終焉の始まり‐後章‐
多くの方々に支えられ、ここまで彼女の軌跡を書き綴ることが叶いました。
ありがとうございます。
*
時は少し、遡る。
交わした約束の下、日を浴びる時刻になっても私室に一人留まり。
未だに戻らないクリスタを案じている少女の元へ。
ばたばたと甲高いブーツの音を響かせて、ノックもなく扉を開けて入室して来た人物。
それは見知った顔です。
宰相補佐 フォルテ・ランドゥールその人でした。
勿論この方に、私の姿は見えません。
慌てた様子で部屋を見渡していますが、どうやら宰相様を探すその尋常でない様子に首を傾げるほか無い私。
けれども次の瞬間に、思わず彼が零したであろう言葉に瞠目することとなります。
「っち、こんな時に限ってあの人……このままだとあの侍女殺されるっていうのに………」
あの侍女。
それがおそらくクリスタの事であろうと察した私。
自分の悠長さに眩暈を覚えて飛び出していました。
約束を破ってしまうことへ、思いが及ばないほどに。
半開きになっていたドアを勢いよく跳ね除けて回廊へ出ます。
後宮の広さは、実質王宮のそれを凌ぐとされる程。
闇雲にひた走った所で、容易にはたどり着けないと分かっています。
それでも、足を止めることはできません。
クリスタが、死んでしまう。
私の所為で。
私の為に。
そんなことを、許してしまえば。
もう私は二度と立ち上がることなど出来ません。
お願い、呼んで。
私の名を呼んで。
祈りにも似た、そんな心の叫びに呼応するように。
あの時と同じ、『月の宮』東の端から。
私を想う声が。
それを知覚した時には、もう既に私は飛んでいました。
月の宮、その最も奥まった東端で日差しに目を瞬かせて意識を取り戻したクリスタ。
彼女は、僅かな間全身に走る痛みに呻いたものの状況を瞬時に察した。
半身を起し、睨み据えた先には二つの人影。
逆光で、細部までは見えなくとも。
それが誰であるかを、クリスタは知っている。
「鬼畜共………私の主を殺した貴方達を、私はけして許さない」
おそらく生まれて初めて鬼畜呼ばわりされた二人は、ほんの僅かに苦笑して見せる。
その内心は、おそらく彼ら当人にしか分からない。
「ふふ、まるで貴女は自分の業を分かってはいないのね。ああ、なんて愉快なのかしら」
エルトリア侯爵令嬢、フランティーヌ・エルトリアはそう言って心の底から愉しげに笑う。
「………っ、その不快な口を閉じなさい。フランティーヌ・エルトリア!!」
まさに叫ぶように。
恫喝した彼女の頭を、次の瞬間に地に押し付けた何か。
それは、声を発したところで明らかになる。
「煩いよ、君。………足もとで喚かないでくれるかい? 」
それは王弟 シャルル・セストレイだ。
彼が、クリスタの髪を掴んで地面に押さえつけているのだ。
王家の双藍の瞳を細めたまま、まるで地を這う虫を観察する様な目を向けてくる。
それに怒りを越えて、怖気を覚えたクリスタ。
本来は、こんな目をしていたのか。と。
「静かにしててね。……正直君を生かしておくのは僕の意には反するんだけど。どうやらフランティーヌはどうしても異母妹を生かしておくのが許せないらしい……」
その言葉に、意味を悟って瞠目するクリスタ。
ここで言う異母妹とは、医療宮に保護されているグレイス・エルトリアを指しているのだ。
「一体貴方達は………何を」
「ああ、もう煩いなぁ。……フランティーヌ?」
どうやら王弟に説明する意思はないらしい。
呼ばれた彼女は、普段はけして見せない令嬢らしからぬ所作を見せた。
靴を脱ぎ捨て、素足のままで歩み寄って来たかと思えば。
徐に彼女を縛っている縄を引き摺り、中庭へと放り投げた。
生い茂るのは、白い芥子の群生。
花弁を撒き散らしながら、転がった彼女。
それを見下ろしながら素足のままで庭へ出た彼女はそのまま胡坐をかいた。
茫然とその姿を見詰めたクリスタへ、慈愛の女神もかくやと思われる程の笑みを張りつけて告げたのは。
「私、エルトリアを滅ぼしたいのですわ。その為にこの後宮へ入り、今まで無意味なことばかりを繰り返してきましたの」
もはや何も言葉にならないクリスタを横目に、エルトリア侯爵令嬢は扇を口元に当てる事もせず呵呵と笑った。
「………いずれは、貴女も鴉に首を落とさせるつもりでいましたの。手間が省けたわ。自らシャルルの元へ飛び込んで来てくれたのだもの。……ね、そんなあなたにご褒美を上げるわ」
そう言うなり、返事も聞かずに語り出した彼女の話はとても侯爵令嬢らしからぬ闇と、血と、凄惨に満ちたものである。
フランティーヌ・エルトリアは五歳の折、エルトリア侯爵に引き取られた。
否、正確には奪い取ったと言った方が正しい。
彼女の母は、この時にエルトリア侯爵に逆らって切り殺されている。
彼女の祖父母も同様であった。
彼女を守ろうとした心ある人々は、全員が実の父親の手で殺された。
彼女はそれを、全て見ていた。
今も彼女の脳裏には、母の断末魔がこびりついて離れない。
今も祖父母が全身を血塗れにして横たわった姿が離れない。
