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波乱の先には、もう二つの波乱が待っていました。

第四話をお届けします(*´ー`*)


予想より長くなりましたので、お時間にゆとりのある時に読んでいただくことをお薦めします。

 *




 既に鼓動を止めている筈のこの胸が、どうしてこれほどまで騒ぐのか。

 夕陽の沈み切るその直前。

 宰相様の制止を振り切って、後宮の門を背にして走り出していました。

 それは、私を想う声。

 理屈ではなく、それは確かに私へ向けられた叫び。

 導かれるままに、私は死んでから初めて中央宮へ足を踏み入れたのでした。



 ****


 中央宮は、その名の通り後宮の中心にあたる建物です。

 別名『月の宮』とも呼ばれるそこに居住出来るのは限られた人たちのみ。

 王の寵愛を得た者。

 正妃の称号を得たもの。

 侯爵位以上の家柄から選出された令嬢たち。

 それらの条件を満たした者に、初めて居室の権利が与えられるのです。

 そんな中央宮。

 生前は数度足を踏み入れた程度で。

 いつもその白亜と翡翠のコントラストを見上げるばかりでしたね。

 私の様な、後宮の片隅に席を置く令嬢が関わる機会はほぼ皆無と言っていい場所です。

 生前でさえ足を踏み入れることなど限られたその場所。

 今ではそこも、躊躇い無く走り抜けていけます。

 それもその筈、誰の目にも留まらない今の私。

 周囲を気に掛けるだけ、無意味である事を誰よりも認識していますもの。


 走る走る。

 糸に引かれるように、辿りついたその先で。

 まさに今、銀色のナイフを振り上げている彼女を見つけた時。



 私は、彼女がその両手を血に染めようとする理由がどうしようもなく分かってしまいました。



 クリスタ。

 私が生前、ありとあらゆる場面で迷惑を掛け続けた彼女。

 他の誰でもない。

 後宮で生きる術を、私に教えてくれた恩人。

 そしてこの薄暗く、日差しの当らぬ後宮で唯一私の傍にあり続けてくれたひと。



 彼女が、その刃を振り下ろす前に。

 床を蹴り、ふわりと浮かびあがった私の体。

 そのまま伸ばした指先で、銀のナイフを掴む。



 ひんやりとしたそれは、まるで出会った頃の彼女の様です。



 それは齢十四の折。

 王命によって召致された辺境を含む十五の領、総勢十七人の令嬢たち。

 その十七人の内の一人。

 それが私でした。


 二年前の当時について語ります。

 私、本心を申し上げれば後宮へ迎えられる事に憂鬱しか感じておりませんでした。

 美少女の括りには遠く及ばない容姿。

 人並み外れた不幸体質。

 平穏第一主義。


 その三点が揃って、どうして後宮に喜び勇んで立ち向かえますか?


 けれども、私は自分が後宮に向かうという選択肢以外を選ぶつもりもありませんでした。

 矛盾している? ………そうですね。

 後悔していないと言ったら、嘘になります。

 ただ、その後宮召集の書簡が領地に届いた時。

 それは同時に姉さまの婚約が決まって丁度一カ月が過ぎた頃でした。

 姉は仕方が無いと言って笑っていましたが、それがただの強がりであることは明白で。

 そう、本来は姉を対象にして送られてきた後宮召集。

 それは名を明記されたものではありませんでした。

 だからこそ、私は父に自分を送るように進言したのです。

 父は言うまでもありませんが、王家の寵愛を得ることなど端から望むような人ではありません。

 だからこそ、真実私の身を思って真っ向から反対しました。


 それでも私、折れませんでした。

 姉がずっと望んでやまなかった相手と、ようやく婚約に至ったその経緯をずっと傍で見てきたのです。

 どうしてあの幸福を、壊さずに済む方法を知っていて見過ごせる筈がありましょう?


