涙の先に、あるものは。
あと、もう少しで辿り着けそうな山の頂きを前に…ヽ(´o`;
第7話をお届けします。
いやはや、長いです。
ゆとりのある時に読んで頂ければ、幸いです。
*
「………貴方が国の次席にある人物で無かったなら、今頃その首の皮繋げてはおかないのですが………」
「………後宮の侍女がするような発言ではないと思うが、そこは今回目を瞑ろう」
誰がどう聞いても、平穏とはかけ離れた会話の応酬を前に頭を抱える私です。
*****
月の宮の騒動を終え、王宮へ戻る宰相様に同行したクリスタと私。
とはいえ、クリスタには私の姿は見えていないのですからこの認識は私が抱く一方的なものと言っても過言ではありません。
二度の白刃をその身に向けられたグレイス・エルトリア侯爵令嬢。
彼女を無事医療宮へ移送した後、報告に訪れたのは宰相補佐フォルテ・ランドゥール。
彼は最初の動揺が嘘のように、淡々とした報告の後に退室していきました。
扉の向こうで聞こえた、彼の内心の呟きはここでは描写いたしません。
人は皆、それぞれに抱えるものがあると言えば分って頂けると思うからです。
とはいえ、ここは宰相様の政務室。
王宮関係者の中でも、ごく限られたものしか入室を許可されない特別な部屋です。
そこまで聞けば明らかですわね。
生前においては、縁もゆかりも一切ありませんでした。
死後こうして足を踏み入れてみた初めの感想をお伝えするなら……。
そうですね。
壁、といった印象です。
言うまでも無い事ですが。
ここで言う壁は、そのまま壁を描写したものではありません。
堆く積まれた、書類の壁という意味です。
山のようです。
紙一枚も、積み上げていけばこうなるのだと実物を前にした現実。
その光景に印象を固定してしまうのは、無理も無い事だと思うのです。
あら、よく考えてみれば書類の山と言った方が簡潔でした。
訂正いたします。
宰相様の政務室は、書類の山々に囲まれておりました。
そんな部屋に足を踏み入れた自分が、『壁』に圧倒されている間。
クリスタがどうしていたかと言えば。
徐に茶器を捜索に掛かり、ものの数分後には政務室に茶葉の良い香りが漂っています。
やはり私の侍女であった事が惜しまれるばかりです。
彼女の能力の高さは、こうした場を前にして如何なく発揮され得るものなのですから。
とはいえ、部屋の主人である宰相様とクリスタ、見えない私を囲んでの改めての対談第一弾。
実際はお茶を啜っているのは宰相様一人ですが。
一見して和やかに見えなくも無いですが、張りつめた空気が全てを否定しています。
若干頬を引き攣らせつつ、宰相様は初めから率直に伝えます。
「君には見えてはいないのだろうが、君の隣には今メリア・オーディス伯令嬢が座っている」
「冗談もほどほどに留めて下さい。過ぎれば、愚弄とみなします」
………クリスタ。
生前私が見聞きして来た貴女が霞みそうなほど。
今の貴女が発している色は、そう……まさに紅蓮の炎のよう。
常が青色の、静けさのある炎だと例えるなら。
今は些細なことでも弾け飛ぶ、そんな燃え盛る炎のようです。
彼女がこれほどまでに感情の揺れ動きが激しい性質を持っていたことを、今ようやく知った私。
正直に言いましょう。
少し、悔しくも思いますの。
徐々に心を開いてくれていた事を、疑うことは無いとしても。
それをものの数時間で目にしている宰相様に、ほんの少し嫉妬に似た何かを覚えたのです。
きっと何を言わずとも、私の目を見れば明らかだったのでしょう。
宰相様は、やはりここでも苦笑してみせます。
その苦笑は、私に向けられていたものでした。
けれどもクリスタの側からすれば、先程の発言に苦笑で返されたと判断するのも無理はありません。
それが冒頭の発言につながった次第です。
宰相様の懐の深さも、ここまで来ると見過ごせない私。
仮にも国の次席に対し、これ以上の暴言は道義に反します。