彼女は、実の父親を恨みながら成長した。
父がそれほどまでに彼女を欲しがったのは、その血筋が全てである。
母はエルトリア侯爵家の本邸、唯一の娘だった。
それをエルトリア侯爵家の分家に生まれた男が無理やり攫い、幽閉した。
間もなく身籠ることになった母は、使用人の隙を付いて幽閉されていた塔を抜けだした。
そうして本邸に逃げ込み、生まれた娘。
フランティーヌはそこで生まれ育った。
暫くは平穏が続いていた。
それがフランティーヌ五歳の折、脆くも崩れ去ることとなる。
密かに周到な準備を重ねていた男は、領内の他の分家を買収し本邸へ攻め込んだ。
その際に、情の欠片もなく当時のエルトリア侯爵とその夫人であった祖父母を惨殺。
最後まで抵抗した母を、とうとう切り捨てた。
徹底して秘匿されたエルトリア家の闇は、この時を境にして始まった。
当主の座を奪い取った男は、その時にエルトリア侯爵の名を継いだ。
直系の血を引く娘を、エルトリア侯爵はけして殺さない。
その娘を使い、王宮の掌握を狙う侯爵にとってはけして手放せない駒だったからだ。
時に薬を使い、手足の抵抗を失わせながら。
フランティーヌは十に至るまで自死を繰り返し図り、その度に防がれた。
彼女の心は、既にこの時までに一度ならず幾度も殺されている。
とうとう諦観に至ったフランティーヌは、まるで人形のように日々を過ごした。
父の求めるままに、令嬢としての作法を身につけた。
無表情に、自然な笑顔を張りつける技術がある事を知ったのもこの時だ。
彼女は日々、自分を殺してくれる誰かを探していた。
それが唯一、彼女が心から望んだものだった。
その転機は、十二歳の頃に訪れた。
それは領内の分家の一つ、リーデル家の一人の少年である。
少年は名を、アルトといった。
年の頃は十一。彼女の一つ下だった。
彼とフランティーヌは庭で出会った。
雨上がりで、丁度虹が出ていたのをぼんやりと見上げていた彼女の隣。
いつの間にか彼はいた。
その日は二人で並んで虹を見ただけだ。
翌日から、アルトは私兵の目を盗んで庭へ忍び込んで来るようになった。
人形の様に笑わないフランティーヌに、アルト少年は問うた。
どうして笑わないの、と。
彼女はそのまま答えた。
生きていても、辛いだけだから。
そんな彼女の言葉に、何を思ったか目を輝かせたアルト。
彼は翌日から、私兵だけではなく屋敷内の大人の目を盗んでフランティーヌを連れて歩きまわった。
彼女はその過程で、今まで見れなかったものを見た。
子供の足では、それほど遠くへは行けない。
それでも邸を出る事すら許されていなかったフランティーヌには全てが鮮やかだった。
全てが輝いて見え、邸以外の全てに親しみを抱いた。
フランティーヌはいつしか笑うようになっていた。
それを見て、アルトが嬉しそうに笑うので一緒に笑う事が出来た。
幸せだった。
母も、祖父母も殺された少女はようやくその心を開きかけていた。
優しい日々だった。
それらは全て、彼女にとってかけがえの無いものだった。
全てを終わらせたのは、彼女の父である。
エルトリア侯爵は、彼女の身体の見えない部分を折檻することが多かった。
全ては自分に従わぬためだと言う。
そんな父をフランティーヌは内心で嗤ってさえいた。
その日も、エルトリア侯爵はフランティーヌを片手で張り飛ばした。
勢いよく地面に叩き付けられた彼女の元へ、けして駆け寄ってはいけない足音が響いた。
少年は、身を呈して彼女を背に庇った。
その時、フランティーヌはどんな言葉を使ってでも彼を引き離しておかなければならなかった。
全てが、今はもう間に合わない。
彼女の手を引いて立ち上がらせようとした少年の背に、エルトリア侯爵は慈悲の欠片もなく刃を振り下ろした。
血飛沫が、フランティーヌの顔に掛かった。
驚きに顔を歪めたまま、崩折れた少年の身体を抱きしめて。
フランティーヌは数年ぶりに涙を嗄らして泣いた。
けれどもそれさえも、途中から父に引き摺り戻され儘ならなかった。
彼女は再び、大切なものを奪われた。
父は奪うばかりで、周囲の誰も彼女を助けてはくれない。
助けようとする慈悲深い人々は、父の手で殺されていく。
そうして奪われ続けた少女は、歪んで壊れた。
十五の折、王宮からの召集を受けて後宮へ上がった彼女は再び人形へ戻っていた。
全てを諦め、それでも生かされている自分が苛立たしく。
彼女は周囲を虐げる事で、虚しさを束の間でも忘れる事を覚えた。
周囲の令嬢たちが、疎ましく。
真綿に包まれるようにして育って来た彼女たちが、憎かった。
退屈で、息苦しく、面倒で。
いつか虐げて来た彼女たちが、自分を殺す日が来ないかと想像するばかりの日々。
けれども、彼女たちはいずれも脆弱でそんな望みは持てそうもなかった。
再び諦めを胸に、彼女は終わらない日々を過ごした。
そんな中で、彼女は目にすることになる。
それは、アルトの横顔だ。
思わず立ち上がりかけたフランティーヌの耳に、滑り込んで来た声。
まあ、あんなところに王弟殿下がいらっしゃるわ。と。