 父は最後まで私の決断を笑って受け入れてくれることはありませんでしたが。

 それは同時に、父が如何に私の身を案じてくれていたかということの証明でもあります。

 それだけでも、私がこの選択を選んだ事に意味はあったのでしょう。

 それでも、あの愛すべき家族と離れて一人闘うことの意味を私自身が身を持って知る日々の中で。

 正直なところを告げれば、……本当に愚かな話ですの。

 結局のところはここまで酷い世界だとは思っていなかったのです。

 それでも私がこの場所で自我を保てたのは。

 私を想う家族の存在があったからこそでした。

 けれども事象には常に裏表が存在します。

 家族を想う事そのものが、私の心を支えることと。

 領地へ帰りたいと思う事それが、私の心を弱くすること。

 それは両方の面を持っていました。


 平穏とは程遠く。

 外観こそ華やかに着飾られたその美しい世界。

 けれどもそこに、人らしい温もりも関係性も必要とはされない。


 後宮に足を踏み入れた時から、そうして気落ちするばかりだった自分が孤立していったのは当然の帰結でした。

 そしてそんな孤立していた私にも、後宮側から侍女が付けられる事になった過程。

 私の侍女として私室へ挨拶に訪れたのが、クリスタでした。

 彼女は私の目から見ても、文句の付けようがない美女です。

 その美女を前にして、些か茫然とした私。

 侍女までこんなに完璧な美を揃えてくる後宮………。


 その痛ましい現実に遠い目をしながらも、淡々と向けられた挨拶。

 それに対し、こちらこそ宜しくお願いしますと返礼。



 それが、クリスタと私の初対面の挨拶となりました。



 結果から言いましょう。

 クリスタは私などには勿体ない侍女でした。

 その容姿が後宮に在ってまるで遜色が無い事もさることながら。

 それ以前に、彼女が持つ侍女としての有能さ。

 数えきれないほどのフォローを受けて参りました私。

 思い出す度、己の未熟さが感じられるばかりであった一年間。


 きっと、クリスタが私の侍女でなかったなら半年と持たず、私は心身を壊していた事でしょう。

 表向きは花のような華やかさを纏いながらも。

 後宮と呼ばれるこの場所はまるで衆人環視の檻の様で。

 与えられた私室を一歩出れば、その動作一つ気を抜くことが許されない世界。

 そこで賢いと呼ばれる在り方は、私には受け入れがたいものでした。



 幾度となく、諦めかけました。


 もう、楽になりたいと。


 目を閉じ、耳を塞ぎ、余計な事を言わなければいい。

 きっと誰もそれを責めたりはしない。



 けれども、どうしてでしょう……?