ましてや、その原因になっているのが他でもない私自身となれば。
けれども、ペンを持ちあげる事すらも出来ない現状に気付いた私。
先の花瓶騒動によって消費された分は、ペンを持ちあげるだけのそれさえも余力として残ってはいないのでした。
これがミイラ取りがミイラに……という言葉の意味を噛み締めています。
身を以てそれを知った私。
とはいえ、何もしない訳にはいきませんの。
視線を上げた私は、宰相様に一つ頷きます。
それを受けて、首を傾げたい心境であろう宰相様。
それでも頷き返して頂けた時点で、私は重い口を開きます。
「………クリスタ・エルトリア。君に、伝えたい事がある」
暫く視線を外して困惑した表情を浮かべていた宰相が、何やら気まずげな様子でそう口にしたのはクリスタが二杯目の茶葉を漉している最中の事だった。
そうして宰相が口にした言葉に、手にしていた茶器が滑り落ちる。
「君が後宮にやって来たその日、一番初めに驚いたのは王宮役人の尋常ではない顔色の悪さだった………で、合っているか?」
「………っ?! あ、なた様は………一体どこでそれを」
「………当りらしいな。それにしてもこれは、言っていて我が身を抉られる言葉だ…… ん? ああ、そんなに縮こまらなくていい。事実は事実だからな………」
前半はクリスタに向けて、中間は王宮役人の管理を担う自分に向けて、そして後半はメリアに向けて紡がれる言葉であった為。
一人に対して紡がれてはいたものの。
その内実はかなり複雑な事になっている。
「………どうする、クリスタ・エルトリア? どうやらまだ、あることはあるらしいぞ。
一つ一つ挙げていってもいいのだが……正直それは必要ないと私自身は思う。君の内実が露わにされていくばかりで、君はそれに頷くだけの事になるだろうからな………」
目を瞠ったままだったクリスタは、暫くそのまま宰相を凝視していた。
しかし、それに徐々に理解の色が混じる。
宰相が視線を向けている方向へ、クリスタはゆっくりと頭を巡らせ、問う。
「………本当に、そこにいらっしゃるのですかメリア様………?」
まるで迷い子が、親を見つけた時の様な震える声と縋る様な視線。
それを前にしてメリアが迷う筈も無い。
伸ばした指先を、クリスタの頬に触れる。
まるでそれが、引き金になった様に。
クリスタの頬を双眸から零れ出したものが伝っていく。
「………メリア様。あぁ、信じられない。宰相様が仰っていたことは事実だったのですね。貴方を前に、私は今までどれほど見苦しい姿をお見せしてしまったのでしょう………」
触れている指先に、指先を重ねて。
クリスタは張り詰めていた糸を解す様に、ただ泣き続けた。
その間も指先の感触はずっと彼女の頬にあり。
それを感じる度、彼女は涙を零さずにはいられないのだった。
程なくして、クリスタが最後の涙を拭う頃。
赤く泣きはらした目元を抑えつつ、席を立った彼女はその場で膝を折る。
「数々のご無礼、言葉にもなりません。如何様にも罰して下さいませ。……宰相 ギルバート・フレイメア公爵様。この場で改めて謝罪と感謝を」
「顔を上げなさい、クリスタ・エルトリア。君が誤った言動を取ったことは確かだ。だが、その心根までもが誤りであったとは思わない。君は君の主が為、国の次席を前にしても思いや言葉を偽らなかった。その正直さを、個人的には間違いと称したくない」
「………寛大なお心、痛み入ります。ですが、私は罰せられるべきですわ。それほどの言動を取ったことは私自身認識しております」
「………ふ、君の様な侍女をもったメリア嬢は幸せだったろう。……ああ、そうだな……」
「………?」
「すまない。メリア嬢が、そんなことは当然だと言っているので相槌を打っていた。クリスタ・エルトリア、こうと決めたら君は頑固だと他でもない君の主が言っている。それに間違いはないな……?」
宰相様の言葉に、クリスタはほんの僅か苦笑に留める。
それは言葉にしなくとも伝わる、答えそのものだった。
