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閑話 メリアの手記を巡る、二十年後の顛末

 

 *



 それは穏やかな、春の日。

 幾重にも連なる馬車の、最後尾に等しい一台から降りて来た一人の少女。印象的な空色の瞳は遠目では殆ど分からないくらいだろう。浅黄色のドレスをたくし上げ、彼女がひらりと舞い降りた先。

 見上げれば、翻る三色の旗。王宮の正門を飾る錦は蒼穹にバタバタと靡いていた。


「――――ここが、王都」


 ぽつりと零した呟き。愁いを帯びた横顔を覆い隠すようにして、亜麻色の髪がふわりと舞い上がる。

 十四歳の辺境伯令嬢。それが彼女、メリア・オーディスだった。そんな彼女に注目するような奇特な人物がいる筈もない。大勢の令嬢たちに紛れるようにして、供の一人も着けずに王宮の門を仰ぐ。


「もうすぐ、雨が降りそうな空模様……」


 そんな二言目に被さるようにして。王宮から、令嬢たちの到着を知らせる祝砲が打ち上げられる。

 遠く王都の果てへ向けて。響き渡ったそれも、次第に小さくなってゆき。

 最後には、空の青に吸い込まれるようにして消えていった。



 **


 さあさあと降り頻る雨が、馬車の窓へと先ほどから打ち付けている。王都を出て、コーデルの町へ入った辺りまでは青々と晴れ渡っていた空。今はその面影もなく鈍色の雲が厚く覆っている。


「……久方ぶりの訪問だというのに……ふ。つまり天候さえも、喪に服していると。そういうことなのだろうな……」


 黒衣に身を包んだ壮年の男が、ひっそりと呟く。細めた目に、束の間入り混じるのは非常に複雑そうな内心の色。それを言葉にするならばおそらく。

 ――まさか、自分よりも先にあれが逝くことになろうとは。


 人生というものは本当に先が見えない。かつて、その才において国の次席を勤めていた男にとってさえ、それは例外ではなく。生きている人間ならば、総じて直面することとなる。全くと言って予期できない事柄の一つだ。

 それが人の生き死にに関する『先』である。


「先代の宰相様のお言葉にしては、いつになく感傷的な文句だね?」


 どこか湿り気を帯びた馬車の中。その束の間の沈黙を破るのは、年老いてなおも凛として張りのある声だった。

 声の先を辿れば、まるで全身を覆い尽くすような濡れ羽色が鎮座している。見事な濃淡と光沢を持つ儀礼用のドレスを纏い。漂白したような白い肌は年齢を度外視した代物。切れ長の目を、薄らと細めている。波打つように背を覆う黒髪と、黒檀の如き双眸の色。

 まさにモノクローム。白と黒。

 唯一の異彩色として挙げられるとしたら、それは口許の紅ともう一つ。対面するようにして座る人物のその手には、一冊の本が抱えられており。背表紙の真紅。例外はそれ位だろう。

 その中に綴られている文字を、彼もまだ見ることが叶わずにいる。昨日ようやく『持ち主』の許しを得て同行することとなった。そうして迎えた今日である。


 後宮の焼失から、およそ二十年余り。ギルバート・フレイメアは既に宰相の席を降りていた。壮年と称されるべき歳月を経てもなお、往年の美丈夫として王都でも名を知られるフレイメア公爵家の当主。民衆の間では、公私ともに親しみを持たれる貴族の代表格でもあり。

 後継であるフォルテ・ランドゥールへ宰相位を譲渡して以降も、しばらくの間は王宮にて財務及び監査の両面で尽力していた。しかし先月でそれも全て区切りをつけている。

 忠実なる執事、アルフレイドの逝去から十数年間。一時は抜け殻のようになりながらも、政務からは決して背を向けることはなく只ひたすらに、その半生を王宮へ尽くし続けた後年。

 長い月日を経て、彼の人はようやく王宮へ退官を申し出たのだった。

 非常に複雑な面持ちを隠さないまま馬車で揺られている、現在。向かう先はオーディス領。


 かつて彼が永遠の愛を誓った唯一の相手。メリア・オーディスの故郷であり、彼女自身が眠る地でもある。

 数年ぶりに訪れることとなるオーディス領であるが。かの地は近年稀に見るほどの発展を遂げた、辺境としては異例の地でもある。その発展は、辺境伯エルダー・オーディスに端を発するオーディス家の面々。ひとえに彼らの並々ならぬ努力と、長年にわたる領地改革によってもたらされたものだ。

 それらに思いを馳せながら、ぽつりぽつりと彼は独白する。


「……これまで決して少なくはない数の死に関わって来た。それでも、けして慣れるということはない。歳月をどれ程重ねようと、それだけは変わらないのかもしれないな」

「国の中枢に在ればこそ、目を背けられずに来たことも多かったのではないか? ……先達として一言加えるとすれば、身近な人物の死であればあるほどに人間は深い傷を負うものだよ」

「……その見た目で、先達という言葉の選択は違和感が多すぎる。訂正を求めたい」

「面倒だから、勘弁しておくれ。……ふぅ。 先代宰相殿も王宮に入られた頃からまるで変わらないね。アルフレイドが溜め息混じりに話していたのが、懐かしいばかりだよ」

「……アルをここで引き合いに出すのは、意図的なものか?」

「やれやれ、素で怖い顔は控えておくれ。……アルフレイドにとって、先代宰相殿は生涯における宝同然だと。つまり、そういうことを言いたいだけの話だよ?」


 濡れ羽色が微かに震える。黒の(ベール)から零れ落ちるのは、微笑み。それは王宮、まして後宮にいた頃にはけして見せることのなかった本心からの笑顔だった。それを向けられてしまえば、皮肉かと勘繰った自身の方に非を感じても無理はない。

