第十四章:海神の祭壇【黒毛和牛】ミノル、パパになる
閑散とした砂浜に、銀と黒の閃光が交錯し、そのたびに地震の如く大地が揺れた。
次の瞬間には、衝突、爆音、台風が訪れたかの如く荒れ狂う波と風が海原を荒れ狂い、次の瞬間には真っ白に凍りつく。
あまりにも異様なその光景に、海の生き物は皆、恐れて岩肌の奥深くにその身を隠した。
その傍らを、通常の牛の倍はありそうな巨大な白い雄牛が、地響きを立てて疾走する。
土砂が巻き上げられて視界を遮る様は、まるで局地的な砂嵐。
だが、その砂塵の壁を突き抜けて、牛に追いつかんとする人影が一つ。
その人物はあっという間に雄牛の前に回りこむと、両手を広げて止まれと体で示して見せる。
が、雄牛はむしろその胸を角で貫かんと、さらにスピードを上げて頭から突っ込んでいった。
だが……
ドスン。
周囲に、大砲でも撃ったかのような鈍い爆音が響き渡る。
「ゴルァ! この馬鹿牛!! おとなしく生贄になりやがれ!!」
黒いオーラを撒き散らしながら、ミノルは雄牛の突進をあっさり受け止めると、そのまま力任せに雄牛の頭を地面に押さえつける。
そして雄牛の角を握り締めてその動きを完全に封印しようと試みるが、
「ぶもっ、ぶももっ!!(だが、断固として断るっ!)」
銀のオーラを纏う白牛はバックステップでミノルの体を前のめりにさせると、そのまま重心の崩れたミノルの体を持ち上げ、筋肉の盛り上がった首を振り回して力づくで投げ飛ばした。
空中で体を捻ってミノルが鮮やかに着地を決めると、衝撃で盛大に砂が巻き上がり、その場に小さなクレーターが出来上がる。
「お前に選択権があるわけねぇだろ! そもそも生贄として生まれたくせに!!」
「ぶもーっ! ぶももっぶもっぶもっ!!(うるさーい! そんなの勝手に決めるな!!)」
自分の命がかかっているだけに、牛も必死だ。
真っ赤に充血した目で睨みつけると、敵である存在を串刺しにすべく、その二本の角を再びミノルに向けた。
「よかろう。 ならばチャンスをくれてやる……俺とお前、どちらが生贄になるか、平等に牛の姿で勝負してやろうじゃねぇか!!」
そう告げるなりミノルはその上着を脱ぎ捨てると、両手を地面について息を吐いた。
全身に黒い獣毛が浮き上がり、その体が大きく膨れ上がる。
驚く白牛が瞬きをすると、そこには自分よりもなお巨大な黒牛が荒く鼻息を吐いていた。
「覚悟しやがれ」
黒牛は人の言葉で短く台詞を吐くと、恐ろしい勢いで白い雄牛に向かい突進していった。
「おぉーっと、両者まずは正面から激突! 白牛、僅かに力負けしている! すかさず黒牛が下から角でひっくり返そうとするが、白牛素早く距離を取った!!」
やたらとテンションの高い声で解説を叫ぶのは、いわずと知れたドミニオ。
その辺に転がっていた流木をマイクにみたて、拳を振り回す姿は実に楽しそうだ。
「ドミニオ殿。 ちょっとうるさいんだが」
その隣で耳を押さえてラメシュワールが苦言をこぼすも、興奮したドミニオの耳には届かない。
それどころかさらに決闘の様子に熱中し、両雄が攻防を繰り返すたびに、「やれっ! そこだっ!」と拳を振り回すので危険極まりない。
「だが、黒牛、攻める! 距離を縮め、その角を巧みに使って白牛の顔面を殴打する! 右! 左! おおっと、白牛もまけじと黒牛の顔にその角を叩き込んだ! 殴る! 殴る! 両者一歩も引かない!!」
「いや、君。 危ないから落ち着いてくれないか? ……っと、危ないな」
興奮したドミニオの太い腕が、風車のようにラメシュワールの前髪を掠める。
殴り飛ばされては適わないとばかりに、ラメシュワールはそそくさとその場から逃げ出した。
ミノルと白牛の戦いは、それから20分ほど続いただろうか?