「分かった。………ならば、君に罰を与える事にしよう。君の主が死に至る要因となった人物の特定及び立証。その要因を後宮から放逐するその道筋を彼女の家族と共に歩み、その目的を遂行する為の助力を君に命じる」
その時、クリスタが浮かべた束の間の茫然。
口元だけで、何かを呟いたかに見えたほんの僅かな逡巡の後に。
彼女はその場に膝を付き、わが身に受けた罰に深く深く頭を垂れた。
「………謹んでお受けします。私の身の及ぶ限り、私の主の為、この身を賭して元凶を炙り出す事をお約束いたします。この道を私に与えて下さった宰相様へ、心からの感謝を申し上げます」
凛と、紡がれたその言葉には最早僅かな迷いも見出すことは出来ない。
クリスタはこの時、失った筈の主の傍らに再び立てることへの喜びと共に。
一度は吹き消していた意思の炎を、再びその胸に灯す。
その灯は、きっとこの先彼女の変らぬ道標となるだろう。
「今日一日、君には主を休ませる任を与える。……おそらく丸一日休めば、明日には回復できると言っている。回復して、君と筆談をしたいそうだ」
「主と直接会話できる宰相様、貴方が羨ましくてなりません……分かりました。では、私室へ主をお連れする事にします。今後の連絡手段については、どのようにすれば宜しいですか?」
「取り敢えず、後でフォルテを君の元へ行かせよう。その時までに考えておくから、もう少し時間を貰えるか?」
「承知いたしました。……宰相補佐様の顔色が少しでも改善されているといいのですが……」
「………改めて君の主が、メリア嬢であることが分かる発言だな。………善処しよう」
苦笑した宰相様に再び一礼し、政務室を出たクリスタと私。
こうして二人並んで歩くことは、生前にも叶わなかった事。
それを今こうして実現できたことを嬉しく思う私です。
「メリア様……? まさかと思いますが、私の隣を歩いてはいらっしゃいませんか?」
侍女は、斜め後ろか後方に。
それが後宮での言わずと知れた規律です。
しかし、私はすでに死んでおりますので。
その限りでは無いという事をお伝えしておきましょう。
「………歩いていらっしゃるのですね。何だか指先が弾んでいる感覚を覚えるのを気のせいだと思いたいのですが………」
やはり私の侍女は優秀で、私には勿体の無い事実を改めて感じている現在。
クリスタの微かな溜息と、口元に隠しきれない頬笑みを横目に私たちは後宮へと戻ったのでした。
*
「ミル、どうやら無事にエレナはフェリバートと合流したようだ。一時はどうなる事かと思ったけれど、エレナのこういう時の勘は君譲りだね……」
「貴方の傍にいると言うことは、つねにそうした危機感に晒されているということと同義なのですよ? 私も初めから物事を俯瞰で見られた訳ではありませんから。王都を共に出立したあの日から、自然とその身に付いたものですわ」
オーディス伯爵夫妻がそうして語り合うのは、リーベンブルグ家の応接室である。
王都にその邸をもつ貴族家は、中央貴族と称される。
王宮内での官職を代々に渡って務めるリーベンブルグ侯爵家。
侯爵家の中では、閑職と呼ばれる財務に携わっている現当主。
それがグイード・リーベンブルグ侯爵である。
彼を父親に持つミルドレッド・オーディス。
彼女は、長くこの生家を訪れてはいなかった。
それもこれも、勘当同然の身でこの家を飛び出した経緯があった為。
彼女はもう生家へ戻る日は来ないであろうと漠然と感じていた。
そしてそれを、後悔する思いも抱いてはいなかったのである。
彼女の愛する娘が後宮内で殺された、その時までは。
これによって、彼女の中の全てが一変した。
彼女は、誓った。
娘を殺した元凶全て。
後宮という暗い檻の中から引き摺り出し、然るべき報復を果たすことを。
長きにわたって胸に置いていた生家への蟠りに終止符を打つべく、彼女は一人その生家へ足を踏み入れた。
数十年ぶりの生家を前に、迷いが無かったとは言わない。