 彼は再び馬車の窓から、オーディス領の景色へと目を移す。

 灰色の雲と鈍色の空の下。遠方に広がる緑の丘陵には、今もまだ雛菊の花びらが揺れていることだろう。


 オーディス領の東西を流れる運河を越えて、石畳をガタガタと揺られ続けることしばし。オリーヴの深緑を両脇に、小道を進んだ先にオーディス家の屋敷がある。そこへ向かって進んでいくフレイメア公爵家の紋を押された一台の馬車。

 やがて門を潜ったところで、屋敷の中から出迎えに現れたのは懐かしい面々だ。彼らの後方には、次世代と言って差し支えないだろう子どもたちの姿もあった。


「お久しぶりです、ギル兄さま。……少し、お顔の色が優れないようですが大丈夫ですか?」


 馬車から降りたところで、まず声を掛けてきたのはカタリナだ。

 カタリナ・オーディスの名を今や王宮において知らぬ者はいないだろう。歴史上、初めての女性中央高官として後の史書に名を連ねることは確実であろう彼女。その非凡さについて、他でもない先代と当代いずれの宰相からもお墨付きを受けていると言えば、大概のものは察する。


「……宰相の顔色が悪いのは、いつものことだろう」


 カタリナの後方から幾分呆れたようにそう補足するのは。昔も今も変わらずに、オーディス家の苦労役で在り続けているミスティ・オーディスである。王宮監査の中でも、ずば抜けた成果を重ね続けている彼もまた史書に名を連ねるべき存在だ。そう遠くないうちに、王宮監査のトップに推挙されることだろう。


 そんな二人がオーディス家における出世筆頭と周知されているのは、何も今に始まった話ではない。付け加えるならば、矢面に立って尽力し続けている彼らを支える他の家族の在り方も含めてオーディス家の面々はまさに稀少な貴族なのだ。

 その生き様をして、清廉そのもの。長きに渡り、彼らの根底を支え続けたであろう『彼女』の存在を想うたびに。ギルバート・フレイメアは幾度となく深い感慨に胸を締め付けられるような思いをしてきた。


 彼女本人はけして認めないだろうが、オーディス家にあって最も非凡であったであろう。そんな彼女がもたらした奇跡の途上を、引き継ぐようにして走り続けるオーディス家。幾度となく困難に直面してきたであろう辺境の一領が、語り継がれるほどの功績を残して来たのは紛れもなく彼女の存在があったから。

 代々のオーディス家領主が度々口にしていたのだから、それは紛れもない事実だ。


「久しいな、カタリナ。それに黒縄(こくじょう)の監査殿。民衆たちの間で今や、最も旬な人物に会えて光栄だ」

「……遠回しな皮肉同然だからな、それ。そもそも黒縄って何だって話だよ」


 心の底から嫌そうな表情で、当の本人は顔を引き攣らせている。王宮では巨大な猫を見事に被って見せる彼も、オーディス領内においてはその限りではないらしい。とはいえ、その実情は単純な話、不評であったから。要するに家族たちから、その猫は気持ち悪いとざっくばらんに切り捨てられた結果らしい。泣ける話だ。

 そしてそんな彼に微塵の気遣いもなく、由来を淡々と説明に入るのはカタリナである。


「黒縄と言うのはね、要するに『逃れようのない不幸』を指してそう称するのよ。多幸はあざなえる縄の如しと言うでしょう? つまりその、不幸のほうだけを黒と異称しているの。不正を働くものに対しては、決して逃れようのない『黒い縄』。 ね、秀逸でしょう?」

「そこで躊躇なく説明に入る容赦のなさをして、()(えん)の宰相補佐と呼ばれているお前だけあるな」

「……気にしてるのに。兄様、そんなだから恋人の一人もできないのだわ」

「……抉り返しておいて、よく言う。そんなはお前も一緒だろう」


 放っておけばいつまでも互いを抉り合い続けるのだから、不毛な兄妹である。王宮においても同様であったやり取りを横目に、先代宰相はため息を隠さない。


「二人とも、その辺りにしておきなさい。客人方を長く戸外に立たせておくものではないわ」


 宰相が止めに入る前に、やんわりと両者の間に割って入るのは今やオーディス一族の中でも最年長に数えられるエレナ・グーテランド侯爵夫人である。

 後宮焼失後、様々な紆余曲折を経たものの、真実の愛をしてグーテランド領へと嫁いだオーディス家の長女。二人の息子たちを巣立たせた現在は、グーテランドとその周辺領における令嬢令息たちの教育事業へ携わっている、知る者ぞ知る『東方の母』その人である。

 彼女が、かつては一族の中でも取り分け涙脆かったことを知る者はそう多くはない。

 そんな彼女の後ろから進み出る二人の青年。

 いずれも成人を迎えた、エレナの子息たちだ。


「お久しぶりです、ギルバート・フレイメア公爵様。こうして再びお会いできたことに、非常な嬉しさを感じるばかりです。伯父もきっと、こうして足を運んで頂けたことへ感謝の念を抱いているに違いありません」

「長きに渡るお勤め、お疲れ様でした。どうぞ、オーディス領内で存分にその羽を休めて頂ければ幸いです」


 最初に口を開いたのは、長男のクレイ・グーテランドであり。その後方から、続けて一礼した方が次男のセシル・グーテランドである。いずれも父方の、線の細さを継いでいる美しい青年たちだ。

