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疑惑 (せつない話 5)

作者: 山中幸盛

 私は山中幸盛の長男で高校一年の進之助と申します。ここのところ父の帰宅時間が遅いので、その件について少し話をしたいと思います。

 四年ほど前に母がクモ膜下出血で倒れるまでの父は、仕事が終わればさっさと帰宅する愛妻家で子煩悩な男でした。母が入院している約一年半の間は毎日私や弟たちを連れて病院通いをしましたし、母が退院してからも一年半ほどはキチッと夕方六時頃に帰って来て家事を済ませ、一番下の弟と一緒に風呂に入るのが日課になっていました。ところが、父親にベッタリくっ着いて離れなかったその弟が四歳、五歳と成長して父親離れが進んだことが最大の原因だと思いますが、現在の父は家で食事することはほとんどありません。帰宅時間は早くて九時頃、遅い日は十時を回っています。

 しかも、これは一時期に比べると早くなった方で、つい三カ月前までは、十二時を回ることもしばしば、十一時過ぎは当たり前で、十時前に帰った際は私のすぐ下の弟から「あれっ、お父さん、もう帰ったの」と、驚きの声が上がるくらいでした。そんな時期が半年以上も続いていたのです。

 これでは、周囲から『女ができたにちがいない』と勘ぐられても致し方ないことで、私のガールフレンドにこのことを話したときも「仕方ないんじゃない、逃げ出したくなる気持ちも分かってあげなさいよ」とむしろ父に同情的でした。たしかに、母は脳に障害をきたしていますし、身体も、おそらく父を満足させられない状態かと思います。四十を過ぎたばかりの父にとって射精時の快感は忘れ難いものでしょうし、精神面でも高度な会話ができる伴侶を求めてもやむを得ない気がします。母も母なりに疑っているみたいですが、言語障害でことばが滑らかに発せないということはあるにしても、心身両面で父に応えることができない自分に負い目を抱いているのか、一切咎めようとは致しません。

 帰宅時刻が遅くなった理由を父が言い訳するには、八時まで図書館にいて、そのあと喫茶店などで本を読んだり書き物をしたりしている、ということになっています。一般のご家庭なら「そんなこと嘘に決まっとるがね」となるところですが、父は若い頃から小説を書いていて自費で出版したこともあるくらいですし、家では時間が許す限りワープロに向かっているものですから、そんなこともあるかもしれんと信じている側面もありました。しかし、外食の費用はばかにならないし、実際に、母が病気する数年前には、家で夕食を摂ってから小説を書くために父の実家まで通った一時期があったのです。図書館や喫茶店なんかより、自転車で十分で行ける静かで広い祖父の家の二階の方がよほど効率的なのです。

 いつしか独りで風呂に入るようになって手際よく自分の身体と頭を洗えるようになった六歳の弟は「お父さんは図書館でお勉強してくるからね」との父の言葉を鵜呑するしかなく、ある朝、出勤しようとする父に無邪気に尋ねました。

「今日も図書館に行ってくるの?」

 父はほほ笑んで、「うん」と応えただけで出て行きました。

 その日の夜、父が帰宅する前のことです。私は食事しながら部活のことなどを母に話しかけていて、ふと、この日が月曜日ということに気付き「図書館は休館日のはずなんだけどね」と口に出してしまったのです。さあ大変、この耳寄り情報を横でテレビを見ていた弟が聞き逃すはずがありません。しかもまた間が悪いことに、父はこの日、たまたまその弟が起きている時刻に帰宅してきたのです。弟は父の顔を見たとたん父に尋ねました。

「図書館に行ってきたの?」

 私は自分の弟ながら『ませたガキだな』とあきれ果ててしまいました。六歳のガキなら「月曜日は図書館は休みなのにどこでお勉強してきたの?」とでも聞きたくなるのが年相応ではないでしょうか。この歳でカマをかけるのですから末恐ろしいったらありゃしない。しかし、このマセガキの製造元である父はそれには乗ってきませんでした。

「どこの図書館も月曜日は休みだよ」

と、平然と言ってのけたのです。そしてすかさず「まだ起きていたのか、早く寝なさい」と逆襲しました。攻撃は最大の防御とはよく言ったもので、さすがの弟もそれで簡単にごまかされてしまいました。

 私も母も中学三年と小学五年の弟も、このことは決して追及致しません。一番下の弟ですら「たまには一緒にお風呂に入ってよー」と甘えてしかるべきなのに致しません。仮に父を追求してもシラを切るだけでしょうし、安っぽい感情論でプレッシャーを与えたりすれば、父は開き直るしか他に手だてがなくなってしまうからです。

 見ざる聞かざる言わざる、疑わざる。騙されたふりは賢者の兵法というもので、ともかくも、父は三カ月前からそれまでよりはいくぶん早く帰ってくるようになりました。

『図書館通いと喫茶店での執筆』がいつまで続くか予想もつきませんが、私は願っています。父は、結局は父の熱く膨張した不如意棒を包み込み鎮めてくれる女性を求めているだけで、決して、身体障害者の妻と四人の子どもを捨ててまで、そうするだけの値打ちある女性がこの地球上に存在すると夢想して探し回るほどの愚か者ではないことを。



* 文芸同人誌「北斗」第563号(平成21年12月号)に掲載 

*「妻は宇宙人」/ウェブリブログ  http://12393912.at.webry.info/   



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