、それも、直ぐには決められねえか?」
「え・・あ・・う・・・ん。」
「全く、しょうがねえな。じゃ、しばらく考えてろ。俺は今、航宙指揮室だが、今から部屋に戻って、ラーニーの隣に行く。そっからまた連絡するから、それまでに、どうするのか決めておけ。」
「・・分かった。」
隣で話を聞いていたらしいトゥグルクも、複雑な表情だ。
「しょうがねえ奴だな。」
と、ため息交じりに呟くが、悲しみとも苛立ちとも、何とも言えない声色だ。その脚の上のいつもの少女は、なぜだか涙目になっている。
「とにかく、部屋に戻るわ。」
「ああ。」
トゥグルクの声を背に受けながら、カイクハルドは艦内を飛翔して行く。部屋に戻る道すがら、ラーニーがどんな反応を示すだろう、と考える。
ラーニーには、ヴァルダナがここにいる、などと言ってはいないが、時々、実は感付いているのじゃないか、と思える時がある。最愛の弟の存在は、会わなくても気配で察知できるものなのか、それとも、カイクハルドの態度や言葉の端々から、その事を見抜いているのかもしれない。
そうだとしたら、今からヴァルダナが、彼女を置いて「ファング」を去る、と告げられたら、ラーニーはどう振る舞うだろう。
ヴァルダナがここにいる事に、気付いていない可能性の方が高いが、そうだとして、今からヴァルダナに突然通信で話しかけられ、これが話をできる最後の機会だ、と告げられて、どんな気分になるのだろう。
もしかしたら、自分もここで降ろして欲しい、と懇願するだろうか、とカイクハルドは考えた。身籠っていない女を降ろすか残すかは、完全に囲っているパイロットの一存だ。身籠っていなくても、パイロットが降ろすと決めれば、囲われている女は降りることはできる。これまでも、囲っているパイロットを説得したり泣き落したりして、「シュヴァルツヴァール」から降りて行った女は沢山いる。
故郷に戻る事すら、叶った女も少なくない。「カフウッド」の領民だった女の中にも、一旦「ファング」のパイロットに囲われた後、故郷の集落に戻って行った女が何人もいた。
ラーニーがここで降ろしてくれと懇願して、カイクハルドが良いと言えば、ラーニーも弟と共に「シェルデフカ」の根拠地で暮らして行く、という道が開ける。ラーニーにそうされた時、自分がどうするのか、カイクハルドには想像が付いていなかった。
そうなるかどうかも分からないから、それについて答を出そう、とも思わないまま、カイクハルドは、自室にたどり着いた。扉が開く。一番手前にあるリビングには、ラーニーはいない。例のごとく、執務室で端末に向かっているに違いない。
廊下の壁を蹴って部屋に飛び込むと、無重力の室内を遊泳するカイクハルドは、リビングを横切った。手頃な間隔で壁から飛び出しているポールで、無重力中でも方向転換や姿勢制御等が楽に行える。執務室の扉に近づくと、彼の腕の端末との相互作用で、扉は自動的に開いた。ラーニーの後ろ姿が目に飛び込む。
白い、伸縮性に富みそうな布地が、シルエットを強調するかのように張り付いている背中が見える。首周りはゆったりとして、うなじの肌を露出させている。シートベルトが、椅子に身体を固定しているのだろうが、それは後ろからでは見えない。
カイクハルドが部屋に戻ったのには、リビングと通路を隔てる扉が開いた時にラーニーは気付いているはずだ。扉の開閉する音や振動が執務室にも小さく響くのを、カイクハルドも知っている。
執務室の扉が開いても、彼女は反応を見せないが、それも、いつもの事だった。敢えて無視しているのか、端末の操作に夢中なのかは分からないが、既に気付いているはずの彼の帰着や入室に、端末を操作中のラーニーが、反応を見せた事は無い。
彼女の横に回り込み、ディスプレイに視線を固定させたままの彼女にカイクハルドが声をかける、というのがお決まりのパターンになっていたが、今日は、容易に執務室に踏み込む気になれなかった。
執務室の扉付近に漂いながら、じっとラーニーの背中を見詰めていた。
(これが最後に、なるんかもな。)
予感がよぎる。別に、彼が降ろさないと決めれば、最後にはならない。が、降ろしたくないのか、降ろしてしまっても別に構わないのか、彼にもよく分からない。2年も熟成させて来て、何もせずに降ろすのが口惜しいなら、最後に一度だけ頂戴しておく、という選択肢もあるだろう。その意志を告げれば、恐らく、反論も抵抗も受けず、すんなりその通りになるのだろう。
(ヴァルダナから決別を告げられたら、ラーニーも、ここで降ろしてくれ、と言うのか。そう言われた時、俺は、何もせず降ろすのか、一度だけ頂戴して降ろすのか、降ろさないのか。)
心中の呟きは、疑問形では無かった。可能性のある事柄を、羅列してみただけだ。それを自身に問いかけるのを、彼は、時期尚早に感じている。
いつもと違う気配を感じたのか、ラーニーはゆっくりと振り返った。端末での作業中に、話し掛けてもいない内から彼女が視線を向けて来たのは、カイクハルドの覚えている限り、今回が初めてだ。
問いかけるような視線の奥に、微かに怯えたような色が、見える気がする。
「どうか、なさいましたか?」