 不毛な会話を繰り広げていた叔父と叔母を横目に、母と共に事態の収拾を図ろうとする姿勢はグーテランドの穏やかな気質を彷彿とさせる。そんな彼らがある意味で、オーディス家の次世代にあたる『彼ら』のお目付け役とも称されるに至った経緯。

 何となしに、分かるような気がした。しかし今は感慨に浸るよりも先に紹介に入るのが筋と言うものだろう。

 ぎりぎりで精神を立て直した先代宰相が、そこでようやく馬車へ向き直って手を差し伸べる。

 御者が横から滑り込ませた台に、濡れ羽色のドレスを靡かせて足を掛けるのは、見た目だけならば少女然とした一人の女性。真紅の本を手に、彼の差し伸べた手に掴まって地上へと降り立った人物へと周囲から一斉に視線が向けられる。

 その視線の中に驚愕が混じっていたのも無理はない話だ。王宮に勤めている『彼ら』からすれば、紹介以前の問題だった。


「……な、なぜ『鉄壁の能面』がここに……」

「……テラコッタ女官長がどうしてオーディス領へ……」


 然しもの二人も、呆然とした様子で呟くばかりだ。カタリナとミスティの両者にとっては、想定もしていなかった訪問であろう。

 事実、共に馬車でオーディス領へ向かうこととなったギルバート自身もまた、未だに全ての経緯を把握しきれてはいないのだから。

 しかし、そんな彼らを含めた全員の視線を浴びながら当人は些かも動じる様子はない。むしろ泰然としたものだった。軽く鼻歌さえ混じらせるものだから、件の二人が絶句している。

 そんな、彼女。今に至るまで訪れたことなど無かったであろうオーディス領一帯を、改めて見渡すようにしながら。

 その横顔には、何故か穏やかな光だけがあった。



 ***


 大勢の令嬢たちが、連なるようにして拝謁の時を待っている。よく晴れた心地よい日和だというのに、王宮の回廊は静謐と一種の緊張感に満たされていた。


 祝砲が打ち鳴らされた後。各領から訪れた令嬢たちを迎えるべく、後宮と王宮から続々と役人、女官、侍女たちが列をなして現れた。

 そのあまりに整然とした列に、事前にリハーサルでもしておいたのかと。そんな馬鹿馬鹿しいくらいの想像が、脳裏を掠めたほどである。それほどまでに見事な光景だった。

 半ば呆けていた少女をよそに事象は絶え間なく進んでゆき。その後、それぞれの身分に合わせて並びが決められていった。何ともまあ、慌ただしい。内心はそれに尽きる。

 メリアはひっそりと後列に並ばされ、周囲をじっと観察していた。

 ある意味、見事なまでの各領の縮図が展開されている。一概に家格ばかりではなく、それぞれの領の経済状態、力関係をそこに如実に見ることができる並びだ。

 これには素直に感嘆する他ない。

 全ては宰相様の采配によるものだと耳に挟んだ時点で、その手腕の確かさが窺える。拝謁の際には、対面することとなるであろう当人。

 王族の横に、控えているであろうその人のことを思ってメリアは密かに溜息をついていた。

 絶対に、気を抜いてはいけない。そもそも拝謁の際に気を抜けるほど、安穏な思考の持ち主が存在するかは別として。メリアはここに至るまでで、十分すぎるほどに自身の立場を痛感している。

 人質と同時に、各領地の様子見のための駒であり。元より寵姫となるような資質もない以上は、ただひたすらに大切なのは一点。


 ――オーディス領のために、良くも悪くも目立ってはならない。


 ただその一念で、順番を得て踏み出した先。

 文字通りそこは、溢れるほどの光量に包まれていた。



 ****


 ぱちぱちと薪の爆ぜる音がやけに鮮明に聞こえるのは。要するに、そこにいる全員が沈黙を選んでいるからなのだろう。

 今は、茶器が擦れあう音ともう一つの音だけが、オーディス家の広間に響いている。

 テーブルを囲む面々は、客人として数えられる二人を除いて九人だ。エレナ、カタリナ、ミスティの三人は当然のこと。エレナの子息たち、クレイとセシルの二人に挟まれるようにして、長兄ディルの子どもたち四人を含めた総勢九人。

 ちなみにディルの妻フレデリカは現在、葬儀の手配で場を外している。


 そう。父と共に長きに渡り、オーディス領の発展に心身を賭して挑み続けた彼。ディル・オーディス辺境伯は昨晩静かにその息を引き取ったのだ。


 広間に通される前に、案内された先は領主の私室だ。丁寧に湯灌され、清められたディル・オーディスの横に立ったギルバート・フレイメア。もはや習慣化した周囲を見回す動作をした後に。

 一人、ひっそりとため息を零した。


「――――既に、迎えに来た後らしいな」


 彼のその呟きに、周囲に付き添っていたオーディス家の面々は一様に安堵した様子を見せた。その理由については、改めて言うまでもないだろう。


 数か月の闘病の後、ということもあり。ディルの体が酷く痩せ細った印象は否めない。しかし最期に浮かべた表情は、驚くほどに穏やかで柔らかいものだ。

 きっと死出の旅路へ付き添う『彼女』の存在があらゆる痛みを和らげたのだろう。

 顔を見合わせ、頷き合ったエレナとカタリナの二人。その後ろで瞑目していたミスティの口許にも、かすかな笑みが浮かんでいた。

 彼らの目に『彼女』の姿は確認できない。だからこそ宰相が告げた言葉に今、ようやく心の底から安堵を噛み締めているのだ。

 彼ら弟妹から見ても、ディルが一際『彼女』――妹であるメリアを生前から大切に思ってきたこと。それは火を見るよりも明らかなオーディス家の一つの不問律といっても間違いではなく。