 そんな安寧に身を任せようとする度に。

 あの静かな眼差しが、私を何度でも引き戻してくれたのです。



 彼女と私の間には、正直なところ気安さは無かったように思います。

 彼女が私の侍女として一年を数える頃に、ようやく凍てついた双眸も柔らかなものになり。

 時折私の身を案じる様子を、垣間見るまでになりましたが。

 クリスタが、頑ななまでに本心を偽っているのは分かっておりました。

 そこは私自身、領地を預かる一族に生まれた者ですから。

 貴族姓を持つことの意味を、一時たりとも忘れたことはありません。

 まして貴族の矜持と呼ばれるそれを履き違え、利欲に走る貴族の多い昨今。

 本心かそうでないかも見抜けずに、存在を許される世界ではありません。


 時々見せる憂いの表情に、それを払拭できない主としての力量不足。

 それを常日頃から感じていたのです。

 そんな主に、クリスタ自身が不満を感じていたというのなら寧ろそれは当然の事で。

 けれども彼女は、結局最期の日まで私の支えとなってくれました。


 半年前に、彼女がようやく本心を語ってくれた時も。

 それはとてもささやかな事柄に関して、思わず彼女が零した一言。

 彼女自身が信じられないような表情をして、そこから訂正を告げて頭を下げる直前。

 思わず、私は彼女の手を取っていました。

 それで構わないのだと。

 寧ろそれが嬉しいのだと。

 そう告げて、嬉しさに微笑めば。

 ようやく諦めたような表情をして、クリスタは同じように微笑を返してくれたのです。


 至らぬ主と知りながら、私は彼女に支えられるばかりで。

 彼女を支えてあげられるほどの力量を、示す事も出来ないまま。


 感謝も、別れも告げられぬままに止められた時の針。



 それが、意図せず再び動き出した現在(いま)に私は感謝を告げなくてはなりません。



 指先に力を込めても、血の滴ることの無い両手をナイフに添えたまま。

 目の前のクリスタの茫然とした横顔を見詰めて。

 部屋に入る直前に耳を掠めた言葉を胸に、私は彼女の横へ降り立ちます。


 きっと彼女は、私の為にその両手を血に染めることを躊躇わなかった。


 そうであればこそ、私はきっとこの瞬間に間に合う事が出来たのでしょう。

 彼女が私を呼ぶ声に、導かれて。

 今ようやく、彼女と相見える現在に戻ってこられた。




 止まっていたもう一つの時間が再びその時を刻み始め、膠着していた事態も再開の時を迎えます。




「………ギルバート・フレイメア………? 何故あなたが今ここに?」



 クリスタの何時になく剣呑な様子に、目を瞠る。

 普段の彼女であれば、一国の宰相を前に敬称を忘れるなどまずあり得ないからです。

 しかしそれを釈明する訳でもなく、細められた双眸は未だに殺気を収めてはいません。



 それに対する宰相様。

 不敬を前にして尚、その寛容さが窺える表情を浮かべています。

 その内訳は恐らく、以下の通り。


 苦笑七割、諦め二割、残りの一割は仏の顔も三度まで(は許される)。


 どうやら突然走り出した私を追って、辿りついた先で見つけた殺人未遂現場。

 視界に捉えたであろうそれに僅かな動揺も見せず、着いて早々に通訳をこなした順応性。

 改めてこの方の能力の高さが垣間見えます。

 思えば宰相様、私の家族に対しても寛容さは留まるところを知りませんでしたね。


 また、その都度訂正を求めていく真摯な姿勢には敵わないと思わせられます。



「クリスタ・エルトリア。君も王宮如いては後宮にその名を連ねるものであるのなら、国の次席に敬称を欠くというのは……」


「それを仰るなら、まずは私の先程の疑問に答えて頂きたく存じます」


「………君の周りは一体どうなっている。 誰も彼もが私への敬称を抜くのは統一された意図か何かなのか………?」



 宰相様の溜息に、申し訳ありませんと一礼。

 勿論この時の言葉は私へ向けられていたもので、同時にそれはクリスタにとっては辻褄が合わない返答に違いありません。


 視線を向ければ、やはり不審の色がその双眸にちらついているのが見て取れます。



「……宰相、様? 衛兵がここまでご案内して来ましたの?」



 ここでもう一人、正気に返った。

 そう。件のグレイス・エルトリア侯爵令嬢である。



「いや、衛兵の案内でここまでやって来た経緯は無い。……そもそもここは月の宮だろう? この時間帯に衛兵の一人も周囲に巡回していない理由が分からない。君は、それについて何か心当たりはないのか……?」