問いかけは言語になったが、眼の奥にある何かは、言葉には登らない。だが、ただならぬ気配は、確かに感じている。衝撃に身構える力みが、ほっそりとしたシルエットのどこかに、どことなく漂っている。
「いや、別に。居る事を、確かめただけだ。」
とぼけた口調でそう言って、カイクハルドは一旦扉を閉めた。扉1枚だが、普通の音量の会話は通さない。よほど大声で話をしない限り、扉の向こうから盗み聞きはできない。
扉を閉めておいて、腕の端末を操作し、カイクハルドはヴァルダナを呼び出す。彼が、挨拶をせずにラーニーと離れる、と言えば、ラーニーが「シュヴァルツヴァール」を降りたい、と言い出す事態もあり得なくなる。そうなる可能性が一番高いように、カイクハルドは感じている。
「あ、俺だ。ヴァルダナだ。」
ためらいがちな声が、腕の端末から洩れる。
「今、ラーニーの傍に来た。扉一枚向うにいる。で、どうするんだ?姉ちゃんに、別れを告げるのか?それとも、黙ったまま降りるのか?」
「え・・ああ・・そ、それだけど・・あ・・あの・・な・・な・・ナワープが・・・・」
「・・ナワープが、どうした?」
「な、ナワープが・・・ナワープに・・・ナワープ、ナワープの言うには・・・ナワープによれば・・・ナワープは・・・」
「だから、ナワープが、どうしたって言うんだ!? 」
「な・・ナワープが、戻れって、『シュヴァルツヴァール』に。」
「・・で?」
「・・も、戻る。」
「・・・・・・・・・・じゃあ、さっさとしやがれ!5分後に出発だ!」
殴るように、端末を操作したカイクハルド。
「トゥグルク、聞こえるか?」
「うるせえな。そんな大声出さんでも、聞こえるのは知ってるだろ。」
「5分後に出発だ!誰が戻ってようが、戻ってなかろうが、5分後に絶対出発だ。」
「誰が、って、いねえのはヴァルダナだけだろ。5分以内にヴァルダナが戻るから、その後に出発だな。了解だ。」
通信は切れた。カイクハルドの返事を、待つ事も無く切れた。
「ちっ、どいつもこいつも。」
毒突いたカイクハルドは、なぜだか笑顔だった。苦笑いに属する笑顔かも知れないが、少なくとも、苛立ちや憤りは、微塵も見受けられない表情だ。
一旦執務室に体が向かいかけたが、直ぐに急転回してベッドルームに向かった。扉を開けると、ペクダが目に飛び込む。ベッドの上に、ちょこん、と座っている。向うもこちらに気付く。馬鹿みたいに愛嬌を振りまいた笑顔を見せ、手まで振って来る。お待ち兼ねのようだ。
反転し、もう一度執務室に向かう。扉を開ける。扉のすぐ向うに、ラーニーはこちらを向いて浮かんでいる。無重力だから、立っている事はできない。扉にへばり付くように浮かんでいた、という事だ。
執務室の扉が開いた瞬間に、端末に向かっていないラーニーを見るのも、多分これが初めてだ。カイクハルドは少し、ぎくり、とさせられた。
「何なのです?大きな声を出して。誰に、何を怒鳴ってらしたのです?」
「今日の相手は、ペクダだぁっ!」
「・・・そうですか。なぜ、わざわざそんな事を、これ見よがしに宣言なさるのでしょう?こんなの、今までに一度も・・・」
ラーニーに最後まで言わせる事無く、にんまりとした笑顔で待ち構えるペクダの方へと、カイクハルドは逃げるように飛翔して行く。
それを見送るラーニーの表情も、つい今しがたのカイクハルドと、ほとんど同じ種類のものかも知れない。
今回の投稿は、ここまでです。次回の投稿は、'18/9/29 です。
「ファング」根拠地と"隠し集落"の位置関係などを、少し詳し目に書きました。スケール感というのを、どうにかして上手く表現したくて、色々やってみているのですが、どんなもんでしょうか?「数十億km」と書いただけでは伝わり切らない気がするので、「光速でも数時間」とか「歯を食いしばって耐えねばならない加速を10時間くらい続けても、光速の1%程度」なんてくどくどした説明を付け加えたりしましたが、それでも宇宙のスケール感を表現できたのかどうか自信がありません。作者自身、「数十億km」のスケール感をどこまで把握できているのか・・。地球から海王星までくらいの距離、とか言っても、分かるような分からないような・・。やはり、人間には理解不能なスケールなのかも。とりあえず「ファング」の戦いの舞台が、とんでもなく広い領域であり、それですら「グレイガルディア」のごく一部に過ぎない、ってあたりを御承知頂きたいと思います。そんな壮大な世界観の中でナワープに振り回されるヴァルダナなどは、読者様にどういう印象を与えたでしょうか。少しでもお楽しみ頂けていることを切に願います。というわけで、
次回 第36話 プラタープの快勝 です。
ヴァルダナのひと悶着はありましたが、「ファング」は順調に戦果を挙げています。が、「ファング」だけが戦果を挙げていても仕方なく、他の戦況が重要になります。根拠地を出立した後の彼らの行動とともに、それらに思いを巡らして頂きたいです。ちなみに、プロローグに描かれた戦いは「宇宙要塞ギガファスト」でのもので、まだ先になります。「ギガファスト」に誘い込む為にまず、「宇宙要塞バーニークリフ」で、プラタープは征伐部隊を叩かなければならないわけです。読者様に置かれましては、混乱なさらないようお願い申し上げます。