 病に侵され、日々衰弱の一途を辿っていてもなお。薬草を取り寄せ、見舞いに来たエレナを前に懐かしそうに昔語りをしていた。

 その表情には、どこか待ち望んでいたような色さえ混じっていたという。

 妻や子どもたちを、愛していたのは言うまでもない。けして、死に急いでいた訳でないことは確かだったが。それでも死に顔は嘘をつかない。

 筋金入りの、妹馬鹿だったと。ミスティが思わずそう零したのも無理は無かった。


 そうして私室を出た後、今に至る。時折外の風が窓枠を揺らすほかに大きな音もない。

 そう、大きな音は。

 沈黙している周囲を余所に、ぱらぱらと(ページ)を捲る音は一点集中と言って差し支えないほどの視線を集めている。頁を捲っている当人以外が、時折お茶を口に運びながらじっと『その時』を待っているのだ。


 馬車を降りて、しばらくの間は周囲を見渡すばかりだった彼女。

『鉄壁の能面』もしくは、『後宮の生き字引』と称されるシェンナ・テラコッタはややあって視線を周囲に立つ面々に向けてこう言った。


「御機嫌よう、オーディス家の皆様。ディル・オーディス伯が存命のうちに間に合わせられなかったことを先にお詫び申し上げ、挨拶に代えさせて頂こう」


 静かに紡がれたその言葉に、周囲が戸惑うようにして視線を向けた先。流石の先代宰相も、その視線にどこから説明したものかとしばし言葉を選んでいる合間。その合間を、まるで気にした素振りもなく。

 徐に、腕に抱えていた紅の背表紙――一冊の本を指差していう事には。


「本日の要件は、これに纏わることでね」


 とりあえず詳しい話は中に入ってからさせて頂こうと思うよ、と。

 そう言って一礼した彼女へ、一先ずそこにいた全員が頷いたという経緯だった。


 そうして沈黙を保ったままの、広間。

 ぱらぱら、ぱたん。頁を捲る音が止み、背表紙が閉じられたのと同時。

 唐突に彼女が明かした事実に、その場にいた全員が言葉を失うこととなる。


「これは、メリア・オーディス令嬢の手記でね。――――今に至るまで、ずっと私が二つの約束のもとで保管してきたものだ。既に二十年余りが過ぎてしまったが、今日を約束の日とすべく、こうして領地へと足を運ばせて頂いた」


 こうして、長い歳月を経てオーディス家へとたどり着くこととなった手記。紅の背表紙は、テーブルの上に置かれた。

 周囲の絶句を余所に。束の間目を閉じて、思い返すのは――――まだ、彼女が生きていた頃。あの薄暗い後宮で、ひっそりと。けれども懸命に積み重ねられた日々の記録。

 メリア・オーディスという少女が、生きて綴った二年間の独白。その欠片だった。



 *****


 打ち捨てられ、枯れていくだけの未来を待つ花のよう。柄にもなく、感傷的なことばが脳裏を掠めて落ちていく。

 夜半。

 透き通った夜陰に、煌々と輝く月。風を孕み、ゆったりと膨らんでは萎んでを繰り返すカーテンの隙間から。差し込む月明かりが、自分の影を薄く伸ばしてゆく。

 このまま夜が明けなければいい。そんな思いに、他でもない自身が苦笑を抱きながら。頬を伝うそれに、辛うじて心の所在を確認するような。そんな救いの見えない日々に――――ゆらゆらと、揺れていた。


 後宮へと足を踏み入れて、早二ヵ月。表面上は穏やかに何事もなく過ぎ去っていく日々も。

 裏を返せば、様相は全く異なるもの。

 心を削られる毎日。メリアにとっての後宮とは、ただそれだけの場所だった。既に温もりを知っている者にとって、ここは闇の底と同じ。一言目には、帰りたい。

 暖かくて、優しくて、時に厳しく怒ってくれて。それでもやっぱり愛おしい。それも全て、家族が傍にいてくれたから。

 オーディス領。遥かなる、故郷。唯一、帰りたいと願う場所。重ねてきた日々へ、戻りたいと思う。

 ここは寒いから。寒くて、痛くて、向けられる視線すべてが――――冷たくて。こんな場所に、どうして望んでいられる?

 どうして、どうして。繰り返し、波が引いては打ち寄せる浜辺のように尽きることのない、本心を。

 想いを、雫に溶かして。幾度も幾夜も目を閉じて。それでも踏み止まる理由。それはメリアにとっての、守りたいものと同義だ。


 後宮は、国の縮図そのもの。そこから背を向けること。それが、示す意味は――――『反意』。

 帰郷が、認められていないということではない。ただ、縮図から現実へと影響が及ぶのは避けられない。

 ただ、それだけのこと。それだけ、大きなこと。


「父さま、母さま、ディル兄さま、エレナ姉さま……ミスティ、ロイズ、クリス、カタリナ……帰りたい。皆のもとへ、帰りたい――――」


 お願い。こんなに弱い自分をどうか、赦して下さい。

 今だけ、だから。きっと朝を迎えたら、何事もなく片隅へと消してみせるから。だから夜の間だけは。この心を、偽らずにいさせて下さい。


 滲むインクをそのままにして。ぱたん、と音を立てて閉じた背表紙。月明かりだけが差し込む室内で、まるでそれは、血のように紅く。

 指先でなぞりながら、意識して深呼吸を繰り返す。


 何とかなる、そう理由もなく重ね続けた言葉を。日々の記憶が、容赦なく削り取っていくのだから――――本当にままならない。

 甘さ、であったのだろう。風聞で聞く限りであったこと。両親が、兄が、姉が……あれ程までに、頑なに引き留めようとしたその意味を。身をもって知った二月だった。

 手を伸ばしても、変わらないことがあると思い知らされた。安易に関わることで、逆に相手を苦しめると知った。傍観し続けることで、自分の心が削れていくと知った。同時に。諦めさえすれば、それで終わってしまうことがあることも知っている。