 宰相様の唐突と言っていい問い掛けに、さすがの侯爵令嬢もクリスタ同様に不審を隠せなかった様子。

 けれどもそれを上回る混乱もまた、同時に見えました。



「衛兵が一人もいない……? そんな事はあり得ませんわ……」



 月の宮であるからこそ、私はその違和感を宰相様が指摘するまで認識していなかったのです。

 特異な宮には、それなりの慣例や周囲との差があってもおかしくはないと。

 そうして見過ごしていた現状の静けさ。


 令嬢が上げる悲鳴に、未だに誰も駆け付けないばかりか。

 先程部屋を逃げ出た侍女たちが、衛兵を連れて戻って来る様子も無い。



 誰が考えても、これは普通でない。



 過ったのは、部屋に入る直前に扉の向こうから聞こえていたクリスタの言葉。

 その内容。



「……宰相様。クリスタが言っていたのは……」


「ああ、つまりはこの集団の来訪を事前に知っていたということだろう」



 続く間の扉を開けて滑りこんでくる黒衣の数名。

 後方にしていた回廊へ繋がる扉からも、その時を待っていたように周囲を取り囲んで立つ。



 恐らく彼らは、この後宮で暗黙の内にその存在を秘されてきた者たち。

 高位貴族が令嬢と共に送りこんで来た、所謂『始末屋』と考えて間違いないでしょう。



 互いに沈黙を保ったまま、互いにその出方を図る様なその僅かな間。


 黒衣の集団は全部で七名。

 何れも目元以外を黒衣に包んでいる。

 体格差以外ではほぼ、彼らを見分けることは難しいだろうと思わせる存在。


 けれども。


 彼らの内の一人、一際黒の異彩を放つ鮮やかな新緑の目。

 特別に意図した訳でないというのに、それに引きつけられるように目を合わせた瞬間。


 再び、鼓動がその存在を主張し始めたその意味を。


 他でもない私は、思考を巡らせるまでも無く知っていたのです。



 思考が焼き切られたような痛みと、自分自身でも抑えが効かないほどの激情が告げる。


 この男が、私を殺した張本人であることを。



 命じられたとはいえ、その事実は変わりません。

 ざわざわと波立つ深層が、何を求めているのかも分からないまま。

 生涯を通して感じた事の無い怒りを内包し、立ち尽くす私の前でも状況はその針を止めることは無い。






「遅いじゃない……!! もう、肝心な時に役に立たないのでは何のためにお前たちがいるのか分からないわ…… 鴉、早くあの女を捕えて始末しなさい」



 グレイスは幼少からこの存在たちを知って育った。

 彼女にとっての彼らは手足であり、駒であり、エルトリアの当主が自分に付けてくれた守護でもある。

 今まで、彼女は切迫した状況とは無縁で育てられたのだ。

 助けが必要な状況など、そもそも起きる事も無かった。

 それは単に、彼ら『鴉』が自分を守る為に先んじて動いて来た結果であることを彼女自身が分かっていた。


 そして今回も、彼女の認識はそれであった。

 察知が遅れたことは否めないが、彼らはようやく現れた。

 自分を害そうとする存在を捕縛し、秘密裏に処理されることを疑わない。


 それが、全くの誤りであることに彼女自身が思い至らなかったのである。



「お嬢様、今回の命の対象は貴女ですよ」



 淡々と返された言葉の意味を解すよりも早く、その手から放たれた暗器。

 それは彼女の肩を掠め、背後の壁に突き刺さる。


 本来は首筋を抉る軌道を描いていた筈が、やや右方へずれた結果。

 それは鴉本人にとっても想定外の誤算であったのだろう。


 徐に引き抜かれる磨き抜かれた刀身。

 それを目前にして、とうとう彼女は事態を悟った。




「……… っ、どうしてなの!! 貴方達は私を守る筈でしょう!? 主に刃を向けるなんて、エルトリアに渾名す事をしてただで済むと思っているの?!!」



「私たちはエルトリアの命を受けてここにいるのですよ、お嬢様? ただ、貴女よりも優先された方の命があって……と言ってしまえば愚かな貴女にも理解頂けますね?」




 丁寧ながら、そこには欠片の慈悲も無い。

 その口調を初めて自分に向けられた彼女は、心身を凍りつかせた。

 そう、鴉が言う言葉の意味を彼女はようやく理解した。


『鴉』は私だけを守る為に遣わされた集団では無い。

 本来の主である彼女の命令。

 それが今回彼らが現れた理由。

 私を守る為では無く。

 私を処分する為に、彼らはその嘴を向けている。


 裏切られたのだ、私は。

 その思いが去来し、もはや生き残る術は無い事を知ったグレイス・エルトリア。

 彼女は恐怖した。

 彼女は生きたいと思った。

 今まで感じた事が無いほどに、今自分が生きている実感を覚えて。

 闇雲に手足を動かし、逃げようとする。

 後方が壁である事を知りながらも、そうせずにはいられなかった。

 死を前にして唐突に思い知った。

 守られて当然だと思っていた。

 エルトリアの血を引く自分が、切られる事がある未来など想像もしなかった。

 愚かだった。

 私はただ唯一では無かったのに。

 他でもない彼女がいれば、私などいなくても構わない。

 それに思い至らなかった。

 否、考えようとしなかった。


 グレイス・エルトリアは死を目前にようやくその在り方を後悔した。


 時は待たない。

 自らの蒼白な顔を刃の表面に見詰めながら、振り下ろされる軌跡を茫然と見上げた。

 その薄紫の双眸から、涙が頬を伝って落ちた。

 瞬き一つ。


 …………

 ………………?


