第十三章:因習の予感と【黒毛和牛】喚起魔術の実験
潮の遠鳴りとは、どうしてこんなに心を穏やかにするのだろう?
波の押し寄せる崖の上を歩きながら、シアナは海風に目を細めてそう呟いた。
「ちょっとー シアナさん? 現実逃避してないではやくこれなんとかするの手伝ってよー!」
後ろから聞こえてくるアイの声に、シアナはふと現実に引き戻されて顔をしかめる。
もし、海の近くで生活するのに、何が一番困るかと聞かれたら、シアナは間違いなく風と砂だと答えるだろう。
その証拠に……彼女の足元には、風で倒れた物干し台と、砂に散らばる無数の洗濯物があった。
「風のばかぁー!! あーもー 洗濯物が砂だらけー! ぜんぶ洗い直しだよー!!」
「文句はいいから、さっさと回収するの!!」
そう叫びながら、アイはシアナに洗濯物をいれる籠を放り投げる。
「もー 午後から干すと湿気るから着心地良くないのに!!」
パンパンと洗濯物たたいて砂を掃うと、アイはそれを脇に抱えた籠に放り込んで悪態をついた。
「あーあ、ほんと泥だらけ」
シアナもまた地面に落ちた特大のトランクスを拾い上げると、一人幸せそうな笑みを浮かべる。
「えへへへ…… ミノ君のパンツ」
傍から見ると、不気味というか、アホらしいと言うか、とりあえず他所でやってくれといいたい光景だ。
「なに笑ってるのよ、変態。 ちなみにそれ、ミノ兄のじゃないから」
言われてパンツを裏返すと、そこには股間の部分になぜか大きくプリントされたサボテンのイラスト。
「そういえば、ミノ君……こんな真っ赤なパンツはかないよね」
それがミノルではなくドミニオのパンツだと理解したシアナは、げんなりした表情でそれを洗濯籠に放り投げた。
「なに自爆してんのよ。 あーみっともな」
シアナを横目で見ながら、アイが目を閉じてこれ見よがしにそう言うと、
「うるちゃーい! あんたこそ、お子様のくせに、なにこんな黒のえっちぃパンツはいてるのよ!」
シアナは洗濯物の中から、黒の紐にしか見えない下着を出してつきつける。
「ちょ、ちょっとなにその恥ずかしいデザイン! あたしなわけないでしょ!?」
その下着を見るなり、アイ顔を真っ赤にして目をそらした。
「じゃあ、誰がこんなのはくのよ? あたしはこういうの穿かないし……それにしても、すごいデザインね」
「うん。 すごいエッチな下着」
いったい誰の下着だろうかと、二人が顔を寄せ合う。
「アンソニーはラメシュワールさんおいてさっさと帰っちゃったから候補には入らないし」
「筋肉ダルマな二人はサイズおよび視覚的に論外よね」
となると、アヤモリかラメシュワール!?
二人がそんな結論にたどり着いたとき、
「あの……先輩……それ、あたしのです」
後ろからおずおずとミュシャが手をあげた。
「「い、意外すぎる」」
大人しくて清純派な彼女の意外な一面を垣間見た出来事であった。
「あいつら、何騒いでるんだ?」
三人が騒いでいる崖から少し離れ、建物の窓から外を眺めていたミノルは溜息をついて懐から携帯電話を取り出した。
もっとも、携帯電話会社も中継点も無い異世界で携帯電話が使えるはずも無く、当然ながら共感魔術と言う術式を用いた類似品であるが、使い方が変わらないのにわざわざ新しく名前をつけるのも面倒ということで、この世界で活動する召喚獣の間でも携帯電話で通っている。
「あー 叔父貴? そろそろ島を作る準備が出来たんで、次の段階の手配を頼みたいんだが」
相手が電話に出たことを確認すると、ミノルは前置きもなしにいきなり用件を切り出した。
「そうだな。 最優先で融通して欲しいのは、島を作るエネルギーの補給と、あとは住人だな」
そして相手の了承を確認すると、現在のプロジェクトに必要なものを告げる。
ここまでは予定通りの業務報告だ。
だが、そのあと帰ってきた相手からの答えに、その顔が急に曇りはじめる。
「え? いや、たしかに叔父貴の島だから直接降りて創造するのは悪くないし、俺が奉仕者を勤めることにも依存は無いが……叔父貴をこっちに呼び出すような素体を用意する資金はねぇぞ!? なに? 素体は喚起した上に物質化しろだと!?」
ミノルが声を荒げると、その目を真ん丸に見開いた。
召喚魔術と一般に呼ばれるものは、本来『召喚』と『喚起』の二つに分かれているが、この二つには明確な違いがある。
有体に言えば、すでに存在している物質の中に特定の霊体を招きいれる技術が『召喚』であり、いわば、霊媒や口寄せなどというモノがこのカテゴリーに入る技術だ。
現在のミノルの状態もまた、この世界で作り出した素体の中に奉仕者の魂と神霊の魄を入れているために『召喚』のカテゴリーに属している。
欠点としては、器となる媒体によってその能力が制限されること。