しかし、そんな事よりも遥かに大切な事を見据える彼女。
その足を留めるほどのものではなかった。
久方ぶりに正面に見据えた、父と呼べる人の老いた姿。
それでも双眸に見える、変わらぬ光。
それは冷淡と称してもおかしくないほどの冷たさを以て、嘗ての娘を見詰めた。
「数十年ぶりに姿を見せたと思えば、当主に会わせろの一点張り。お前も少しは成長したかと思えば………まるで変わっておらんな」
「………私が今日足を運んだのは、私が嘗て父と呼んだその人に会いに来るためではありません。他でもない、リーベンブルグ候に助力を願う為に参じたのです」
「………娘として、この家に足を運んだ訳ではないと言うのだな。その上で助力を願うと言うその意味を、お前は理解したうえでこの場にいるのか? ……呆れて物も言えん」
その冷然とした眼差しに、普通の者なら身を凍りつかせた事だろう。
しかし、彼女はもう嘗ての娘では無い。
母として、妻として見据えた双眸はけして折れない。
「それでもどうか、聞いて下さい。どれほどに都合のいい話を押しつけているかは承知の上です」
「………出て行きなさい。お前と話すことはもう無い」
「聞いて頂けるまでは、ここを出ません」
溜息を零し、邸内に置いている私兵を呼ぶリーベンブルグ候。
その背に、全てを排した様な簡潔な事実が告げられる。
「私の娘が、後宮内で殺されました」
振り返り、その冷然とした色を一変させたそれを。
ただ一心に見据えたままで言葉を重ねる。
「貴方にとっては、孫娘にあたる子です。そう思った事など一度も無いのかもしれませんが……」
「殺された、だと………?」
「そう……殺されたのです。あの子は、メリアは……まだ十六歳でした。覚えていらっしゃるでしょう、二年前に辺境までをも対象として送られた後宮召集の知らせを。本来は長女のエレナが行くべきところを、あの子はエレナの幸福を壊さないその為だけに、その身を犠牲にして後宮へ入りました。ご存じでしょう、後宮と言う場所がどれほどの闇を孕む場所であるのかを。……たった十四歳だったあの子をそんな場所へやってしまったことは、私たち両親の消えぬ過ちです。私たちが愚かだったのです。あの子は後宮においても、生まれ持ったその良心を曲げられなかった。姉の幸福の為に我が身を差し出したあの子です。疑う余地はありません。私の娘は後宮の不条理から目を背けることをしなかったのです……。それをあの闇に目を付けられた。娘の命までをも無慈悲に奪い去った、あの闇を後宮から払うその為に。その助力を願うその為だけに。私は今、この場に参じました。それが私の決意であり、例えその助力を頂けなくとも。………そう。せめて孫娘であったあの子の死を、祖父である貴方に伝えておきたいと思った私のエゴですわ………」
言うなり、踵を返そうとしたミルドレッド。
彼女は次の瞬間に目にしたものへ、目を瞠ったまま足を止めていた。
リーベンブルグ候の目から、滴り落ちて行くそれを。
信じられない気持ちのまま見詰めていた。
彼女が覚えている限り、父がその目から涙を零したのはただ一度きり。
それは母が急逝した日。
邸の全員が寝静まっていた夜半、その肩を震わせている姿を垣間見たそれきりで。
あの日以来、温かな心をまるで失ってしまったような父へずっと失望しか抱いてこなかった。
それが誤りであったことを、ミルドレッドはその二度目の涙を前に知った。
父は、心を凍らせていただけであったのだ。
けしてその心を、失っていた訳ではない。
ただ、凍らせなければならないほどに。
凍らせる以外に、その心を失わずに済む方法が無かっただけで。
ずっと、父はその心を。
母を愛し、家族を愛して来たその心を守る為に。
ただ、それだけの事であったのに。
ずっと私は、それだけのことに気付いてこなかった。
いつしか、彼女の目からも溢れ出たそれは頬を濡らした。
娘を失った悲しみと。