 身を裂かれる痛みを、その死を想像していたグレイス・エルトリア。

 次に目を開いた時には散らばった青い破片と、倒れ伏した鴉が映る。

 周囲で動きを止めた他の鴉たちの視線を浴びて、頬を裂かれた痛みを遅れて知覚した。


 刃は再びその軌道を、損なったのだ。

 その原因が散らばった青い破片であることも。

 それが元々は花瓶だったことも。

 瞬きの間に自分の身に起こった事について、全く理解が及ばない彼女は知らない。




 彼女の命を辛うじて繋いだ存在。

 それが目の前にいて、肩で息をしながら暗澹たる思いでいる事も。


 それが他でもない、数日前に彼女が命じて死に追いやったその令嬢である事も。












 時は少し遡る。


 黒衣の集団に囲まれ、静から動へ変わった瞬間。

 それはまさに侯爵令嬢が『鴉』たちへ向けて声を上げた瞬間に他ならない。



「………愚かな人」



 ひっそりとクリスタが呟きを零した言葉の意味を、正確に拾い上げた人物がいた。




「彼らが現れることを知っていて、どうして君はわざわざその手を血に染めようとした? 君が動くまでも無く彼女が処分される予定にあった事を事前に掴んでいたのだろう……?」



「これが最初から最後まで私怨によるところであったなら……それでも良かったのかもしれない。けれども、私が望んだのは報復でした。だから、この日を知って尚私はここへやって来たのです」




 クリスタは自分の命があと僅かである事を知った上で、正直なところを告げていた。

 鴉たちの目的は侯爵令嬢だが、その場に留まっているその他を見過ごす筈も無い。

 彼女は既に闘志を失っていた。

 この両手を血に染める事が出来なかった今、鴉たちを相手に生き伸びる意思はとうに失われていた。

 もはや宰相がここにいて自分に問い掛ける事も、その理由も差して大きな問題にはならないと判断したのだ。




「君は主の為の報復を、果たしたかったという事か……?」



「ええ。私が、生涯で初めて主と認めた彼女を無残にも殺した畜生共に……その命を全うする権利などどうして与えておけるでしょう……? 私はそれが我慢ならなかった」



「君にとっての主とは、何だったんだ……?」




 束の間その真意を問うように、細められたクリスタの双眸。

 それを正面から見据えて、その返答を待つ宰相。




「……メリア・オーディス伯爵令嬢は、私にとっての希望そのもの。彼女は薄暗い後宮でも、その優しさと人としての道理を踏み外すことは一度もありませんでした。そんな彼女を主に持てた私ほどに幸福で、幸運な侍女はいません」




 その時、一つの風がクリスタの頬を撫でて過ぎた。



 彼ら二人がそうして語りを終えた頃、銀色の刃は再び振り下ろされ。

 そしてその刃もまた、届く事は無い。



 肩で息をして、花瓶を振り下ろした姿勢のまま立つメリア・オーディスをその双眸に映しながら、やはり彼女がこの選択をしたことに、宰相ギルバート・フレイメアは驚かなかった。



 状況を把握できない残りの鴉たち、生き残った令嬢、無言で花瓶の欠片を凝視するクリスタを横目に彼はメリアの傍らに立った。







「……… っ、本当に何がしたいんでしょう私は。助ける道理は無かったのは分かっています。助けたくて助けた訳でもありません。………けれど、どうしても許せなかったのです」




 彼女は深くその身を俯けたまま、吐き出すように独白する。

 吐き出されるそれに、宰相はじっと静かに耳を傾けていた。



「私、二人とも殺すつもりでした。………ざわざわと心が騒いで、その衝動のままに近づいて行ったのです。周囲の鴉が持っている暗器を借りて私を殺した当人と、彼女を背後に回って襲う事など造作も無い事です。彼らには、私が見えません。それは………他でもない彼ら自身が私をそういう存在にしたのですから。だから、それは卑怯でも何でもない。正当な報復なのだと。何度も何度も………そう繰り返して。けれど。私、は…………」




「殺せなかった。違うか……?」





 周囲が宰相様の発言に、訳も分からず困惑する表情は見えなくとも分かっている事です。

 それでも宰相様が言葉を発することを躊躇わないその事実が、私にとっての救いであることは間違いありません。



 だから私は、苦笑します。

 宰相様にはそれが見えているからです。





「はい。………殺せませんでした。私は、この鴉のようになることはできない。なりたいとも思わないのです。……思い知らされました。私は、誰も殺せません。殺すことは出来るかもしれない、けれども出来ない。矛盾であることを分かっていてもそれが答えです………