 苦しいだけのことならば。変えられないことならば。仕方がなかったことだから。非力な自分には、手に余る事柄であったから。

 ――――そう、区切りをつけてしまえば救われるのかもしれなかった。

 けれども自分が決してそれを選べないことも知っていた。手を伸ばしかけては、踏み出さない。否、踏み出せないのは。

 心の中は、いつも独りではなかったから。たとえ、遠く離れても。確かに、在り続ける温もりが。包み込んでくれる、家族の存在。記憶。思い。その全てが。

 わたしを、私のままで守る(よすが)

 確かに、日々は苦しく。救いなど、欠片も見出せない。それは二月の間、変わることはなく。心の休まる時は、ほんの僅か。宵の一時だけ。

 互いを傷つけあい、貶め合い、更に憎悪を募らせていくだけの会話の応酬を傍らにして。その毒気にあてられることも。毒そのものを、口に入れてしまったこともある。

 身を守る術は、自ら学ぶほかないことも。誰も助けてはくれない当然も。そう。それが、後宮という場所。そこに在る、理のかたち。

 視ることと、知ること。

 今までも、曲がりなりにも貴族として成長してきた過程で。わたしにとって、唯一と言っていい武器は観察することくらいだから。

 だからこの先も、自分を自分で守っていく。

 わたしのままで、いつか故郷に戻れる日まで。

 それくらいの夢は、抱いていてもいいでしょう?


「――――まだ、頑張れる」


 紅い背表紙に手をのせたまま、月を仰いで呟いた声を。誰も、聞き届けるものはいない。



 ******


「――――そう、伝わらないままで埋もれていく事象の方が遥かに多いくらいだからね。実際、この手記も後宮と共に焼失していても、不思議では無かった」


 彼女、シェンナ・テラコッタはそう呟きながら一度本を閉じる。日はまだ高いところにあるが、鈍色の空が光を遮っているためだろうか。薄らと暗いオーディス家の広間である。


「焼失を免れたのは……あなたが?」


 思わずといった風にして。カタリナが未だに呆然とした面持ちを繕えぬままに問い掛ける。それに対し、問いかけられた当人はあっさりと答える。


「正確には、違うね」


 その返答に対し、周囲が首を傾げる中。

 今まで沈黙を保っていた『彼ら』がここに来てとうとう口を開いた。


「勿体ぶるような言い方は、黒猫のおば様に似てるよね」

「うん、似てる。似てる」


 声質の似た二人分の声。一方は母親譲りの長い藍色の髪を弄りながら。もう一方は、胡桃色の瞳を好奇心に煌めかせて。

 姿形のよく似た双子は、そう言ってくすくすと笑い合った。

 そんな二人に、どこか呆れたような視線を向けている齢十二の少年。その亜麻色の髪と蒼穹の色の目。『彼女』によく似ていると言って彼の父はよく彼の頭を撫でたものだ。


「正確には、ということは。……意図せず、あなたが保管することになったという意味ですか?」

「ふむ、流石はオーディスの次代。か」


 コルヴィン・オーディス。父亡き後、オーディス家の次期当主にあたる長子である。まだ成人していないとはいえ、その聡明さは年齢に見合わぬものであり。それは、ひっそりと彼の様子を窺うに留めている宰相がぽつりと零した言葉からも分かる通りだ。


「……将来が末恐ろしい子だよ、全く」

「ふふ。他でもない先代宰相様のお墨付きを頂けて、オーディスの次代の見通しは明るいわね」


 四人の内の最後の一人。ようやくここで口を開いた。先代の宰相を前にしても、欠片も動じないばかりか。微笑みさえも浮かべて見せる少女。彼女はシェンナから目を外さず、問いかけの答えを待っているコルヴィンの姉であると同時に。くすくすと笑み零す双子たちの姉でもある。

 長女 エルリ・オーディス。彼女の二つ名を耳にする度に、エレナの子息たち――クレイとセシルは海溝よりも深いであろう溜息を零さずにはいられない。


「エルリ、君にはできるだけ傍観に徹していて欲しい」

「そう。主に僕らの心の平穏のために」


 クレイとセシルがおそらく無駄になるだろうと、そう思いながらもだろう。差し込んできた切実な願い。またの名を懇願。しかしそれも一蹴されて、互いの肩をたたき合う光景。

 ここまでが、今のオーディス家の習慣的風景である。


「別に私も進んで物事を荒立るつもりはないのよ? けれども貴方たちの心の平穏の前にするべき事があるだけ。……そうでしょう?」


 その微笑みは一見して穏やかであるのに。その目は全くと言っていいほど、平穏からは遠い色を湛えている。

 エルリ・オーディス。『オーディス領の悪夢』と呼ばれる彼女。かの、ディル・オーディスが生涯に渡って築いた人脈のすべてを引き継いでおり。類まれな情報収集力は、伝説の隠密として名を残すフェリバート・エイデル候に溜息をつかせる。そんな彼女。齢十五の令嬢である。