フランティーヌ・エルトリアが王弟 シャルル・セストレイに出会ったのは後宮に上がって二月が過ぎた頃の事だった。
彼の猫毛も、色の少しの違いはあれどアルトにそっくりだった。
まるで生きて、そのまま成長した姿。
声質も似ていた。
思わず零れた笑みに、暫くして自嘲したフランティーヌ。
アルトはもう死んだ。
彼女のせいで、あの優しい少年は死んだのだ。
しかし、それからしばしば王弟殿下を見かける機会があったフランティーヌ。
その度に心が軋みながらも、目を離せなかった。
彼が微笑む度に、言い様の無い幸福な気持ちを得られた。
彼が自分に歩み寄って来る時。
そこに嘗てのアルトの面影を重ねて、幸せだった日々を思い出せた。
例え偽りでも、それは彼女にとっての救いだった。
いつしか言葉を交わすようになり、打ち解けて行くのにも時間は掛からなかった。
それはけして恋情では無い。
それだけは分かっていて、それが心地よかった。
いつしか後宮内で唯一、その心を明かすようになっていた。
過去から続く凄惨も。
自分が望む事も。
同時に、フランティーヌは知った。
シャルルはけして自分に心を明かしてはいない事を。
その望みも、口にはしない。
ただ、時折薄暗いものを孕む双眸が誰に向けられているかだけを知っていた。
メリア・オーディス伯令嬢。
彼女ほど、この後宮で片隅という言葉が似合う少女はいない。
基本的に物静かで、穏やかだ。声を荒げる事も無い。
そんな彼女を、狂おしいまでに求める王弟殿下を当初は不思議にさえ思った。
それも、あの日を境に一変した。
グレイス・エルトリア侯爵令嬢は腹違いの妹である。
そんな彼女から持ちかけて来た、ある伯爵令嬢への制裁。
茶会を利用して、彼女を徹底的に辱めるのだと奮起していた彼女。
どこか冷めた目で、それに頷いた自分は茶会に出てひたすらにその様を眺めていた。
人というのは、愚かで醜い。
自分も愚かなのは変わらないが、それでも目にした光景に不快しか覚えなかった。
その、鮮烈な勢いで放たれた扇。
宙を舞って、目標を捉えたそれに思わず目を瞠って辿った先。
彼女が、いた。
メリア・オーディス伯令嬢。
その双眸に凄絶な色を灯して、彼女はその場にいる全員へ告げた。
私はこの場で、後宮を辞します。
普段は柔らかな声を、冴え冴えとしたものに変えて。
その清廉な姿に、嘗て彼女を守った人々が被った。
騒然とした場を、主張した通りに去っていく背。
それを見詰めて、言い様の無い懐かしさを覚えていたフランティーヌ。
しかし、そんな彼女の耳元で他でもない彼が囁いた。
その横顔には身を凍らせるような、仄暗い何かがあった。
「彼女の侍女は、クリスタ・エルトリアだ。………君の望みを果たす為には、けして後宮から彼女を出してはいけないよ」
フランティーヌは、鴉を呼び寄せた。
家から持ち出して来た阿片を、彼女の首筋に打って連れてくるように告げた。
そう、彼女に一縷の殺意も無かった。
鴉は知っていたであろう、致死量。
しかし鴉は、主にそれを確認することはない。
それを彼女は知らず、手渡した。
メリア・オーディス伯令嬢が死んだ事を知らされたフランティーヌは、茫然としていた。
彼女は無知だった。
自分に打たれていた量が、正確に測り取られていた事実も。
まして、その薬剤が阿片では無い他の薬剤であった事も知らなかったのだ。
メリア・オーディス伯令嬢の死を知り、シャルルが自分を復讐の対象として見た事に気付いた時には、全てがこれで終わるのだと思った。
けれども、彼はその日の夜にやって来てこう告げた。
君は、どうしようもなく愚かな事をした。
もはや事は君だけの償いでは済まない。
君の生家、それに関わる全てを滅ぼし尽くす手伝いを君にしてもらう。
それは前から君が望んでいた事でもあるものね。
最後に残った君を、僕が裁いてあげる。
だからそれ以外は、君の手で壊して。
僕は君の願いを、この目で見届ける。
それに彼女が頷き、二人は終わりのその時まで共に歩く事を選択した。
「……そこから先は、貴女も知るとおりよ? オーディス家には心から感謝しているの。彼らの思いの強さが、周囲を巻き込む手腕が、結果的にエルトリアを崩壊させる最短距離を歩ませてくれた。宰相様までもが力を貸したその過程には、まだまだこの国も腐りきってはいない事を認識させられた。………ね、だから後は分かるでしょう?」
クリスタは、その紅い唇が紡ぐ声をこれ以上聞きたくないと思った。
しかし、両手足を縛られている今。
彼女の耳は全てを拾ってしまう。
「グレイスと貴女。そして私。……これでエルトリアの忌まわしい血は絶えるの」
身を伏せたまま、クリスタは思い知らされた。
自分が紛れもなくエルトリアの血を引く娘であることの業の深さ。
そして彼女もまた、同じエルトリアの血を引く娘としてその因果をクリスタよりも遥かに恨み、呪い、足掻いた末に今ここにいる。
どうしてそれを、否定できるだろう。
その事実を前にして、戦意をとうに喪失しているクリスタを見下ろして。
しかしその唇は、尚も容赦なく抉る。