今まで父を誤解し続けていた、そのことへの後悔と。
気付いた。
父は、生前のメリアに二度と会う事も叶わない。
そうさせたのは、自分だ。
目を曇らせたまま、その機会を永遠に奪った。
最早、取り返しがつかないその事実を前に天を仰いで嗚咽を零した。
けれども。
そんな彼女を抱きしめ、もういいと。
父は娘に向けて、そう言うのだ。
もう、自分を責めるのはやめなさいと。
本当に愚かであったのは、私。
母としてあの子を守る事が出来なかったばかりか。
父にも、あの子自身にも、取り返しのつかない過ちを繰り返した。
声を抑える事も儘ならず、慟哭した娘の体を抱きしめたまま。
扉の向こうで茫然としている私兵たちを背景に。
ただ静かに、涙を零し続けたリーベンブルグ候。
彼らは、この時ようやく父娘としての本来の姿を取り戻したのだ。
娘がようやく冷静に立ち返る頃を待ち、リーベンブルグ候はその闇の正体を問うた。
娘の口から出た、その家の名に再びその目を冷然としたものへ戻した彼は。
疲れ切った様子の娘の肩に手を置き、協力を約束した。
「お前の家族だけに、背負わせまい。メリアは……私の孫娘は、紛れもないお前の愛し子であると同時に私の大切な家族であったのだ。それに手を出せば、どうなるか。それをエルトリアに示して見せよう」
数十年ぶりに父の優しい声を耳にした娘はその場で再び泣き出しそうになる。
しかし、彼女もまた子を持つ一人の親だった。
辛うじて微笑みに変えたそれを、痛ましげに見つめる父へ。
大丈夫よ、父さまと。
ようやくその言葉を、父に伝える事が叶った。
未だ痛む胸を抱えたまま、彼女は後宮にいる家族の元へ戻った。
その時はまだ、父にメリアが今も霊魂として留まっている事実は伝えていない。
それを明かす時ではないと彼女自身が判断したためだ。
伝えれば、きっと父は娘の正気を疑うだろう。
本来なら、伝えておきたいそれも。
実際に目にするその時までは、とても信じてはもらえない。
それを、リーベンブルグ家に身を寄せたその夜に夫へ告げた。
彼はそれに頷いてくれた。
「君のその考えは間違っていない。僕ら自身、ディルの正気を疑った様に今回の奇跡は言葉で伝えられるものではないからね。……お義父さんには、当日に紹介しよう」
「父さまは……どれほどに驚く事でしょう。救いにならないことは分かっているわ……それでも、あの子が霊魂として留まっていてくれる事でどれほど私たちが救われているか。……ふふ、きっとあの子自身は思いもしないのでしょうね」
「……そうだね。あの子は、そういう子だ。僕らなんかには勿体ない、自慢の娘だよ」
泣き笑いの様な表情を浮かべた夫を、腕の中から見上げている今も。
全ては、メリアが死んで尚も家族を救ったからに他ならない。
ミルドレッドは知っている。
一度は、自らの手で令嬢の殺害まで至りかけたこの人の手を。
同時に、長兄であるディルが抱いた殺意を。
メリアが止めなければ、とうに崩れ落ちていた。
オーディス家の未来は、あの時メリアが掬い上げたことで存続している。
今も、ずっと私たちはあの子に救われ続けている。
それは自分だけではなく、きっと家族全員が認識している。
既に終わっていたかもしれない本来を思えば、この先にどれほど恐れるものが残っているだろう。
あの子の母親として。
あの子を幸せに出来なかったことを悔い続けるだけでは、駄目なのだと。
それを認識できた今を、何よりも大切に抱えながら。
あの子が留まってくれている今この時。
これを逃してはいけないと、彼女の勘がそう告げている。
明け方に、応接室へ差し込んでくる日の光に目を細めながら。
「あなた、今夜があの子と過ごせる最期の時になるのかもしれません。私、本当は一度あの子を追って死んでしまいたいとさえ思っていましたの。………けれど、それはもう出来そうにありませんわ。きっとメリアはそんな私を許しはしないのでしょう……ふふ、おかしな話ですわね?
