第一章:捨てる神があれば【黒毛和牛】押し付けられる牛がいる
冬が終わり春がやって来る頃。
眠りから覚めた木々は、まるで人々に挨拶を送るかのごとく次々と鮮やかな花を咲かせ、吹く風も甘い香りが混じっていた。
屋根から滴る水で黒く濡れた街並に目をやれば、花売りの少女たちが春の訪れを祝う歌を歌い、それに負けじと行商人達も声を張り上げる。
その声を掻き消すが如く荷馬車が喧しく往路を行き交い、笑いあう人々の群れが、巷を埋め尽くしてざわめく。
明るく賑やかな、そんな春の風景。
惜しむらくは、厚い雲が空を覆い尽くし、薄暗い灰色の光が地上を埋め尽くしていた。
そんな街の片隅に、一人暗い顔をした少女がいた。
地味な薄茶のワンピースに、古い皮のブーツ。
いかにも田舎から出てきましたという趣の少女は、その痩せた体を抱きかかえ、不安げな表情で街を歩いていた。
彼女を一言で言い表すなら『挙動不審』
ときおり標識や看板をちらちらと眺めるところからすると、どうやら何かの場所を探しているようだが、その表情から伺うに手がかりはまったく見つからないらしい。
地元の人間に尋ねればよいのだが、少女は人見知りする性格なのか、たまに人のよさそうな人物に目を走らせるものの、しばし躊躇した後に俯いて足早に去るという行為を繰り返している。
「早く……たどり着かないと……でも」
もはや泣きそうなほど切羽詰った顔をしてそんなことを呟くのだが、彼女の問題は一向に解決の兆しを見せない。
いったい何度同じ場所を歩き回ったであろう?
歩きつかれた少女は不意に足をもつれさせて歩道から踏み出してしまう。
そして、そこに折り悪く走ってきた荷馬車が一台――――――
「……あっ!」
彼女は、来るべき痛みを思い、ギュッとその目を閉じた。
どんっ!
何かが激しく馬車とぶつかる音。
だが、いつまでたっても激しい衝撃はやってこない。
恐る恐る目をあけて、自分が生きていることを確認して安堵のため息をついた瞬間。
「おい、大丈夫か?」
「……ひっ!」
不意に低い声でそう呼びかけられて、少女は弾かれたように背筋を延ばす。
これが恋愛小説なら、少女は見目麗しい男性に助けられてそこから恋が始まるところだが、あいにくとこの少女にめぐってきた星はいささか変わり者だったらしい。
なぜなら……
「どこを見ている。 俺は目の前にいるぞ」
再び響いてきた声に驚き、その声の主を探してきょろきょろと辺りを見回すと、不意に荷馬車を牽いてきた生き物と目が合う。
「……牛?」
それは巨大な魔物……もとい見上げるほど巨大な黒い雄牛だった。
全身が不自然なまでに筋肉質で、まるで黒い鎧でも着込んでいるのではないかと疑うほどがっちりした体格。
しかも、肩の筋肉が盛り上がって首がどこかわからない上に、本来なら脂がのってたるんでいなければならないお腹はクッキリ腹筋が割れていた。
おまけにその目は牛にあるまじき鋭い三白眼。
なぜかダークグレイのハーフパンツと、同じ色のシャツを身に着けたその姿は、まるで御伽噺のキャラクターが本から抜け出したかのような違和感を与える。
「牛で悪かったな。 危なっかしい足取りで人の前をフラフラしやがって。 いったい何処に行くつもりだ? 地獄か? 天国か?」
「いえ……あの、神殿までちょっと用事が」
本来なら、こんな怪しい生き物に話しかけられても何も喋らないのだが、地回りの怒鳴り声ですら子守唄に思えるほど威圧的な声に、つい正直に目的を口にしてしまう。
「神殿か」
人語を解する謎の怪生物は、そう呟くといきなり顔を寄せ――
「ひあぁぁぁぁぁ!!」
少女の服の襟元を口に咥えると、その広い背中の上にひょいと乗せた。
「落ちないようにどっか捕まっていろ」
そう告げるなり、黒牛はドスドスと音を立てて町の通りを走り出す。
「あわわわわ」
わりとゆっくり走っているので、さほど背中は揺れなかったが、それでも振り落とされてはたまらないとばかりに少女は黒牛のシャツに必死の形相でしがみついた。
――それから20分ぐらい揺られただろうか?