とうとう口にした、その言葉。
それは、クリスタの精神を徹底的に打ちのめした。
「ふふ、貴女言ったわね。……鬼畜共、だったかしら。ねえ。貴女こそ、そうなのではなくて? 貴女は過去に一体何をして来たのかしら? その業を、思い出してちょうだい。その身に引く血の醜さを。ねえ、クリスタ・エルトリア? 貴女が侍女でなかったらメリア・オーディス伯令嬢は殺されずに済んだのではない………?」
身を抉られる、その言葉。
息が、止まる。
見開かれた瞳孔に、絶望を映して。
クリスタは知らされた事実に、手足を縛られたまま慟哭した。
滴り落ちるそれに、ぼやけていく視界。
そう、私が殺した。
きっと茶会の背後を知らなければ、主は行われる凄惨に見切りをつけたりはしなかったろう。
主から、その声を引きだしたのは自分。
そうして死に追いやったのも、自分だ。
クリスタは、その時全てを諦めていた。
そんな彼女の様子を見下ろして、凄惨に嗤うエルトリア侯爵令嬢にもはや掴みかかる意欲も失われていた。
このまま死ぬのだと、そう思った。
ただ主への謝罪のみを、心に何度も呟きながら。
クリスタは、己の業に絶望し切っていた。
その甲高い音と共に。
その懐かしい姿を目にする、その瞬間までは。
クリスタは、その視界に紛れもない彼女を映した。
亜麻色の髪を靡かせ、空色の双眸を怒りに染め上げて。
高笑いを響かせていたエルトリア侯爵令嬢を平手打ちにし、空へ静止したその姿。
未だ嘗て聞いたことが無いほどに低めた声で、打ち据えた相手へ告げる。
その声は身を震わせるほどに美しかった。
「………貴女に、私の侍女を愚弄する資格があると思って………?」
メリア・オーディス伯令嬢はその全身に怒りを立ち上らせたまま、地面へ降り立つ。
そんな彼女の姿を茫然と見詰める二人をもはや視界にも納めず。
歩み寄った先で彼女の侍女へ謝罪する。
「ごめんなさい、クリスタ。………辛い思いを、させたわ」
手足の縄を指先で解き、その拘束から解放した。
茫然と自分を見詰めるその視線に一つ頷いて、その手を差し伸べた。
「メリア様……。どうして」
「ふふ、きっとこれが私に残された最後の余力。怒りは、人を突き動かす最も大きな力の一つだもの。……それは生きていても、死んでいても同じことね」
掌から腕へ、肩へと辿った先で微笑んだ主へ躊躇わずに抱きついたクリスタ。
そんな彼女を支えたまま、生きていてくれて良かったと囁く彼女の主。
ふわふわとした感触は、けして生前のそれでは無いのかもしれない。
それでも、主の姿に再び間見えた彼女にとっては些細なことだった。
「………メリア・オーディス伯令嬢………」
あまりの衝撃に、その名を呼ぶことしかできないエルトリア侯爵令嬢。
彼女を、クリスタを抱いたまま見据えた少女の双眸には生前と変わらぬ清廉が宿る。
「……貴女に、どんな過去があったかは知らない。けれども、貴女が他でもない私の大切な人たちに危害を加えるのであれば、私はそれを黙って見ている気はないのです」
告げられた言葉に、未だ現状を測り切れないらしい。
続く言葉を、呑み込んだままじっとその双眸を見詰めている。
その空気を、全く読めない声が上がったのはその時だった。
「メリア!! まさか君が再び僕の元へ戻って来てくれたなんて……ああ、信じられないよ」
双藍の瞳を輝かせ、駆け寄ろうとする王弟殿下に半ば茫然としたまま瞬く少女。
それもその筈。
彼らは今まで、挨拶程度しか交わした事の無い関係性に過ぎない。
ましてメリア自身は彼が今まで自分に対して抱いてきた妄執を知らないのである。
戸惑いから、自然と足が浮く。
それにつられる様にして、クリスタも空へ舞い上がった。
「………クリスタ、状況が分からないの。出来たら説明をお願いしたいわ」
下で、こちらへ向けて手を伸ばし続ける王弟を見下ろしながら呟いた主の声。
それに頷きながらも、改めて主の非常識さを悟るクリスタ。
しかし、結果としてその説明は儘ならない状況へと一変する。
上空を見上げ、不意に微笑みを零したエルトリア侯爵令嬢。
彼女は令嬢とは思えないほど高らかに、その声を届ける。
何処かその双眸には、眩しいものを見上げる色があった。
「メリア・オーディス伯令嬢。これがせめてもの私からの償いです。受け取って下さいませ」
風に乗って、その声が届いたのと同時に。
おそらく初めから、その為の仕掛けは張り巡らせていたのだろう。
エルトリア侯爵令嬢がその手から放った、小さな灯火。
それは風に吹かれて渦を巻き、瞬く間に中庭は炎に包まれていった。
紅蓮に焼かれ、ふわりふわりとその花弁を地に落としていく白い芥子の群れ。
その中で最期に微笑した彼女が、何を思ったのか。
それは、きっと彼女にしか分からない。
風の勢いは、炎を後押しする。
その結果、数刻と立たずに月の宮は炎を上げて燃え盛った。
その炎の勢いに、これ以上は浮遊し続けるのも難しいと判断した少女。
安全な地点を求めて視線を巡らせている間に、ふと下からの悲痛な声が届く。
それは、王弟殿下の声だ。