一方、『喚起』という技術は、器となる物質が全く存在しない状態で行う術だ。
召喚と違って能力的な制限は無くなる上に奉仕者すら必要なくなるものの、非物質的存在である霊体を物理的な世界へと呼び出すならば、当然ながらその存在の維持に多大な負担がかかってしまう。
だが、ここにその欠点を覆す更なる高度な技術が存在した。
――物質化。
霊体の密度を極限まで高め、非物質である存在を物質変える規格外の高等魔術。
霊体である神々を、維持に魔力の必要ない完全な生物としてこの世に生み出す事が出来たなら、その神は地上においても100%の力を常時行使できると言う事になる。
だが、その利便性と反比例するように、高度な能力と莫大なエネルギーを要求されるため、通常の魔術師からは"机上の空論"と呼ばれる技術だ。
しかし、ここにその非常識を覆す存在が一人。
「……ったくしょうがねぇな。 で、何を物質化すればいいんだ? まさか叔父貴本人とか言わねぇよな? なに!? ちょっとまて! いや、出来なくは無いが、それは無いだろ! おいっ ……切れやがった」
ミノルが忌々しげに通話を切ると、隣で万能章を立ち上げて、それぞれが契約を結んでいる召喚師から送られてきた報告書に目を通していたドミニオとラメシュワールが興味深そうにミノルのほうを覗き込む。
「えらい剣幕だね。 何を呼び出すように言われたんだい?」
遠隔魔術で領内の問題を片付ける手を止め、ラメシュワールがいつものように眼鏡を指で押し上げてからミノルに好奇の目を向けると、
「白い雄牛だ」
ミノルは一言そう呟いた。
「あぁ、たしかポセイドンの聖獣は馬と牛だからな。 でも、牛や馬ならこっちの世界にもいるし、喚起するにしても物質化するにしても、お前なら簡単だろ? なんでそんな機嫌悪いんだ?」
ドミニオもまた、愛飲の壺コーヒーを啜りながらそんな疑問を投げかける。
ポセイドンの祭礼では黒牛が生贄の定番だったとも言われており、神を降ろす依代に牛を指定するのはむしろ当然のことだ。
なぜミノルがそんなに困っているのかまったく理解が出来ない。
だが、ミノルが「その雄牛の前に"ミノスの"とつくからだよ」と付け加えると、ドミニオはコーヒーを噴出しむせかえり、ラメシュワールは万能章のキーを打ち間違えて、慌ててバックスペースを連打しはじめた。
「……マジか。 さすがポセイドン。 パネェな」
「まぁ、言ってしまったからにはやるしかないね」
万能章のモニターをハンドタオルで綺麗にしながらドミニオが呟くと、ラメシュワールも呆れたような声でその台詞を継ぐ。
『ミノスの雄牛』とは、初代クレタの国王ミノスが国を作ったときにポセイドンが与えた白い雄牛のことである。
この雄牛が海から使わされたとき、そのあまりの見事さにこれを生贄として使うことを拒んだミノス王は、ポセイドンの呪いを受けて散々な目にあったといわれる。
その呪いの一つが、かの有名なミノタウロスの誕生。
R指定をくらうような異常な行動の末に誕生したといわれるこの魔物は、毎年多くの若者を生贄として求めたことで知られ、その結果ミノス王は家庭崩壊。
さらにミノタウロスの父親であるこの白い雄牛も、ポセイドンの呪いによってとんでもなく凶暴化し、ヘラクレスが12の偉業の一つとしてこれを捕らえるまでは各地で大きな被害を出していたという。
つまるところは……国の滅びる原因となったいわくつきの物件である。
「むろん手伝うのが嫌だなんていわねぇよな?」
ミノルがにこやかな笑顔で二人の襟首を掴むと、ドミニオとラメシュワールは諦めたようにそろって溜息をついた。
「とりあえずこんなものかな?」
ミノルは、その手にしたリチュアルシートを手にしてラメシュワールを振り返る。
リチュアルシートとは、儀式の概要を記したセレモニヘの進行プログラムのようなものだ。
別に必須と言うことは無いが、儀式の成功率を安定させるために利用する魔術師は多い。
特にミノルのリチュアルシートはある種の強制力を持っていて、儀式の参加者が呪文を間違えたり儀式の邪魔が偶然入ることを防いだりする呪力を持っている。
要は、儀式のミスを減らすための呪具と思ってもらって差し支えない。
「そうだな。 お互い近代西洋魔術は専門外だからこれが限界だろう。 君なら多少の無理があっても力でねじ伏せればいい」
ギリシャ古来の術式はほとんどが失われている上に、専門家ではないミノルたちにとっては使い勝手が悪い。
よって彼らは、様々な術式と親和性が高い近代魔術をベースに喚起魔術の実践を行うことにしたのだが……。
そもそも『ミノスの雄牛』を呼び出す専門の術式があるわけではない。
そんなわけで、彼らは急遽資料を片手に術に仕えそうなものを寄せ集め、実験的な儀式に挑んでいる真っ最中だ。
