第二十二章:彼の切り札【黒毛和牛】苦しいときの神頼み
その頃、三人のミノタウロスの一人――黒毛のレアンドロスは、一人で開けた場所で荷物を広げていた。
「これが無粋な喧嘩の最中などでなければ、ここで数年ほど研究したいものだがね」
そう呟きながら、彼は背負い袋の中から香油の入った瓶と、パピルスと呼ばれる薄い紙でできた巻物を取り出す。
「それにしても、我が同輩たちが……この地の価値を全く理解していないとは嘆かわしい」
彼以外でこの場所の異常性を正しく認識しているとしたら、それは長であるグラウコスぐらいであろう。
言葉こそけなしているようだが、その実彼は自らの一族を深く愛していた。
自分が異端である事は百も承知の上で、その異端を受け入れてくれたばかりか、その特性を生かした役目まで与えてくれた心の広い一族である。
そんな彼らのためにも、彼は自らの体を張ってでも成し遂げなくてはならない事があった。
「まぁ、試練が終わった後で無事に島の占有権がもらえたら、いくらでもできることか」
彼がここまでこの場所を気に入っている理由……それは、この地に満ちるポセイドンの祝福のせいであった。
元々ポセイドンの眷属であるミノタロウスたちにって、この地はまさに理想郷。
ただいるだけでその身体能力は数倍に膨れ上がり、むろんその恩恵には魔術の上昇も含まれている。
……ただし、この島の住人として認められればの話ではあるのだが。
だが、彼がこの島にこだわる理由はそれだけでは無い。
彼がこの地を異常と判断する最大の理由――それは、この地に流れる力の安定感であった。
本来、大自然を流れるエネルギーは人の手で干渉できるようには造られておらず、世界が閉じているためにマクロな視点で見れば完全であるような錯覚を覚えるが、ミクロな視点で捉えれば穴だらけである事が多いのだ。
おそらく神の視点で見ればそれで十分なのであるが、人の視点から見れば欠陥だらけと言う事も多いのである。
それがどうだろうか?
この地に流れる大地のエネルギーの経路は、まるで極上の絨毯のように繊細で美しく、その存在を幻視するだけでうっとりとして溜息が出そうになる。
その辺に転がっている石の中にさえ、その精密な刺繍を思わせる術式が見て取れるのだ。
しかも、ある程度の法則性はあるものの、一つとして同じものは存在しない。
まるで、この島自体が大規模な魔術で作り上げられたかのような……
いやいや、いくら神々であっても、それは無茶というものだろう。
この世界の創造主であるアメノミナカヌシ様でも無い限りは……
自らの思いつきが実は真実であるともしらず、レアンドロスは溜息をつく。
「それにしても、なんと複雑な術式だろうか。 主な力の構成が、2と5と8である事はわかっているんだが……惜しい! あまりにも惜しい!! この力を理解して使いこなせればどれほどの新しい理論が確立でききることか!」
驚くべき事に、彼はこの島を形成する"要素"を正しく見極めていた。
これはこの世界で一流と呼ばれる魔術師達はおろか、中級の奉仕者たちですら把握するのに数年はかかるであろう難題である。
ましてや、術者は頭に"超"が五つも六つもつきそうな大魔術師こと、ミノルとその周囲の人間たち。
そうでなくとも、使われている術式はレアンドロスにとって全く馴染みの無い道教や風水の理論をベースにしており、オリンポスの神々の力でそれを再現したもの……と言うきわめて変則的な代物であるため、解析の難易度は半端ではない。
「まぁ、いい。 全てがこの試練が終わってからのことだ」
そう呟くと、レアンドロスは手にした小石を恭しく頭上にいだき、祈りの言葉を紡ぎだした。
「この地を統べし偉大なる方、海神ポセイドンの依代にして、全てを創り全てを破壊する大いなる理、奉仕者にして神たる御身に願いあげる」
己の意識が石の中に入り込むイメージを脳裏に強く描き、全ての固定概念を捨てて在りしものをそのまま受け入れることを自らに命ずる。
目を閉じた暗闇の中に、闇よりもなお暗き黒が湧き上がる。
――これが、この島を根底から支えている力?
気がつけば、周囲は闇色で出来た木造の神殿のような場所になっていた。
漆黒の木材で出来た床や壁は、闇の恐ろしさではなく夜の安息を見るものに与え、紙を張り合わせた格子窓の向こうには緑鮮やかな庭園が広がっている。
美しい景色だ……これがこの神の住む本来の世界の景色なのか?