ああ、逃げ遅れたのだと思わず降下しかけるも。
二つの制止の手が掛かる。
一つは炎の勢い。
もう一つは、クリスタがその両腕でその動きを阻んだのである。
「………クリスタ? 」
「……聞いて下さい。メリア様、貴女を死に追いやったのは王弟殿下その人です」
侍女の言葉へ、目を瞠った少女。
その間にも炎の勢いは止むどころか、周辺一帯を巻き込んで炎上を続けている。
下からの熱風と、悲鳴。
一時それに瞑目した少女は、次に目を開けた時に覚悟を決めていたのだろう。
「クリスタ、愚かな主と笑って頂戴ね」
ふわり、と炎の及ばない地点まで舞い降りて行った少女。
足もとが地面に付く位の場所まで下降して、侍女の手を離す。
首を振るクリスタへ、大丈夫よ。
そう、囁いて。
再び舞い上がった彼女が、炎の中へ包まれていくのを見てクリスタは絶叫した。
「っ、 ―――――メリア様!!!」
ふわり、ふわりと焼け焦げた布地が赤に染まった空を覆い尽くす様に舞っている。
その中で、号泣していた彼女の元へ複数の足音が駆け付けた。
「クリスタ・エルトリア!! 無事か?!」
駆けつけてきたのは、宰相を含むオーディス家の面々である。
その後方からは、後宮をひたすらに走り回らされた宰相補佐の姿もあった。
呼ばれた声に振り返り、彼女は目の前の人物へ縋りついた。
「宰相様!! 主が………炎の中に、王弟を、見捨てられないと……!!」
その言葉に瞠目した宰相が、思わず炎の中へ駆け出そうとするのを後方から必死に留める宰相補佐。
「ちょ、駄目ですって!! 死にますよ?!」
「離せ、フォルテ!! これは上官からの命令だ!!」
「……勘弁して下さいよ。どの世界に上官を見殺しにする命令があるんですか?!」
宰相と宰相補佐の二人が上のやり取りをしている間にも、泣き崩れる侍女に駆け寄ったのはオーディス伯夫妻である。
「メリアは、あの炎の中へ王弟を助けに行ったと………?」
オーディス伯の言葉に、クリスタは必死に涙を抑えながら謝罪を繰り返す。
その彼女を、後から駆け寄ったエレナが寄り添うようにして支えた。
「………私が、メリア様を止められなかった為に……っ、申し訳ありません……!!」
「貴女から、あの子へ王弟の事は……?」
オーディス夫人の静かな問い掛けに、クリスタは無言で首を縦に振る。
それは肯定の証。
顔を見合わせた夫妻と、その長女は視界の端に炎へ飛び込もうとする長兄の姿を捉えていた。
慌てて、近くにいた叔父がそれを引き戻そうとするも僅かに間に合わない。
空を裂くような、エレナの悲痛な声。
兄を止めるその声にも、振り返ることなく進もうとした長兄を。
留めたのは、やはりここでも彼女だった。
悲痛な声に、応えるように。
炎がふわりと揺れた直後。
真白の片腕を伸ばして駆け寄るのは、懐かしい面影。
炎の中から、ディルを引き摺り出したのは亜麻色の髪の少女。
炎の赤と混じり合い、薄紫にも見える双眸を困った様に細めながら。
彼の妹が、そこにいた。
「ディル兄さま? 普段は冷静を装っていますけれど、いざという時に直情的なところはお父さま譲りですわね……?」
その声が。
その姿が。
あまりのことに、茫然として声もない兄を見て微笑みながらも。
少女は徐に、もう片腕に引き摺って来た人物を火の気の届かない平地へ横たえた。
それは身体の所々に火傷を負った、王弟 シャルル・セストレイである。
今は意識を失っているが、その胸は確かに呼吸していた。
そんな彼の姿を目にした家族たちの目に、隠しきれない憎悪を見て取った少女。
あえて背後に庇いながら、首を振る。
その目にはただ憂いだけがあった。
「……話は聞きました。きっと彼が私を後宮から出すことを望まなかった故に、私は死ぬこととなったのですね? 」
「………そうだよ、メリア。その鬼畜が己が欲望の為、君の命を奪った。何故、それを庇う必要があるんだ。知りながら………どうして、その命を助けた?!」
ディルの血を吐く様な問い掛けに、真っ直ぐにその兄を見据えた妹が告げる。
「兄さま。今、兄さまの目から見える私はどんなふうに映っているのでしょう?」
その何時になく冴え冴えと低められた声に、ディルはここでようやく気付いた。
妹が、メリアが……怒りを湛えていることに。
その冷然とした光は、彼女自身の背後に向けられていると同時に他でもない。
メリアは自身に向けて、今まで見た事が無いほどに怒りを抱いている。
それが意味するところに気付いた兄は、何も言えずに立ち竦む。
そんな兄の表情を見て、僅かに怒りを抑えた少女。
彼女が今、自分に出来る全てを掛けて。
淡々と言い紡ぐその声に、普段の柔らかさは尽く削り落とされている。
「私は、私の非で自らの命を落としました。例えそこに悪意があったとしても、芽生えていたそれを見落としたのです。確かに断罪は出来ましょう。けれども全てが間に合わない今、私がどれほどに恨みを抱き、彼の命を奪ったところで………見殺しにしたところでこの思いが晴れる時は訪れない。
彼が死ねば、私は生き直すことが叶うのですか?