「またいい加減なことを…… そもそもドミニオがちゃんとそっちの方も知っていたらこんな面倒はなかったんだけどな」
「無茶を言うな。 たしかに私の専門は天使召喚術と天使語魔術だが、理論よりも実践派なんだ」
ミノルの皮肉を耳にして、ドミニオが不満げな顔で言い訳を口にする。
「……脳筋」
「何か言ったか!?」
ぼそりと呟いたミノルの言葉に反応し、ドミニオの額に青筋が立つ。
「なーんにも。 それよりさっさと始めようぜ」
すっとぼけたミノルがリチュアルシートをテーブルに置くと、拗ねたドミニオを横目で笑いながらラメシュワールが了解の言葉を口にした。
万が一の暴走に備えて屋外の砂浜を儀式の場に選んだ三人は、まず最初に大量の砂糖を地面に山盛りにし、その上に肉屋で買ってきた牛の肩肉を安置した。
砂糖は金牛宮を示す薬物であり、肩もまた金牛宮を示す部位である。
そこからさらに真円、正三角形、その頂点に金牛宮を支配する惑星である月、金星、大地を示すマークを記し、その外周に金牛宮に属する神々と、特定の時間を守護する天使達の名をミスリルの粉末を用いて書き記して行く。
「自分で作っておいて何だが、ほんと便利だな、この金属」
本来ならば、喚起する対象に適合する天使の力を借りるために、特定の時間で無いと儀式を行うことができないのだが、ミノルとラメシュワールの作り出した魔法金属ミスリルはその制限を完全になくしてしまっている。
「そうだね。 流通する量を制限しておかないと、魔術における完全犯罪がうまれかねない」
オリーブ色に染めた色砂で円を描きながら、ラメシュワールもミノルの言葉に同意を示す。
理論的作業の苦手なドミニオは一人蚊帳の外だ。
「ドミニオ、その藍色の砂取ってくれ。 一番外側の円を描くのに使うから」
「了解だ」
ドミニオに最終的な指示を出すと、ミノルは円の中に外の穢れが入り込まないように清めた布の上を渡って外へと移動し、場を清めるための香を焚き染める。
「蘇合香か。 なかなか良い品を用意したね」
その香りを吸い込んで、ラメシュワールが目を細めた。
「おう。 かなり多めに用意したから、余ったら後で分けてやるよ」
その琥珀色の樹脂の入った瓶に蓋をして、ミノルはそれを懐に仕舞う。
「さて、準備は整ったな」
ミノルがそう告げると同時に、残る二人も深く頷いた。
本来ならば、ここから五芒星の儀式や六芒星の追難と言った儀式に移るのだが、すでに神としての力を持つ彼らにとってはかえって他の神霊の力が混ざりすぎて邪魔になってしまう。
ミノルは、軽く手で二人に下がるように指示を出すと、
パァン!
拍手を一つ打ってその場を祓い清めた。
さらに全身から黒いオーラが迸り、儀式のためにしつらえた外円の中に浸透してゆく。
「古来より白牛は海神の使いにして豊穣の徴、地の祝福の獣なり。 聞け、海神よ。 汝が皇子にして祭祀たる我は、ポントスの気、ガイアの威声を受け、この地に豊饒をもたらさんと欲し、海神の使いを産み落とさんが為、この行を行使しむる也。 ネレウス、オケアノス、トリトン、プロテウス、アンフィトリテ、アルビオン、ミノス、グラウコス、ティティス、スキュラ、カリュブデス、アルキオーネ、レウコテア、クリティア、ガラテア、ベンテシキューメー、ロデー、海を司る神々とその眷属に助力を願いあげる。 我をして聖ななる儀を成さしめんことを! 急々如律令」
もはや方術なのか陰陽道なのか、西洋魔術なのかさえ判断に苦しむような混成魔術の呪句が、確かな力を持って周囲に響き渡る。
その力が、魔法陣の中に十分に満ちた事を確認すると、ミノルは黄玉で出来た数珠を握り締め、目を見開いて一言叫んだ。
「来たれ!」
その瞬間、魔法陣の中央に積み上げた砂糖の山が、空に上る霧のようなキラキラと輝きながらエーテルへと変換される。
「来たれ!」
さらにミノルが叫ぶと、魔方陣の中に満ちたエネルギーが中心へと収束し、藍色に輝く光の中で巨大な何かを形作り始めた。
「来たれ!!」
ズンっ!
重い音をたてて、巨大な何かが魔方陣の中央に落下する。
「ぐもおぉぉぉぉぉぉぉぉぉっ!!」
この世界に実体化したそれは、聞く者の魂を消飛ばすような声で産声をあげた。
神の力から生まれた不壊の存在。
並みの牛よりはるかに大きく、力強いその体。
雪のように白く穢れなきその毛並み。
体に纏う神々しい気配は、まさに神獣に相応しい存在だった。
「よっしゃ! なんとかなったようだぜ!!」
術の成功に、喝采の声を上げるミノル。
だが……
「いや、それはいいんだがミノル。 あの牛、全力で逃げようとしているぞ」
ドミニオの言葉に呼び出した牛を見ると、ソレはその巨体を震わせながら全力でミノルとは反対の方向に駆け出していた。