でも私は、それだけは確信をもって言えるのですわ」
「……ミル。君がそれほどに思い悩んでいた事を、私は自分の感情に手一杯で気付いてあげられなかった。……今なら分かる。メリアがいなければ、私たちは今こんな平穏ではいられなかった。あの子が気付かせてくれたことは、今後の人生の中で大切にしていかなければならない全てだ。だから、私たちは今はただあの子の為に出来る全てを。それによって、あの子が心穏やかになれるのなら。………きっとその為に、この時があるのだから」
ずっとその成長を見守りたかった、愛する娘。
その未来が断たれた絶望に、全てを諦めかけていたあの日。
その過ちを、他でもないその娘の手によって回避したからこその今。
全てが繋がって、家族は守られた。
自分が激情に目を眩ませ、壊しかけたそれを。
あの子が守ってくれた。
その意味。それを思った時。
家族のこの先の為に。
その報復は、未来への先駆けとなることを彼は感じ取った。
避けられぬそれは、娘との別れを意味するのかもしれない。
聡い妻はそれを知っていて、それでも尚止めようとはしない。
それは、妻があの子を愛しているからだ。
既に分かたれてしまった過去を、変えることは叶わない。
望んでしまえば、きっとあの子は優しさから残ろうとするだろう。
私たちはそれでいいのかもしれない。
けれども、あの子は。
地上に縛り付けられることになるメリアは、幸福になれるのか。
………愛しているからこそ、手を放すその時が訪れたなら。
きっと私たちは、如何ほどの苦しみを味わうことになっても選択しなければならないのだろう。
「………辛いね、ミル。私は耐えられるかどうか分からないよ」
「………それでいいのですわ。一人で耐えようとするから、歪んでしまうのです。貴方には私たち家族がいる様に。私たちは最期の時まで、ずっとあの子の家族としてあり続ける。ただそれだけで十分なのではありませんか……?」
こういう時、本当に妻には敵わないと思わせられる。
娘がそうであるように、彼女たちは時折信じられないような強さをみせる。
自分がそこに到達するまでには、まだまだ至らぬ部分が多過ぎる。
迷った時には、家族の声を聞けばいい。
それを教えてくれた娘を想い、静かに目を閉じる。
さあ、後宮の闇を晴らすその時が来た。
応接室の扉を叩き、入室して来たのは長兄のディル、次男のミスティ。
彼らの手には、エルトリアの闇を象徴する一輪の花が揺れている。
続いて入室したのは、長女のエレナ。その目には涙の気配はない。
知らせを受けた当初から、ずっとその双眸に宿っていた憂いも今は強い意志に染め上げられている。
彼女に続いて、双子のロイズ、クリス。彼らが握る手の先には末のカタリナ。
そのカタリナの後からは、エレナたちの護衛を了承して駆けつけてくれたフェリバート・エイデル候。
彼は、姪の死を知って自ら協力を申し出てくれた内の一人だ。
叔父として、生前からメリアと親交も深かった彼。
歩み寄り、互いに抱擁を交わした後は最後の一人を迎えるだけになる。
この邸の主であり、メリアの祖父に当たるグイード・リーベンブルグ侯爵。
全ての準備を整えた上で、応接室へ姿を現した彼は全員を見渡して微笑んだ。
「さあ、まずは掛けなさい。今日一日で全てが実を結ぶ。ここにいる全員が、その命を賭して駆け回った成果だ」
その手には、重ねられた書簡の束。
テーブルへ広げられたそれに、その場にいた全員が息を呑む。
「これは以前から、秘密裏に集めさせていたエルトリア家に端を発する不正の数々。それらを纏め上げた資料だ。確証が得られずに、仕舞いこまれていたそれに意味を持たせたのは他でもない我が孫たちだ。阿片の行方を捉えきれず、栽培施設も長らく不明だった。それを僅か数日で辿り着いた手腕には……感心するばかりだ。これが掴めた以上、もはやエルトリアに勝機は無い」
リーベンブルグ侯爵の宣言に、思わず顔を見合わせた全員。
彼らが望んでやまなかった、エルトリア家の粛清。
拓けた道を前に、誰ともなく溜息を零していた。
しかし、実際のところこれは序章に過ぎない。
まるでそれを象徴するかのように、続く言葉に獅子の異名の意味を知った。