いいえ。そんなことは起こり得ない。
私は確かにこの命を、既に落としたのです。
それは、私自身がこの命を守ることが叶わなかった結果に過ぎない。
一人で守れないと気付いたなら、助けを求める事も出来た。
それに気付くことさえ出来なかった。
全ては私の過信が招いた結果です。
私は恨みの根に、なりたくないのです。
愛する人たちが私を想う時、それに禍根を残して逝くことは耐えられない。
もし、私がこうして戻ったことに何か意味があるのなら。
お願い。
私の死に、どうか安らぎを持たせて。
償いに、命はいらない。
私の死が、家族を壊すことになるのなら。
私は死んでも死にきれない。
どうか、許して。
もう、取り戻すことが出来ないものにもし、を引き摺り続けたら。
きっといずれは歪んでしまう。
私は、私を幸福にしてくれた愛すべき人たちに幸福でいて欲しい。
それが、私の願い。
お願いです、兄さま。
我儘だと、分かっています。けれど、どうか私を……」
最期まで言い終えず、兄が妹をその腕に掻き抱く。
ごめん、メリア。
そう呟く兄に、首を横に振りながらようやく張り詰めていた表情を緩めて微笑む。
ありがとう、兄さま。
囁いてその胸に顔を埋めた。
二人の元へ、駆け寄った家族。
包むようにして、幾重にも重ねられた家族の輪。
少女を二度と抱きしめる事すら叶わないと、そう思い続けて来た家族。
父と母の、姉の、弟の、双子たちの、そして末の妹の温もり。
じんわりと伝わってきたそれに、幸せそうに笑う。
奪われた筈のものが、一時だけ還された瞬間だった。
燃え盛る月の宮の炎は、後宮全体を包み込んでいく。
それを背景に、一つの家族が微笑みを交わしている。
彼らの事情を知らないものが見れば、それは不可解な光景だっただろう。
けれども今ここに、彼らの事情を知らぬものはいないのだ。
ようやく揃ったオーディス一家に、歩み寄っていく彼ら。
その内の一人に目を留めた少女は、母と同じ目の色をした老侯爵へ微笑んだ。
「……母さま、無事に和解出来たのですね?」
一目で、その人が祖父である事を感じ取った少女。
そんな彼女へ、穏やかで優しい眼差しが向けられた。
「……そなたが、メリア・オーディス令嬢か? ああ、やはり良い目をしておった。わしは良い孫娘を持ったのだな。………せめて、こうして一目会えたことが何よりの救いだ」
「………おじい様。お会いできたのが死後で残念な思いは隠せませんわ。……けれども、これから先を。母も含めて家族の事を私の分まで見守って頂けるなら、これ以上嬉しいことはありません。……どうか、宜しくお願い致します」
「………今ここで、孫娘へ誓おう。今後はリーベンブルグ侯爵の名に掛けて、オーディス家夫妻とその子供たちを支えていく。道半ばで命を断たれたそなたの思いを、無駄にはしない」
その眦を涙に濡らし、孫娘へ宣誓した祖父の姿へ曇りの無い笑顔を向けた少女。
そこへもう一人、手を差し伸べた人物がいる。
「メリア、久しぶりだな」
「叔父様、お久しぶりです。……最期にお会いできて、とても嬉しく思いますわ」
家族に囲まれながら、懐かしさに顔を綻ばせた少女は差し出した手を取って軽く膝を折る。
その仕草も、生前と変わらぬ姿に切なさに似た感覚を覚える叔父。
目を細め、徐に口火を切る。
家族の代わりに今までに彼らが動き、そうして得た成果についてである。
エルトリア家が長きにわたって隠蔽し続けた、阿片生産の摘発に長兄と次男の二人が成功したことから、エルトリアの粛清への道が開けた。
今日中に、王宮監査へ提出した証拠書類を元にエルトリア侯爵は領地の返還および除名、違法栽培による罪状を受けることとなる。
事実上、エルトリア侯爵家の血筋は絶えることとなる。
また、祖父であるリーベンブルグ候と共にオーディス夫妻が周辺領へ働きかけ、エルトリア領家が喪われた後も領民たちが行き場を失くさない様に協力を取り付けている経緯も含めて語った。
そして叔父は、じっと耳を傾ける姪に最後に告げた。
「出来る事ならば、叔父として君の命を守りたかった。……それはおそらく、ここにいる全員が感じている事だ。君を喪い、家族は等しく傷を負った。長くは、癒えないだろう。それでも君がこうして一時であっても戻ってくれたことで、どれほどの人間が救われたかを君には知って欲しいと思う。………君は悪くない。呆れるほどに、優しく聡明だ。
全員に代わって、改めて告げよう。
守れなくて、済まない。君を愛している。
これから先も、君はオーディス家の一員として長く語り継がれる。誰も君を忘れはしないだろう。
君が救い、これから先の未来がある。ありがとう」
叔父の言葉に、瞠っていた少女の空色の目から涙が溢れた。
ほろほろと、堪え切れずに落ちていくそれをやがて微笑みに変えて。
夕暮れを背に、彼女は家族一人一人へ告げた。
「父さま、私の為に怒ってくれてありがとう。衛兵に罪はないと思いますが、その姿を見て娘は初めて自分の死に涙を流す事が出来ました。あなたの娘で良かった。今は心の底からそう思う事が出来ます。後宮行きに最後まで反対してくれたのも、父さまでしたね。今は、あの時の優しさに甘えておけば良かったのかとも思います。………賢くて自慢の父さま、どうか私がいなくなった後も家族を守って下さいね。