「貴女は、メリア叔母様の手記を当初は処分しようと考えていたのでは?」


 その可憐な声は、躊躇うことなく切り込んでゆく。そこには僅かの躊躇もない。周囲の驚愕を一瞥すらせずに、ただ目の前の濡れ羽色を見ている。


「やれやれ。まさに……『悪夢』。いや、悪魔と称されるべき人外めいた考察力だね。黒猫が目を掛けるのも納得だよ」

「お師匠に最近会われたのですか? ここ数年は私も姿をお見かけしていないのですけれど」

「……これでも一応は、あれの先達だからね。それにしても黒猫よ。どうしてこんな末恐ろしいのを野放しにしたまま暢気に旅に出ているのか……」


 シェンナ・テラコッタのその呟きに、心の底から賛同するようにしてテーブル後方で頷くグーテランド兄弟。

 そんな彼らとは対照的なのが、藍色の髪と胡桃色の目の双子たち。


「逆だったね。黒猫のおば様が、この人に似ているんだね」

「うん、逆だね。逆だね」


 ちなみに前言が次女のミレーユ。後言が三女のシャルロットである。


「ミレーユ姉さま、シャルロット姉さま。茶々は程々にね。ロイズ叔父様とクリス叔父様からも最近言われたばかりだったよね?」

「「……そうだったね。反省、反省」」


 コルヴィンからのやんわりとした指摘に、顔を見合わせて声をそろえた双子姉。

 基本的に、コルヴィンは双子の姉たちを。グーテランド兄弟が長女のエルリをフォローする立ち回りを、と。暗黙の了解のもとで役割分担をしているのだった。


「君の考察は正しい。私はね、あくまで後宮という縛りに従順な愚かな人形だった」


 彼女、シェンナ・テラコッタの独白に再び緊張感を取り戻してきたオーディス家の広間。本来ならば、合間で口を挟みそうなカタリナとミスティの両名は沈黙を貫いている。

 それだけ衝撃的であったと言えばそうだろう。けれども、それだけではない。

 彼らはあえて、次代の『彼ら』を見守りたいと思っている。兄の死を目にして、否応なしに自らの『先』についても考えざるを得なかった。そんな横顔を、エレナもまた彼らの姉として見守っている。


 沈黙を貫く彼らと同様に。先代宰相である彼もまた、沈黙を守る。

 緊張感は保たれながらも、けして剣呑な雰囲気に染まらない沈黙の中。そのオーディス家らしい、不思議な空気の中で。

 少なからず、苦笑を浮かべたシェンナ・テラコッタ。彼女は、その生涯のほぼ全てと言っていい時間を後宮に尽くして来た。十代の半ばに後宮へ侍女として足を踏み入れて以来、柔らかであった心は年月を重ねるごとに失われていったのだ。人の、良心と呼ばれるべき部分も。信頼と名の付くような、関係性も。

 ――――信じる心は、後宮には不要であったから。

 後宮にいた当時、彼女の関心事はひたすらに後宮の維持。それに尽きた。たとえ歪んだままであっても。それが存続を許される間は、ただそれを守ること。たとえ魔窟のようだと称される場所であっても、後宮は彼女にとって唯一の居場所であったから。

 多くをあえて見ずに……否、見ながらも、知りながらも。切り捨ててきたものは数知れない。情を削ぎ落とした結果、いつしか周囲からは『鉄壁の能面』などと称されるようになった。一介の侍女に過ぎなかった彼女が、女官長と呼ばれるまで歳月は過ぎていった。


 後宮の崩壊は、一人の令嬢の死から始まった。その令嬢のことを、彼女は殆ど気に掛けたこともなかった。

 片隅にひっそりと咲く一輪の花の如く。ただ、それだけであった。

 かつても、当時も。彼女は心を失ったままであったから。けれども、そんな彼女の前に紅の背表紙は辿り着いた。それはまるで、初めから決まっていたことのように――。


「なぜ、思い留まったのですか?」

「そうだね――。言ってしまえば、それは……後宮に入った一人の辺境伯令嬢が書いた手記ではなく。ただ、メリア・オーディスという名の少女が綴った心でしかなかったからだよ」


 エルリ・オーディスの一切の妥協を許さないと言わんばかりの目を前にしても。今、既に後宮という縛りから解放された後のシェンナ・テラコッタは静かにそう独白するだけだ。

 その黒檀のような双眸は、かつての柔らかさを取り戻している。


「もう一つだけ。……どうして、オーディス領へ届けるまでに二十年近い歳月を置いたの?」

「――――二つの約束」


 しばらく間をおいて、再び呟かれた『二つの約束』。その五文字。保管してきた理由として、紅の背表紙をテーブルへ置いたときに全員が聞いていた。

 今までは殆ど感じられなかった、愁いの籠った呟きに重ねるようにして。

 まるでその時を待っていたかのように、響く。


「お爺様と、メリア姉さまとの約束。それを、合わせて二つということでは?」


 ぎい、と音を立てて開かれた扉の横。空色の双眸。腰よりも長い見事な亜麻色の髪を靡かせて立っていた。

 フィリア・オーディス。オーディスの珠玉とも呼ばれ、国内でも指折りの美女に数え上げられる一人だ。

 曰く。煙るような長い睫の奥には、宝玉が如き至高の空が嵌め込まれている。宵に流れる星々の煌めきを封じ込めたように、艶やかな絹糸の如き亜麻の髪。その微笑みを得たものは、生涯に渡る幸福を約束される等々。