これはミノルが普段この世界の住人と交渉の場において用いている緩衝領域なのだが、レアンドロスがそんなことを知るはずも無かった。
『なぜ俺に祈る?』
突如として頭の中に響いた低い声に、レアンドロスは一瞬気を失いそうになった。
予想はしていたが、なんという威圧感……
相手の顔を確認するよりも先に、体が勝手に跪く。
「神よ、我々は貴方の敵ではない。 我らはただ、恩恵を受けたいだけなのだ」
その場に跪き、額を地面にこすりつけるようにしながら、レアンドロスはその石の中に含まれていた神性……ミノルの意識に自らの窮状を訴えた。
「貴方の庇護下にある雄牛を倒さねば、我らはこの地に住む事が出来ない。 だが、この試練を成し遂げたとしても貴方の不興を買うというならば、我らはどうすればよいのか!?」
その懇願に、目の前の存在はやや困惑したような気配を漂わせる。
『……俺には関係の無い話だ』
だが、その声に突き放すような響きは無く、むしろ幼子に纏わりつかれて途方にくれたときのような響きがあった。
――やはり、この神は優しき神であったか。
レアンドロスの策、それはミノルの加護を取り付けること。
昨日のやり取りを聞いた彼は、ミノルの性格の一旦をすでに見抜いていた。
そう――縋られると弱い。
これが本当に荒々しい神であるならば、長であるグラウコスは今頃灰になっていることだろう。
「ならば、貴方は、我らがこの試練に敗れ、当ても無く海を彷徨った挙句に滅びればよいとお考えなのか!?」
『いや……死ねとまで言うつもりは無いが、こちらも大事な雄牛を殺されては困るのだ』
相手の反応をよい兆候と捕らえたレアンドロスは、一気に台詞を畳み掛ける。
とは言っても、レアンドロスにミノルを騙す意図は欠片もない。
訴える言葉に嘘は無く、演技などまったく含まれていなかった。
それもそのはず……彼らは本当に困窮していたのである。
今も、その境遇を思い出すだけで、レアンドロスは恥も外聞も無く泣ける自信があるぐらいだ。
「そもそも、この勝負は平等ではないでしょう。 貴方の遣わした御使いは、あまりにも強すぎる! ついでに我々を取るに足らない存在として見下し、やる気の欠片も見られないと言うのに……そんな輩に敗れ、滅びるのでは、死んでも死に切れませぬ!!」
訴えかけるうちに感極まったのか、レアンドロスの両目からは涙がポタポタと流れ落ちていた。
「どうか、我等ご加護を! 貴方が神であるというならば、我等になにとぞ救いを!!」
切々と訴えるレアンドロスを前に、目の前の強大な存在は何か考え込むような唸り声を上げ始めた。
これで言うべき事は伝え終わった。
あとは、この神がどう判断を下すかだ。
『……救いは与えよう』
待ち焦がれた台詞が返ってきたのは、それからずいぶん経ってからのこと。
その苦渋に満ちた声に、レアンドロスは心の中で踊りだし、感謝の言葉を何度も叫んだ。
『ただし、条件がある』
だが、神の言葉はそれで終わらなかった。
「条件とは?」
『やはり、アネル……俺の牛を殺す事は認可できん。 もし、お前の同胞が俺の牛を殺そうとしたら、妨害せよ。 お前は俺の側に立ってもらう』
その言葉に含まれる矛盾に、レアンドロスの背中に冷たいモノが流れる。
「ですが、それでは我々が滅んでしまいます!」
まさか、この神は自分だけを助けるというのか?
ダメだ! それでは意味が無い!!
『案ずるな。 抜け道は色々とある。 お前達ミノタロウスを見捨てる事はしないと約束しよう』
焦るレアンドロスに、神は笑いを含んだ声で応える。
『さて、俺の加護がほしいと言ったな?』
「……はい!」
返事を返すレアンドロスの頭上に、大きくてゴツゴツした掌が押し当てられた。
『よかろう。 僅かばかりではあるが、くれてやる。 一方的な殺戮では見ているほうもつまらないだろうしな』
その掌からとんでもない量の力がレアンドロスの中に流れ込む。
「……うぐっ!?」
そのあまりの量に意識が飛びそうになるが、どうやらかなり手加減してくれているらしく、意識が飛ぶ寸前でその圧力が緩和された。
『ほれ、この加護をお前の魔術で仲間にも分けてやれ。 それで実力の差は埋まるだろう』
確かに、これだけの加護があれば、あのバケモノたちとも十分に戦えることだろう。
『後はお前ら次第だ。 せいぜいこの闘いを視ている奉仕者たちを楽しませろ』
その声と同時に、レアンドロスの意識が遠くなる。
おそらく強制的に現実世界に帰されるのだろう。
――待ってろ、アルクマイオン! セルギオス!
すぐに、この加護を分けてやるから!!
レアンドロスの意識を、再び闇が覆い尽くした。