娘の言葉に、父エルダー・オーディスは溢れる涙を止める事もなく小さく頷いた。
それを見つめて父の隣にいる母へと微笑む。
母さま、私の為に駆け回って下さったことに感謝しています。おじい様とも仲直りして下さって、とても嬉しかったですわ。母さまはよく私の生来の不運を心配しておられましたが、今回の事を避けられなかった娘をどうか許して下さい。母さまには生前数え切れないほどの心配をさせてしまいました。母不幸な娘で、申し訳なかったと思いますの。けれど、母さま? 私は確かに星廻りには恵まれなかったかも知れません。けれども家族や知人には恵まれました。今はそれが何よりの宝物。………優しくて、大らかな母さま。私を生んで下さったことに感謝申し上げます。貴女の娘として生まれて、私はとても幸福でした。
どうか、これから生まれてくるオーディス家の新しい家族の為に身体を大切になさってください。
母、ミルドレッド・オーディスはしっかりと娘を抱き寄せて込み上げる嗚咽を堪えていた。
優しい娘。かけがえの無いただ一人の娘。
娘が紡ぐ言葉の一つ一つが、母である彼女を柔らかく包んでいく。
あの日、喪った筈の娘がこうして再び家族の元へ降り立った奇跡。
そして今日、再び別れの時はやって来た。
引きとめてはいけない。なによりも娘の為に。
幾度も言い聞かせ、涙を拭った。
見詰める娘に、母として向けられる最後の顔。
微笑む母に、娘が嬉しそうに笑う。
そんな娘の顔を見て、母もまた笑った。
両親に見守られつつ、兄弟姉妹の元へくるりと回って見せた少女。
長兄のディルが、それを眩しそうに見つめる。
ディル兄さま? 兄さまは下手に何でもこなせてしまうので、私はとても心配ですわ。無理はほどほどになさって、適度に休息を取って下さいね。本当は私もう少し傍で見ていられれば良かったですけれども、今はもう叶いません。ですから、今後の体調管理は兄さまご自身が気を付けていかないといけません。勿論、辛い時は辛いとはっきり周りに伝えるべきですわ。………優しい兄さま? 実は不器用なことを、貴女の妹は知っています。どうか、私よりもずっとずっと生きてこの先多くの事を見て来て下さいね。
君には、本当に適わないよ。
そう言って笑う兄が、ほんの少し辛そうに顔を歪めるのを見上げながら。
再び抱きしめる腕の強さに、身を任せた。
優しさから、感化されやすい兄。
どうかこの先、なるべく辛い思いをせずに生きていかれますように。
そう願いながら頬を埋める妹。
ようやく兄の腕から解放された後、すぐ傍にいた姉を見上げる。
エレナ姉さま、私の為に泣いてくれてありがとう。ただ、紙の上で泣くのは今後も止めた方がいいと思いますの。……幼い頃から、姉さまはずっと私を助けて下さいました。姉さまには幸福になってもらいたいのです。だから、後宮へ行く事を決意しましたが……こんなことになってしまい、姉さまがご自分を責められていないかが心配です。今回の事は私の不徳の致すところですの。ですから、姉さまがそんな顔をされるのはお門違いなのです。………泣き虫で、誰よりも優しい姉さま? どうか、私の分まで幸福な生涯を送って下さい。
辛うじて涙を堪えていた姉が、とうとう泣きだした。
それを見詰めて、寧ろ安堵している周囲を見渡しながら。
口を開けば喧嘩ばかりだった、すぐ下のミスティと目が合った。
ミスティ? 生前は口煩い姉として煙たがられていたことは分かっているわ。けれども、私はあなたを弟に持てて幸運だったと思うの。ふふ、……一見して粗野にも見えるけど、本当は家で一番冷静なあなたにきっと今までもこれからも家族は守られていくと信じているわ。苦労人で、優しくて、そっけなくて、でも暖かい私の弟。この先もずっとあなたを愛しているわ。
沢山喧嘩もしたわね。………でも、いつも許してくれたのはあなたの方。
今までありがとう、ミスティ。大好きよ。
俯いていた弟の目に、滲む何かを見つけたと思ったその時には。
すでにその腕に包まれている。
いつの間にかどんどん成長していく弟。
その逞しさにふふ、と笑み零すと抱きしめながらそっぽを向く弟の横顔。
その耳の赤さが微笑ましい。
姉さま、姉さま、と。
二人分の懐かしい声の重なりに視線を向けた先には双子たち。
そして珍しいことに、普段は冷静なクリスの方が泣きそうな顔になっていた。
まぁ、クリスが先に泣きそうになるなんて。珍しいわね、ロイズ? ……ふふ、そうね。本当はロイズの方が兄に当たるのだもの。時々忘れそうになるけれど、ちゃんと覚えているわ。私はあなた達の姉だもの。二人が生まれた日は、本当に家の中が沸き立ったものよ。天使が二人舞い降りた様な騒ぎだったわ。……からかっていないわ。本当よ? あの日からずっと、あなた達二人がいる事で家の中が賑やかで楽しかったわ。だから、後宮の静けさが本当に寂しかったの。あの家に二人がいてくれることで、今後もきっと皆が救われる。だから、お願いね。ロイズ、クリス。二つ分の太陽として、明るくオーディス家を照らし続けてね?