両者の戦いは、ミノル優勢のまま決着を迎えようとしていた。
白牛は口から泡を吹き、激しく呼吸を繰り返す。
もともと牛の体はそこまで長時間全力で動くようには出来ていない。
「ぐ……ぐもっ(やめて……殴らないで)」
ミノルの角で殴られるたびに、哀れな声を上げながらフラフラと後ろに下がっていった。
「いけっ! そこだっ! おっと、白牛の膝が崩れた! いけっ! 黒牛、おおっと、トドメのアッパーカット!!」
完全に戦意を失っている状態だが、ミノルはその攻める手を休めない。
脇腹への頭突きから角による突き上げ。
ふらついた所に、さらに顎へと強烈な頭突きを見舞った。
「白牛崩れ落ちる! 白牛立てない! 白牛立てない!! 黒牛ついに白牛を下し、生贄回避の権利をもぎ取ったあぁぁぁぁ!! つーか、辛抱たまらん! 俺にも暴れさせろ!!」
その台詞と同時に、ドミニオは手にしたマイク代わりの流木を後ろに放り投げる。
「ったく、手間かけさせやがって……ん?」
ミノルの勝利の余韻に浸るミノルが見たものは、雄たけびを上げてミノルにむかって突撃を開始したドミニオの姿だった。
「うわっ!? どうしたドミニオ……って、何するかぁっ!?」
――ゴスッ。
いきなり飛んできたドミニオがミノルの後頭部に延髄切りを決めると、さしものミノルも力なく砂地に崩れ落ちる。
「うおぉぉぉぉ! アイム・チャンピオォォォォォォン!!」
倒れたミノルの上に跨って両腕を突き上げるドミニオに、
「アホかぁぁぁっ!!」
砂地に倒れたままのミノルも、絶叫しながらドミニオの尻に思いっきり蹴りを加えた。
そのまま獅子の姿に変化したドミニオと大乱闘に突入したのは言うまでも無い。
ラメシュワールから、『ミノルが全裸(牛モード)で暴れている』と聞いたシアナが、記録媒体と着替えをもって駆けつけたときに見たものは、仲良く三匹そろって川の字になっている、白と黒の牛二頭と赤い毛並みのライオンだった。
「さて、どうしたものかな」
ポセイドンの祭祀を示す、目が覚めるような青の衣装を身に纏い、ミノルは困った顔で呟いた。
彼が首をかしげながら立っているのは、雄牛を呼び出した場所にも近い、浜辺に作られたポセイドンの祭壇である。
今は儀式によって異界と繋がったその祭壇の上には、白い雄牛が力なく横たわっていた。
もはや雄牛には抵抗する気力すらなく、硬い石の台座の上でミノルに切り殺されるのを待つばかりだ。
「……ぶもっ」
そう呟く白牛の円らな目が、涙を溜めてミノルを見つめ返す。
瞬きをするたびに、その青い瞳からはポロポロと涙が零れ落ちた。
「……」
ミノルは、手にした剣をポイと放り投げると、その懐から携帯電話を取り出した。
「おい、叔父貴。 勘弁してくれ! 気まずくて生贄に出来ねぇだろ! 獰猛な生き物だって聞いていたのに、中身は子供じゃねぇか」
相手が電話に出るなり、開口一番ミノルは困惑の混じる声でがなりたてる。
すると、
「それはならぬ。 我を呼ぶなら、我に相応しい贄が必要なのはお前にもわかるであろう?」
ミノルの前に深い藍色の光が立ち上ったかと思うと、その光の塊が威厳ある壮年の男性の声でミノルをたしなめた。
格の低い贄を用いた呼びかけに応えることができないわけでもないが、それはそれだけの生贄しか用意できない相手であるときに限る。
すでに十分な生贄が手元にあるのに、これを惜しんで生贄の格を下げるという行為は神に対する侮蔑に他ならず、ミノルにとっても、ポセイドンにとっても社会的なダメージを与える事となるのだ。
「そりゃそうだけどよ…… こいつを生み出したのが叔父貴なら、こいつもあんたの子供じゃねぇのかよ! 助けてやってくれよ!!」
神々にとって、生贄というものが重要な儀礼であることは理解しているが、だからと言って目の前の命を犠牲に出来るほどミノルは割り切った性格ではなかった。
むしろ、情念的で泥臭く、不器用な行動こそがこの少年の本質に近い。
「とは言ってものぉ。 他に代償を求めるというなら、相当な覚悟が必要じゃぞ?」
その性格を理解してはいるものの、ポセイドンにとってもそう簡単に頷くことの出来る問題ではなかった。
もし自分が上司から「子猫を拾ってきたので、この猫の飼育のために給料を半永久的に減額します」といわれても、頷ける人はそう多くはあるまい。
さらに二匹目がきたら身の破滅だ。