「まだ肩の力を抜くのは早い。エルダー伯、事前に頼んでいたエルトリア周辺領への書簡が戻ってきている。これに夕刻までに目を通しておく様に。ディル、君にももう少し手伝ってもらう事がある。……やるからには、徹底的にやり通す。それがせめてもの、私から贈れるメリアへの贐だ。………お前たちの顔を見れば分かる。あの子が、どれだけ愛されていたのかも。だからこそ、私は少しも手を抜く気はない。今宵、エルトリアを失墜させる。その為の準備も道筋も整った。あとはただ、行くだけだ」
「………か、カッコいい………」
「……そうだね。父さんには、もっと頑張ってもらわないと」
「……父さま、頑張るの?」
双子たちとカタリナの声に、誰も声を挟めない。
それだけ初めて会う祖父は頼もしく、ただならぬ気迫を湛えるその様はまさに……。
「獅子、だね」
「ああ、そうだよ。この方は最近こそあまり表舞台に姿を見せなくなっていたけれど、嘗ては西方の獅子と称されたこの国随一の権威者だ。この先が大変だね、エルダー兄さん?」
思わずそれを呟いていたディルの言葉に被せるように、叔父が言い紡いだそれは子供たち全員の脳裏に深く刻みつけられた。
西方の獅子って………。
「そう言う無責任な話の振り方、止めるように前にも言った筈だけどねフェリバート」
「避けられない現実を前にすると、逃避行動を取りやすい兄。その傾向を知っているからこその的確な助言だと思うけどね………?」
そんな二人の会話を余所に、母を間に挟んでオーディス家の子どもたちは祖父であるリーベンブルグ候へ挨拶をしていた。
「はじめまして、おじい様。お目に掛かれて光栄です。長兄のディルと申します。隣は長女のエレナ、次男のミスティ、双子のロイズとクリス……は普段髪の跳ね具合と、性格で見分けています。幾らか冷静な方がクリスです。そして、この子が末のカタリナです」
カタリナを腕に抱え、周囲に順番に並んだ弟妹たちをそれぞれ紹介した長兄のディルへ祖父が頷いて顔を綻ばせた。
「うむ、全員の名前は今の紹介で把握した。……皆良い目をして育ったな。あのミルドレッドを母に持ちながら、お前たちの様な孫を持てた私は幸せ者だ」
「………父さま? それはどういう意味かしら?」
「そのままの意味だ。……ところで、ディルとミスティ。お前たちには今回最も危険な道行きを歩ませることになったな。それにしても……一体どうやって施設を見つけ出した?」
顔を見合わせた兄弟。
兄が何処となく、未だに自分への負い目を持っている事を感じたものか。
ここでは長兄では無く、ミスティが答える事になった。
「エルトリア領内の、ある情報屋から施設の情報を得た結果です。だから、実際のところは僕らが見つけ出したというのは………正確ではないと思います」
叔父にしている様に、丁寧な言葉づかいを選んだミスティ。
兄弟弟妹からどこか微妙な視線を受ける事になり、当人としては非常に不本意である。
「……ほう、エルトリア領内にそれほど腕利きの情報屋がいたのか」
「本人は『黒猫』と名乗っていました。偽名だそうです」
特別な意図も何も無く、さらりとそう告げたミスティであったが。
その結果として予想を大きく越えた反応を、目の当たりにする事になる。
この発言を受けた祖父の驚愕に満ちた表情。
そして呟かれた言葉。
それを聞いて耳を疑ったのは、兄弟だけでは無い。
「………あいつ、まだ情報屋なんて続けておったか。………はあ、年甲斐も無い」
「………お知り合いですか?」
「………私の妻の、妹だ。今年で……幾つになる?」
「確か46歳ですよ。あの人、まだ情報屋を続けていたんですね……はぁ、信じられない」
ミスティの問い掛けに、発覚した衝撃の世間の狭さ。
やはり被せるように続いた叔父のため息交じりの呟きは、周囲が沈黙していた為に全員の耳にはっきりと届いていた。
「まあ、『黒猫』というのは叔母さまの事でしたの……?」
ミルドレッドの呟きを背に、収拾が付かない空気を悟ってか。
起因になった兄弟が。
息子たちの現状を察した父が。
どうにかこの事態を収束させる機会をそれぞれに模索していた。
しかし、結果として救いの船は扉の向こうから現れた。
「失礼、遅れて申し訳ない……」
執事に案内され、遅れて姿を見せたのは他でもない宰相様その人である。
ドアを開けて中に入るなり、立ち込める微妙な空気を敏感に察した。
長兄から向けられる、いつにない感謝の色に困惑しながらも彼が席に着いた事で払拭された場の空気。
ようやく、平穏を取り戻したかに思われた。
彼らはまだ知らない。
リーベンブルグ候と挨拶を交わした宰相様へ、何気無くカタリナが問い掛けた言葉。