両方の腕へ、縋りつく重さは同じ双子でも微妙に差がある。
ほんの少し上背が勝るロイズへ、軽くデコピンを送る。
今回は教育的指導では無く、今後の健闘を祈って。
………やっぱり痛い。
そう呟いたロイズ。けれども彼が続けていった言葉に、思わず言葉が詰まった。
でも、痛くても本当はずっと一緒がいい。
姉さまと、ずっとこれから先も一緒にいたい。
クリスと言葉を重ね、涙を零す。
そんな弟たちを両方の腕で抱きしめて、ごめんね。そう囁いた。
そんな三つの輪の中へ、ひょっこりと顔を覗かせるのは末のカタリナ。
涙を止められない双子たちを、いつの間にか傍にいたディルとミスティが肩を抱いて慰めている。両親と姉に囲まれながら、その中心で末の妹へ語りかけた。
カタリナ? 可愛い私の妹。辛い思いを沢山させてしまったね。……姉として、貴女の成長を見守ってあげられないことを謝らせて。本当に、ごめんなさい。……うん、私も本当はずっと貴女が大人になるまで見守ってあげたかった。けれど、私は死んでしまったの。皆の傍にずっといる事はもう出来ないわ。だからね、カタリナ? 貴女の姉から一つお願いがあるの」
姉からの、最期の願い。
カタリナは、その丸い目を涙で一杯にしながらも大きく頷いた。
その願いをカタリナは生涯守りぬいていくこととなる。
家族一人一人に別れを告げ、その家族全員に見守られながら最後に向かい合った人。
その双眸にあの日からずっと自分を映してくれている人の元へ歩み寄り、正式な礼をとったメリア・オーディス伯令嬢はまず謝罪した。
「約束を、守れなくて申し訳ありませんでした」
「君を責めようとは思っていない。………どうか顔を上げてくれ。君が動いていなければ、君の侍女は助からなかっただろう。私こそ、力が及ばなかった事を詫びるべきだ」
初めてその姿を見た時、その表層だけで冷たそうな人だと感じていた私。
今思い出しても、本当に何も見えてはいなかったのだと改めて思います。
その誠実な人柄に今はただ、涙を堪えるので精一杯ですもの。
真摯な目に、気を抜いたら吸いこまれてしまいそうです。
やっぱり、何度でも思います。
この方は、私にとっての毒ですわ。
「宰相様、貴方のお陰で私の大切な家族たちは守られました。私自身にはお返し出来る時間も何も残されてはおりませんけれど……せめて感謝の気持ちだけでも受け取って頂けたら幸いです」
そう言って再び膝を付こうとした私へ、伸びてきた影。
振り仰いだところで、ふわりと包み込まれたその温もりに自分自身でも真っ赤になっているのが分かります。
幽霊が真っ赤………。
大惨事ですわ。
けれども、どれくらい足掻いても放してはくれない腕に思わず周囲を仰げば。
後悔いたしました、私。
生温かい双眸など、望んではいないのですわ。
だからといって、殺気混じりの父さまと兄さまの視線もどうかと思いますの。
い、居た堪れないのですわ……。
もう消えてしまいたい。
あら、消えられるのではなくて私?
そうですわ。飛べるのですから、消える事くらい出来るのでは?
混乱する私は、気付いていませんでした。
いつの間にか意図的に距離が開けられていた事も。
耳元で囁かれた後に、額に落ちて来た温もりの意味も。
「君に、私は望もう。………どうか、その心を私に残していってくれ。いずれまた君と相見えるその時まで、その誓いを胸に私は生きよう」
その温もりに。
その囁きに。
私の思考回路は、ほぼ真っ白になっていたといって過言ではありませんでした。
けれど。
私に返せる言葉は、もう一つしか残っていなかったのです。
心はもう、とうに彼の人のものであったのですから。
ただ、それを言葉にして紡ぐ前に。
その銀色の軌跡を捉えていた私は。
不思議ですね、僅かの躊躇いもなく動けていましたの。
そんな私自身を、ほんの少しだけ誇らしくも思うのです。
双藍の瞳が、驚愕と悲痛に彩られたその瞬間。
宰相様へ向けられていた刃は、一直線に向かっていました。
だから、私はただそれを正面から受け止めるだけで十分だったのです。
もう、痛まない筈の腹部からさらさらと零れ落ちていく何かを感じます。
刃をその手で掴んで、彼の手から抜き取った後には。
駆け付けた叔父と祖父が、彼の両手首を手近にあった紐で捕縛するところまでが、見えました。
それを見届けて、ようやく肩の荷が下りた気がしますの。
ああ、ようやく終わったのだと私にはわかりました。
そこまで確認して、意識がほんの少し霞んできたのが分かります。
抱きしめてくれる腕の温もりが、あまりに確かで。
それが、私にもう少しだけ力をくれます。
宰相様の腕に包まれながら、振り絞って告げる答。
それは、私の心そのもの。
「………貴方を、死なせない。その為に私はこうして舞い戻ったのかもしれません………」
微笑めば、泣きそうな顔が並んでいます。
お願い、そんな悲しそうな顔をしないで。
父さま、母さま、兄さま、姉さま、ミスティ、クリス、ロイズ、カタリナ。
おじい様、叔父様。
今までありがとう。
私は、満足ですわ。
家族を守れたばかりか、大切な人に向けられる白刃を尽く防ぎ切りましたもの。
私にしては上出来です。
そう、思いませんか?
家族に、別れを告げる事も叶いました。
家族が、その手を血に染める惨事も防ぎました。
泣かせてしまうことの方が多かったですけれど、少しでも救いになったと。
私はそう感じておりますの。
だから、私ほど幸福な死者はいません。
愛おしい家族たちに見送られて、今度こそ穏やかに目を閉じる事が出来るのですから。
この最期の時まで、共に歩む事が出来た数日間。
与えられたこの時は、私の愛する人たちを守るための時間だったのです。
この先、私は傍にいて守ることはもう出来ません。
けれども、もう私の助力は必要ないのですわ。
きっとこれから先、彼らに幸福な未来が待っている事を私は信じて疑いません。
加えて。
生涯を終えてから、正真正銘最初で最後の恋も果たして。
私には、勿体ない程の素敵な方と想いを交わして。
これ以上、何を望む事があるでしょう。
貴方の命を救えて、本当に良かった。
だから、お願いです。
その涙を掬えない私を許して下さいね。
彼女の迎えた終着に、作者を恨む読者の方々がいるのなら。
きっと、彼女は誰よりも幸福な主人公であったと思えます。
最後まで、悩みました。
それでも、書きました。
優しい結末を願ってくれた方々へ、救いになるかは分かりませんが。
もう一話、ご用意致しました。
これがせめても、彼女の救いであればと書き綴っております。
これを最後にお届けして、彼女の物語の終わりを補完したいと思います。
宜しければ、最後までお付き合いください。