 そのような数々の謂れを受ける彼女。しかし、当の本人は全てを一笑に付して呟くことには。

「私一人が笑うだけで周囲が幸せになるというなら、幾らでも笑いましょう」と。

 割と皮肉屋。幼少から、その心根はなぜか平素閑散としたものだった。基本的に読書と日向を好み、日がな一日猫のように丸まって過ごすことも少なくない。元々身体がそれほど丈夫でないということもあり、オーディス家の面々は彼女ができるだけ心穏やかに過ごせることに重きを置いていた。

 それこそ、オーディス家の物置が一杯になりそうな量の見合いの嘆願書の数々も。当人の目に入るところまでいかずに、代々の当主の手によって冬の暖に使われていた。その事実を知れば、多くが卒倒するだろう。


「フィリア・オーディス……噂には聞いていたが、まるで人ならざる美貌という賛美はあながち脚色されたものではないのだね」

「……私はそう大したものではありません。人並みに年を経ていくでしょう。でも、貴女は違う」


 その美貌をして、大したことはないの一言で切り捨てられるのは当人くらいなものである。現に、彼女の周囲は銘々に複雑な面持ちを隠せないでいる。

 これもまた、オーディス家における習慣的風景の一つだ。


 こうしてオーディス家の面々が、フレデリカ夫人と双子の商人たちを除いて揃い踏みした。その面々が、フィリアの発言を受けて視線を注ぐ先。

 シェンナ・テラコッタは、ここに来て色々なものを諦めた様な表情をしていた。けれども、それはどこか穏やかな諦めで。

 ほんの刹那、年相応に見えた横顔はやはり柔らかい表情を湛えていた。


「そう。あなたの言うとおりだよ、フィリア・オーディス伯令嬢。――――私は、メリア嬢及びあなた方の祖父にあたるグイード・リーベンブルグ候からの願いを受けて、今日の日までこの手記を預かっていた」


 やはり、と頷くフィリア以外はあのエルリも含めて全員が絶句している。その面々の中で一番回復が早かったのは、彼だった。


「……メリアの、願いというのは? まさか生前にこうなることを予期していたと?」

「いや、確かにその読みは導き出される可能性の一つではあるが。違うよ、先代宰相殿。おそらく答えは、君の脳裏に浮かんでいるであろう……もう一方だ」


 言外に明かされた事実に、誰もが言葉を失ったままだ。生前に預かった願いではないという彼女の言葉。

 ――――つまり、メリアの死後に手記を託されたという、その意味を。


「シェンナ・テラコッタ……あなたも、霊が見えるのか?」

「……おそらく、先天的な先代宰相殿とは異なる経緯でね。一からすべてを語っていたら、夜が明けてしまうだろうから詳細はご想像にお任せするよ。だが、そう。私が後宮の焼失前にメリア嬢から手記を預かった事実は、否定しない」


 訥々と明かされていく経緯に一番脱力を隠せないのは言うまでもなくギルバート・フレイメア、彼である。

 今に至るまで、自分以外に『霊』が見えているであろう存在の可能性に思い至りもしなかった。そして、自身の霊感はあからさまに察せられていたという二重の衝撃によって、追い打ちを掛けられたような心境である。

 沈没するのも無理はない。


「フィリア、どうして『二つの約束』だけでそこまで思い至ったの?」

「……女の勘です」

「……怖いな、女の勘」


 テーブルに沈没したままの彼を余所に。今まで沈黙を保っていたエレナが妹へ問い掛ければ、何とも気の抜けた答えが返って来る。

 それを受けて、ひっそりと呟いたのはミスティ。オーディス家の規格外すぎる女性陣を日常的に見ている彼は、軽度の女性不信になりつつある。


 いつしか日の傾きかけた窓の外。雨は止み、夕暮れの色に染め上げられていくオーディス領にぽつぽつと明かりが灯り始めている。


「さて。一先ず要件は以上になる。――――そろそろ私は、お暇させて頂くこととしよう」


 濡れ羽色のドレスを揺らし、徐に席を立つシェンナ・テラコッタ。

 そんな彼女へ、思わずカタリナが声を上げていた。


「お爺様の約束に関しては――――」

「それについては、フィリア・オーディス嬢……もしくは、エルリ嬢が既に気付いていることと思うよ。ではね、オーディス家ご一同。あなた方に、訪れ得る限りの幸福があることを願って」


 後宮にいる間、決して笑うことのなかった彼女。今はもう、その面影はない。軽やかに身を翻し、オーディス家を立ち去る背を広間にいた全員が静かに見送った。


「……黒猫に初めて会いに行った時も、最後はあの言葉だったな」


 ミスティの苦笑交じりの言葉に、双子たちがくすくすと笑い合っていた。


「フィリア。エルリ。あなた達は約束の期日がどうして『今』なのか、分かっているのね?」


 エレナの問いかけに、二人は顔を見合わせて互いに思い至った答えが同じであることを知る。

 基本的に、長い口上を厭うフィリアである。

 声なく見合った末に、根負けした様子のエルリが口を開いた。


「王宮で、昨晩ある人物が亡くなった。ずっと幽閉されていた、王家に連なる人物。――――先代宰相様、貴方には知らせが届いている筈です」


 王宮。幽閉。王家に連なる人物。それだけで、名を明かさずとも『誰』であるかは明白だった。


「……ああ。公にするのは差し控えられているが……王弟シャルル・セストレイが幽閉塔で病死した。昨夜から、明け方の間に王都の外れへ埋葬されている」


 王弟 シャルル・セストレイ。彼は、今は亡きエルトリア侯爵家同様に、オーディス家にとっては因縁のある人物である。

 実質的に、メリアを死に追いやった人物として。その名はオーディス家の次代に至っても変わらずに憎悪の対象であり続けた。

 その歪んだ情愛から、メリアが後宮で暮らしている間は孤立化を図ったばかりか。後宮を辞すことをメリアが宣言した日。密かに茶会へ忍び込んでいた彼は、エルトリア侯爵令嬢と共に彼女の毒殺に関わった。