 ……この男は、私の命を奪いました。そして再び、躊躇いも無く目の前で殺人を犯そうとする。例えその対象が誰であれ、私の目の前で再びこの男に殺人を許すことを私は許容できませんでした。だからこれは、過去の恨みつらみと言うよりかはその行動そのものへの制裁ですの」



 長々と、途中に息継ぎを含めながら言い切った私はどんな表情をしていたのでしょう。

 もはや自分でもよく分からないまま、ようやく冷静に戻って来た私。

 この混沌をどう脱したものかという方向へ向けて思考の舵を切ります。




「………それにしても石頭だな、常人ならば死んでいてもおかしくない」



「………そこは、あれですわ。どちらに転んでも、良かったのです」




 常のペースを取り戻しつつ、周囲の鴉の反応が当面の問題であることは明白です。

 事実、どうやら鴉にも束ねるものとそれに次ぐものといった序列があるらしい。

 束ねていた男が宙を浮いた花瓶に強打され、意識を失った現在。

 ようやくここで、それに次ぐ立場の鴉が進み出てくる。




「………ギルバート・フレイメア宰相。どうして貴方がここに居合わせたのかはさて置き、ここは王宮内で無い事を改めて伝えておきたい。その意味はお分かりですね?」



「ふ、仮にも国の宰相をどうこうして無事に済むと考えているお前たちの認識の甘さに、腹を抱えて笑っても良いだろうか………?」




「…………貴方こそ、後宮の闇の深さを甘く見ている」




「…………ほざけ、若輩が。王宮よりか後宮の闇が深いというのならば、とうの昔にこの国は後宮に手綱を握られている。それが叶わぬ時点で、お前たちの薄闇がその程度のものである事を認識した方がいい」




 思わず鴉が身を引くほどの、酷薄な声。


 それは隣にいるこの人が紛れも無いこの国の宰相であり、王に次ぐ者であることを示す気迫。

 それを前にして怯まずにいられるものが、果たしてどれだけの数存在するというのでしょう。

 この時点で勝負は付いたも同然でした。



「帰ってお前たちの主へ伝えろ。 今後、その動き次第でお前たちの命運は分かたれる。……この言葉を伝えた上で、尚もその牙を収めないならばそれがお前たちの災厄そのものになると」



 沈黙したまま、身を翻していく鴉たちを横目にようやく静けさを取り戻した一室。



 残されているのは茫然自失となったままのグレイス・エルトリア。

 その目と鼻の先に、未だに気絶したままの鴉。

 ………仲間意識の欠片も無いことに改めて呆れをもって見下ろす。

 そして、クリスタ。

 彼女は先程のやり取りの間も、どこか呆れた様子を隠さずに部屋の中央に立つ宰相様を見ていた。





「………貴方様も大概無茶をなさいます。こうなった以上は、彼らも手段は選びませんよ………?」



「ふ、今更だ。それに私の側にも例外的な存在を置いている以上は、さして脅威とも考えていない。浮かぶ花瓶位で驚く連中に、どうして怯える必要があるんだ……?」



「いえ、普通は驚くんです」




 さり気無く注訳を挟みつつ、話の方向がとんでもない方へ転がっていかないようにするのも私の役割です。

 それは巻き込んだ当人である以上は、避けられぬ苦労なのですから。




「…………あの仕掛けについても説明はあるのですね?」



「君を送りがてら、説明したいところではあるが……まずはここの片づけが先だな」




 宰相様のその呟きには、さすがのクリスタも反対する理由は持たないようでした。






「あの、私も手伝いますわ。……そもそも私が制裁目的で投げた花瓶のなれの果てですし」


「気持ちはありがたいが、今は混乱を加速させるだけになるだろう」


「……分かりましたわ。お願いします」



 ここはクリスタに聞こえない程度まで潜めた声量で、部屋の片隅へ移動して呟きを交わしています。


 こうして自身の引き起こした花瓶散乱風景を前に、見守る他無い少女。


 一国の宰相が率先して花瓶の破片を箒で掃き集める行動に、その片づけが優先かと絶句する侍女。


 そんな二人を横目に宰相らしからぬ箒さばきを見せつける宰相様。


 本来は侍女の想像していた方が、優先的に進められる筈ではあったが。

 花瓶の欠片を一通り片付け終わったところで、バタバタと慌ただしい足音を響かせながら駆けつけて来た人物を見てクリスタはようやく目の前の人物が宰相である事を再確認した。