ポセイドンの地位からすると、ミノルに無理やり生贄の儀式を行わせるのは可能だが、その後ミノルから恨まれるのは確実だろう。
埒が明かないと判断したミノルは、苦悩するポセイドンの前に近づくと、目を伏せながらキッパリとこう言い放った。
「なら、国づくりは出来ない」
「な、なんじゃと?」
その言葉に、目をむいて驚くポセイドン。
「こいつを生贄とする事は断固として認めない」
「お主、儂との約束を反故にするというのか!?」
「こいつは俺がこの世に生み出した存在。 なら、こいつは俺にとってわが子も同然! どうせ生贄になったところで、向こうの世界に戻るだけだし、そもそもわが子を守らない親がどこにいる!!」
「ぶ、ぶもっ(……パパ)」
ミノルの言葉に、生贄の台座に横たわる白牛が震える声でそう呟く。
「ただし、それなりの筋は通すつもりだ。 試練をよこせ!」
「試練じゃと!?」
「そもそも生贄を使うような儀式は好みじゃねぇんだよ。 媒体は俺が腕によりをかけた神像を使う。 そして格が足りない分は、試練を受ける事で埋め合わせる。 それでも不満か、叔父貴」
「あい解った。 おぬしがそこまで言うのなら、儂も鬼ではない。 その願い、聞き入れよう。 ただし、それ相応の試練を受けてもらうことになるぞ?」
本当は、甥っ子と呼んで可愛がっているミノルに試練を与えるぐらいなら大地など要らない。
そう告げたかったポセイドンだが、こうなってはいまさら言ったところで聞くミノルでもないだろう。
一度やると告げたからには、そう簡単に自らの言葉を翻すことは出来ない。
神の言葉とはかくも重いのだ。
返す返すも、自らの選択が悔やまれる。
「望むところだ! さぁ、どんな試練を出すのか言ってみろよ」
「よかろう。 では、試練を下す。 ただし、ミノルにではなく、そこの白牛に対してだ」
目を見開くミノルを他所に、ポセイドンは厳然とした態度で天を仰ぐと、その両腕を広げた。
「わが僕である白い雄牛を王の象徴とし、これを殺したものを新しき島の王とする。 我に連なり、王にならんと欲するものよ! わが島に来たりて我が使いである雄牛を倒すが良い!! されば、汝をこの島の王として認めよう!」
朗々たる声で点に告げると、その言葉は魔術となってこの世界の隅々まで響き渡る。
おそらく、この世界にあってポセイドンに縁のあるものならば、海を漂うクラゲの子供から深海に眠る古き神までのこらずこの声を聞き届けたことだろう。
「という訳だ。 その雄牛を守りたければ、なみいる挑戦者をすべて退けるが良い。 今更後に引けるとは思うなよ? 我が試練は少なくとも三度訪れるだろう」
ニヤリと笑ってミノルを見下ろすと、
「……上等じゃねぇか。 悪いが、あんたの用意した敵はのこらず蹴散らしてやる」
ミノルもまた獰猛な視線をポセイドンに返す。
「それはそうとしてミノルよ。 早く儂の素体となる像を早く作ってくれぬか? おぬしが作るものならば、儂の依り代として十分に役目を果たすであろう。 早く同化して、自分の王国をこの身で実感したい」
素体と代償を同時に満たす白牛を生贄とすることは出来なくなったが、すでに試練という形で代償は払われた。
ならば、あとは十分な素体があれば、ミノルを介してこの大地に降臨することが可能である。
「心得た。 で、最初の試練が訪れるまでの時間は?」
ポセイドンの意図を理解すると、ミノルは深く頷いて、その製作に当てられる時間を尋ねた。
「さほど多くは無いな。 七日もすれば最初の挑戦者がおぬしの前に現れるであろう」
「ハードだな。 創世記よりキツい仕事になりそうだ」
皮肉とともに苦笑いを浮かべると、ミノルはことのなりゆきを黙って見守っていた白牛の頭にそっと手を置いた。
「おい、牛。 ……名前がないと不便だな」
「ぶもっ?」
きょとんとした白牛の頭を撫でながら、ミノルは顎に手をやり、牛の名前を考える。
「よし、決めた。 アネルだ。 今日からお前はアネルと名乗るがいい」
それは、ギリシャの言葉で"男"という意味の言葉だった。
おそらく、この島における"アダム"といった感じの意味でつけたことであろうか?
「かえるぞ、アネル。 これから忙しくなりそうだ」
そう告げてきびすを返したミノルの後ろを、アネルと名づけられた雄牛がゆっくりとついて歩く。
ポセイドンは、その一人と一匹の姿を満足げに見つめて目を細めると、優しい笑顔を残してその場から姿を消した。