 元凶たる、王弟の死。

 それを知ったオーディス家の面々は、一様に複雑な表情を隠せない。特に実際に相見えた、エレナとミスティ、そしてカタリナたちは顔を見合わせて深いため息をついた。


 そんな彼らの沈鬱な表情を目にして、ギルバート・フレイメアはようやく約束が『今日』であることの意味が分かったような気がした。視線を向ければ、件の二人は彼に向って銘々に頷いて見せる。

 ――――そうか。やはり……そういう意味か。

 ひっそりと胸の内にそう零した先代宰相は、おそらく『彼女』もまた同じことを危惧していたのだろうと確信に近い部分で感じ取った。


 ――――君は、憎しみを持たないのか?


 かつての、彼女への問い掛けが今になって頭を過る。それに対して、彼女が答えた言葉も。数十年経てなおも、鮮やかにこの心に残っている。


「メリア叔母様も、お爺様も。二人とも、共通して言えるのはその思慮深さ。だからきっと、『約束』を残したのね。この手記が――――二度目の火種に、なり得る可能性を捨てきれなかったから」


 エルリのその言葉に、エレナとカタリナが肩を寄せ合って身を震わせている。その頬に伝う、雫。二十年余りを経てもなお、癒されぬ傷がある。

 悔恨。

 恨みのもとになりたくない、と。かつて、燃え落ちていく後宮を背に『彼女』が告げた言葉。

 遺される手記が、復讐の念を呼び起こすことを望まなかった。

 その『彼女』の想いを受け取ったシェンナ・テラコッタと、シェンナ・テラコッタから手記を一度は受け取りながら、オーディス領への返還を先送りにすることを依頼した今は亡きグイード・リーベンブルグ候。


「……『二つの約束』というのは、正確ではなかったのかもしれない」


 そんな先代宰相の呟きに、不思議そうに顔を見合わせたオーディス家の次代たち。そんな彼らを見渡して、彼なりの解釈を返答に乗せた先代宰相は改めて思う。

 今も昔も、『彼女』はずっとオーディス家を守り続けているのだと。


「正確には『三人の約束』によって、メリアの手記は守られてきたのだから」


 ギルバート・フレイメアの静かなその言葉に、広間にいる全員が顔を見合わせて笑う。誰もがその通りだと納得したのだろう。

 徐にフィリアがテーブルに歩み寄って持ち上げた紅の背表紙。夕明かりに照らされて、ようやく『望んでいた場所』へと帰郷を果たした手記。



「お帰りなさい、メリア姉さま」



 ずっと、見守ってくれてありがとう。と。

 フィリアは背表紙を胸に抱きしめ、感謝の思いを捧げた。



 *


 ――思うに、何かしらの予感はあったのかもしれない。


 月明かりの下でしか開いてこなかった紅の背表紙。ふと、思い至って。引出しから出して、パラパラと日の光に透かしながら目を通していた。約二年の間、欠かすことなくつらつらと綴った思いの丈は酷く頼り無げで、時折滲んでいる部分もある。


 いつかこれを苦笑しながら捲る日々が、自分に訪れることはあるだろうか。


 不意に兆した想いに、込み上げる感情はどこか寂寥感にも似ていて。結局のところは、掴みきれぬまま。

 不意に後ろ背に響いた声へ、本を仕舞いながら振り返った。


「――――メリア様。ご気分が優れないようでしたら、茶会に欠席の知らせを……」

「……ありがとう、クリスタ。その心遣いだけで十分です。いつまでも逃げ回ることはできないし、欠席をしたらそれはそれで『見舞いの菓子』の処分に苦心するだけになるわ」


 そう。見舞いとは名ばかりの、少量ずつの毒を仕込んだ代物が山と送られてくる。それは可能性よりも、確信に近い未来予想図。色々と理由を付けて、密かに処分する手間を考えるとまだ茶会へ出席したほうがましであると。言外にそう付け加えた彼女。

 彼女の侍女はその思いを汲み取り、静かに頷くに留まった。

 しかしその双眸には、言葉にこそしないものの決して少なくはない憂いが混じっている。

 それがただ、嬉しい。冷たいだけだったその場所で自分の身を心から案じてくれる存在を得たこと。

 それは、言葉にするよりも大きな意味を持ってメリアの心を確かに支えていた。


「どうか、お気をつけて」


 支度はすでに済ませていた。

 後宮を初めて訪れた時と同じ色のドレスを靡かせて。ふわり、とドアの横で振り返って微笑んだ。


「ありがとう、クリスタ。――――行ってきます」


 見上げた空は、吸い込まれそうなほどに見事な蒼穹。

 回廊を吹きわたる風に、目を細めながら。メリアは今日も、お茶会へと向かう。その実、無事に戻れる保証などどこにもない戦場にも等しい、その場所へ。

 この心が限界を超えて地へ落ちるまでは。遠からず訪れるかもしれない『その時』には。

 もし、叶うなら。



「どうか、――――ただいま、と言わせて」



 愛しい家族たちの顔を浮かべながら、踏み出した後。

 少女はもう、振り返らなかった。


 *fin*


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