「おにーちゃん、メリアねえさまは元気?」
「ああ、今日は一日クリスタと筆談を交わしていたな……」
宰相 ギルバート・フレイメアはその場にいるのがオーディス家一同だけではない事実を忘れて返答していた。
死んだ筈の孫娘が、筆談をしていたと伝えられて疑問を覚えない祖父がいる訳も無い。
死んだ筈の姪が、筆談をしていたと伝えられて疑問を覚えない叔父がいないのも同様だ。
オーディス家にこうして訪れた苦難。
その引き金となった宰相は、とうとうオーディス一家のみならずリーベンブルグ候、エイデル候の両者へ自分に霊感がある事を包み隠さずに話す事になった。
その上で、オーディス夫妻から、彼らへ告げられた事実。
メリアは、霊魂として後宮に残っている。
それを耳にして、彼らが自分たちの正気を疑うことは容易に考えられる事だった。
ましてやその正気を疑い、ここまで来た計画が頓挫する可能性もあった。
それでも、最早隠してはおけないという思いから。
現状と、これまで隠して来た理由を誠心誠意言葉を尽くして説明するオーディス夫妻。
そんな彼らを後押ししようと、子供たち全員が声を上げる中。
両手を上げ、彼らの発言を一度収めたリーベンブルグ候。
いつしか並び立っていたエイデル候と共に、徐に口火を切る。
「落ち着きなさい、お前たち。………メリアが、死んでいるのは事実なのだな?」
言葉にして付きつけられる形になった現実に、一瞬息を詰める全員。
しかしその悲壮を目の当たりにして、それ以上の言葉はいらないと首を振ったリーベンブルグ候。
「どう思う、フェリバート候? 君は彼らが嘘を付いているように見えるか」
「いいえ、けして。それに彼らは一つ思い違いをしていると私は考えます」
「ほう、奇遇だな。………私も同じことを思っていた」
彼らの会話に、訳が分からずに首を傾げるばかりのオーディス一家を横目に。
この場に第三者として参加している宰相は徐に口を開いた。
「貴方がたは、もしかすると霊魂の存在を今までに知っている……?」
そんな宰相様の発言に、苦笑を返した二人。
それを驚愕の面持ちで見詰めるばかりのオーディス一家。
「ええ、宰相殿。あなたの仰る通りです……」
リーベンブルグ候の肯定に、思わず呟きを洩らしていたのは彼の娘である。
「父さま………もしかしてそれは………」
娘の視線に頷く様にして、リーベンブルグ候は語った。
「私は嘗て妻を早くに亡くしました。その時に一度、妻の姿を窓辺に見た事があったのです。錯覚でも何でもなく、あまりにはっきりとしたその姿に茫然としていたものですが。……妻は、哀しそうにひっそりと笑っていました。その哀しそうな表情に、自分自身を省みる事が出来ていたのならば、今のような現状を迎えられずに済んだのかもしれません。……娘を、悲しませずに済む未来を、きっと私の妻は願っていたのに………」
その独白に、見交わす父娘。
何か言おうとする度に、声が詰まって言葉にならない様子の彼女へ静かに首を振るリーベンブルグ候。
そんな様子を見守っていたもう一人は、周囲の視線を受けてようやく口を開いた。
「私が、一般とはかけ離れた世界に一時期その身を置いていたのは知っているね。そう、かけ離れた世界だよ。視界に入らず、与えられた任をこなすその過程で様々なものを目にすることになる。………その中には、常識から逸脱した存在もしばしば含まれる。詳しくは語らないでおくよ。綺麗な話ばかりではないからね……。とはいえ、私自身は霊魂となって留まっているという姪の為、計画の続行をするのは吝かでは無い。……だから安心しなさい、子供たち。君たちは一人じゃない。君たちが愛したように、私も姪であるメリアを愛していた。そんな彼女の為に進むべき道があるのなら、この先も共に進むことを改めて約束しよう」
そんな彼らの独白を前に、とうとう一つの蟠りも無く纏まった全員。
そしてそんな彼らを見守っていた宰相その人が、徐に告げる。
「メリア嬢は、昨晩ある人物の事を思い出した。……私はその時の話から、真実はその人物こそが令嬢たちを裏で操り、彼女を殺したのではないかと考えている」
それはまさに決戦前に落とされた、思いがけない爆弾だった。
長くお付き合い頂き、感謝申し上げます。
本編完結まで、あと少しになります(*´ー`*)
宜しければ、今暫くお付き合いください。
※次回は、真実の黒幕に迫ります。