「着いたぞ」
不意に黒牛が立ち止まると、そこは真っ赤なアーチと石碑の建てられた森の入り口だった。
「ここは?」
「お前の探していた神殿だ。 もっとも、正しくは神社と言うのだがな」
そう告げると、黒牛は荷馬車を牽いたまま森の奥へ伸びる石畳へとゆっくり歩みだした。
その赤いアーチを潜り抜けたとたん、不意に周囲の空気の匂いが変わった気がして、少女はハッと顔を上げた。
日常から切り離された領域に踏み込んだ事を知り呆然とする少女に、黒牛は威圧的な声で語りかける。
「とりあえずこの先は聖域だ。 あそこに見える手水で手と口元を洗って来い。 本当は色々と作法があるが、何もしらんお前にそこまで求めるつもりは無い。 だが、最低限の"清め"はしてもらうぞ」
入り口近くにある水を張った水盤を鼻面で示すと、黒牛は少女が降りやすいようにと地面に座り込んだ。
「あ、あの……」
黒牛の背から恐る恐る降りると、少女はペコリと頭をさげた。
「色々とありがとうございます。 それと……」
少女は顔を上げて、黒牛の凶悪な面構えを正面から見据えてこう告げた。
「親切で声をかけてくださったのに、悲鳴を上げてすいませんでした」
「……知るか。 あのまま野垂れ死にされたら目覚めが悪いだけだ。 それより早く手を洗って来い」
なぜか不機嫌な様子で答えると、黒牛はプイとあらぬ方向を向いてしまった。
何か気に障るようなことを言ってしまったかと気になったが、少女はとりあえず黒牛に言われるままに水盤に近づいた。
「最初は右手に杓子を持って左手を洗う。 次は持ち手を変えて右手を洗うんだ。 次は口を漱いで、最後にもう一度左手を洗う」
ためらう少女に、黒牛は遠慮なく命令を下す。
「……冷たい」
春先の水はまだ雪のように冷たく、洗い清めた指先は刺すように痛い。
「我慢しろ。 ほんとなら全身を水で清めてほしいところだぞ」
「……はい」
たしかに、全身に水を浴びるよりははるかにマシだ。
黒牛が後ろから指示する通りに手を清めると黒牛は少女を再び背中に拾い上げた。
「そういえば、まだ名前を聞いてなかったな。 俺はミノルだ」
「モルディーナです。 モルディーナ・オチュー」
お互いに名乗りを済ませると、黒牛はモルディーナが背中からずり落ちないように気を使いながら、ゆっくり歩き出す。
「で、モルディーナは神殿に何の用だ? 地元の人間でも旅行者でもなさそうだから、どうせ困りごとがあって泣きつきに来たんだろう」
神社の社務所に続く石畳の真ん中を我が物顔で歩きながら、ミノルと名乗った黒牛は、おもむろに少女に尋ねた。
「えっと、実は村で疫病が発生したので、こちらの神官様に施療をお願いしようと思って」
特に秘密にするような事でもないので、あっさりと質問に答えたモルディーナだったが、それを聞いたミノルは訝しげに首を捻った。
「疫病? そんなはずはないんだが」
しばらく視線を宙に彷徨わせた後、ミノルは納得がいかない様子で少女に尋ねる。
「やっぱりおかしい。 おい、お前の村はどこだ? ウチの教区に疫病は発生していないはずだぞ」
"ウチの教区"という言い回しから、この牛がこの神殿に所属する存在だと理解したモルディーナは、少し安心して笑顔で質問に答えた。
「あ、はい。 私の村は山一つ向こうにあるオチュー村です。 なんでわかるんですか?」
問いかけられたミノルは、少し意地の悪い笑みを浮かべ、
「そりゃわかるさ。 何せこの教区で疫病を管理するのは、病魔の長たる俺の役目だからな」
とんでもないことを言い出した。