「ちょ、何事ですかギル!!? うわ、何か結構血も飛んでるし……昨日は唐突に執務を丸々投げてくるし今日は今日でこの騒ぎ……先刻送られてきた伝言も普段以上に暗号で解読にむしろ無駄に時間掛かるし……え、何ですその視線。僕何か悪い事言ってます?」



「気を抜くとすぐに駄目になるな………。口調が以前に戻っている、フォルテ」



「あ、……ららら。そうでした。ごほん、……ギルバート宰相。指示を願います」




 今更取り繕った所で色々と遅い感じは否めないが、ガラリと印象を変えてくるあたりは流石に宰相の右腕と呼ばれる補佐役の彼である。


 フォルテ・ランドゥール。

 領を越えてランドゥール家の影響が及ぶことはないと称される程の豪商一家の次男坊だ。

 次男と言わずに、次男坊と言いたくなるその心象については色々と察して貰いたい。

 普段こそ砕けた様子で、こちらの気を削がれる様なふざけた男に見えなくもないが。

 その実、それにペースを持って行かれた時点で分は彼にある。

 とはいえ、単純な話で言えば悪人ではない。

 その括りには当てはまらないこそ、ギルバート・フレイメアの補佐に付く事を許された彼である。



「グレイス・エルトリア侯爵令嬢を王宮の医療宮へ。後宮持医以外を選んで傷の手当てを手配しろ。その後はエルトリア家の意向に関わらず保護申請を進めておけ。警備体制に手抜かりが無いよう伝えるのも忘れるなよ。因みに、そこに転がっている男はエルトリア家の『鴉』だ。警備塔の最奥へ身柄を保護して取り調べろ。口を割らないとは思うが、けして隙は見せるな。自死防止に猿轡を噛ませて意識が戻るまでは転がしておけ。……以上、質問はあるか?」



「今回の騒動について、王宮に取り急ぎ知らせは?」



「必要無い。この後戻り次第、口頭で説明する。………他には?」



「ありません。……衛兵、増員を手配しろ。医療宮への手配を優先して進める。もう一人は残って気絶した鴉の捕縛を」



 必要最小限をやり取りし、片付けを瞬く間に進めていく宰相とその補佐の背を見守るクリスタ。

 その彼女の傍で、事の終息をその双眸に焼き付けるようにして見詰める見えない少女。

 指示を出し終えて、振り返った宰相がその二人を交互に見て微かに微笑む。

 そしてそれに気付いたメリアは、改めてその場で一礼した。


 月の宮で連続して起きた刃の軌跡は、こうして一応の終着を見せる。



 ここまでは飽くまで前哨戦。

 ここから先が後宮に巣食う真の闇と対峙する、本来の意味での闘いの幕開けになる事を彼らは感じ取っていた。





 *























 舞い戻った鴉たちを前に、報告を受けた彼女はその紅い唇に笑みを刷く。




「………そう、あの宰相がとうとう動きましたか。伝言?………」



「………そう、分かったわ。もう、下がって良いわよ。御苦労様」




 暫し、窓枠へ優雅に足を伸ばしたままクスクスと笑み零した彼女。


 とても高位貴族の令嬢とは思えぬ所作に、眉を顰める様な存在はこの部屋には存在しない。





「ふふ、私の願いが叶う日は近いわ。……あの子を殺す過程に狂いが生じたのは想定外だけれど、まさかそれを機に宰相が動くなんて僥倖。ね、そう思われるでしょう……?」



「ええ、貴女の願いは叶います。きっと、ね」






 彼女の問い掛けに、王家の双藍の眼がゆっくりと細められる。


 愛しいものを想うそれは、仄暗い何かを孕んでいる様にも見えた。



 夕刻の空に月明かりが混じり合うその頃。

 笑みを交わす二人の人物の存在があったことを、少女はまだ知らない。


家族たちが旅立った後に、続く波乱。

今後は家族視点も加えつつ、真の闇に迫っていきたいと思います……ヽ(´o`;


が、間に宰相様視点で一話分挟んでおきたいと思います。

闘いの前に、休息を願う筆者の我が儘です。

本編再開まで今暫くお待ちいただければ幸いです(/´△`\)

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