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黒毛和牛召喚記  作者: 卯堂 成隆
第二話:荒ぶる神に大地の安らぎを
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第七章:神吟の調べに【黒毛和牛】荒ぶる伴奏を

挿絵(By みてみん)


 それはとても美しい、だが毒蛇のような街だった。


 かつてミノルが守護神を務めていたドヴアーラカーの街からはるか南。

 美しい砂浜の広がる海の王国カルデッサ。

 そのエメラルドの海に面した、まるで絵の中のように色鮮やかなその王国は、太陽神アポロンをあがめる西の隣国イオン王国の侵攻にあい、現在国としての機能を失っていた。


 もっとも、国が瀕死の状態であってもそこに住む民は逞しく、副都心にして港湾都市であるモスカータは、かつてはオケアノスの宝石箱と呼ばれたその姿の亡骸を無残にさらしながらも、イオン兵の横暴な振る舞いにも耐えつつ静かに復讐の時を待っている。

 その牙をひっそりと磨きながら、そして毒をその身に孕みながら。


 だが、その日モスカータの街で小さな異変が起きていた。

 それは、まるで夢の国から聞こえてくるかのような美しい音。

 さらに詳細を述べるなら、甘く切なく、儚いようで鮮やかな竪琴の調べ。

 硬い弦を指で弾いているはずなのに、一つ一つの音が撫でる様に柔らかく、その強弱の複雑に絡み合う豊かな響きに酔わされて、耳にしたものは誰しもがしばし目を閉じて聞き入り、やがて吸い寄せられるようにその音の源を探し始める。

 だが、人々は途中でその探索の足を止めた。 

 なぜなら、その音楽を吐き出していたのは、街の中央から交通の悪い旧市街地に向かう途中にある、粗末な小屋が雑多に立ち並ぶ一角―― いわゆる貧民街と呼ばれる地域の粗末な酒場だったからだ。

 もしここに異世界の音楽に造形の深い者がいたとしたら、その曲がドビュッシーの『亜麻色の髪の乙女』であることに気付き、目を見開いたことだろう。

 異世界の曲を知っているという事は、この音楽の奏者は召喚獣か召喚師、もしくはその近縁の者と言う事になる。

 だが、間違ってもそんな地位のある人物が、こんな貧民街に立ち寄って演奏をするなど普通では無い。

 その違和感に、音の源を探す群集の足が止まる。


 そうでなくとも、ただでさえ治安が悪い街の、その中でも最悪な貧民外にわざわざ足を踏み入れようとする酔狂なものは少なかった。

 いや、例外はいる。

 この地に侵略者としてやってきたイオン兵だ。

 いくらそこが貧民外であったとしても、占領軍の関係者にちょっかいをかけようなどと思うものはさすがにいない。

 貧民外に住む者は皆、自分たちの生活の場にまで進入してきた招かざる客に不満な顔を向けながら、ただ押し黙って音楽に耳を傾けている。

 その冷たい視線を向けられているイオン兵はというと……ただ涙を流しながら妙なる音楽に聴き入っていた。

 彼らは音楽の神でもあるアポロンの僕であり、音楽は彼らにとって最大の娯楽であるのだが、戦乱に明け暮れる日々では満足な音を聞くことも出来ず、彼らは飢えに飢えて乾ききっていたのだ。


 普段はまるで悪魔のように振舞うイオン兵も、戦争さえなければ、笑い、怒り、そして時には合いを語り、別れの時には悲しみに涙するただの人である。

 たとえ今は憎むべき侵略者であったとしても、故郷に帰れば、家族や友達、もしくは愛する誰が彼を待ちわび、ただ平穏と幸せな日々を願うだけの善良な一市民なのだ。

 そのことを思い知らされた貧民外の住人は、複雑な気持ちで彼らを見、彼らを本来の姿へと戻してしまったた吟遊詩人の力量に素直に尊敬の念を向けた。


 だが、彼らは知らなかった。

 これが彼らにとって、決して忘れられなくなる激動の日々の、ほんの始まりに過ぎないことを。


 その動乱の始まりを告げる鐘は、なぜか馬車を牽く巨大な黒牛の形をしていた。


「なんだ?」

 表から聞こえてくる騒がしい音に、音楽に聴き入っていたイオン兵たちは不満げな顔でドアの方に首を向けた。


 最初に入ってきたのは、小柄な女性二人組。

 真っ白なローブを頭からかぶった少女を先頭に、ボーイッシュな衣服に身を包んだツインテールの12~14歳ぐらいの気の強そうな少女がその後に続く。


「……お嬢ちゃん、ここは子供のくるところじゃないって知ってるか? 間違ってこんなところに来ちまうと、こわーいオジさんに食われちまうんだぜ? こんな風にな!」

 入り口近くにいたイオン兵が、酒臭い息をそんな台詞と共に吐き出しながら、粘つくような視線を向けてツインテールの少女に手を伸ばした。

 

「おっと、そこまで」

 少女達の後ろから手を伸ばし、イオン兵の腕をとめたのは、見上げるような金髪の大男だった。

 いや、むしろ見上げるほどという表現では生ぬるい、まさに雲をつくような高い上背。

 ゆったりとした衣服がパンパンに膨れ上がるほど盛り上がった筋肉。

 その要塞のような体の上には、彫りの深い顔が巨木のような太い首でがっちりと固定されている。

 そして、その顔は真っ赤な鉢巻のようなマスクで覆い隠されていて、なんとも近寄りがたいオーラが漂っていた。


 ……変人だ。 ……変人だな。


 奇しくも、この戦争が始まって以来、初めてイオン兵とモスカータの住人の心が一つになった瞬間だが、とうの本人はその反応に不満を隠せない。


「これでも、自分の領地じゃ結構人気なんだがなぁ……」

 空いているほうの手で、所在無げにぼりぼりと掻くのは、言うまでも無くプロレス好きな筋肉天使ドミニオ。


「まぁ、文化の違いってやつじゃないですかー? 私はけっこうかっこいいと思いますよ?」

 そして白ローブの少女こと、顔を隠すような衣装に身を包んだシアナが、穏やかな声でそっとフォローを入れる。


「やっぱりドミニオさん、うちのミノ兄と何か似てるわ。 微妙にかっこいいの基準がズレてるあたりとか、まさに同類ね」

 呆れたような声をあげるのは、ミノルの妹アイであった。


「ほんと、いろんなところがそっくりだけど、うちの馬鹿親父の隠し子ってオチはないでしょうね?」

 苦笑いを浮かべながら、アイはドミニオのわき腹を軽く小突いてそんな軽口をたたく。

「時々ミノルを弟のような感じることはあるが、それはありえんな。 私の父はフランス系のメキシコ人だし、母はスペイン系のアメリカ人だから、これでも生粋のヨーロッパ系白人(コーカソイド)だ。 体格や骨格は別として、ミノルの顔はどう見ても東洋人だろう?」

 やや残念そうな面持ちで、ドミニオは軽く肩をすくめた。


「お、おいそこの変態! いい加減に手を離せ! 痛いんだよ!!」

 その会話を打ち切るように、横からイオン兵が悲鳴交じりの声をあげる。

 いまだにドミニオに掴まれていたらしく、体ごと反動をつけてドミニオの手から逃れようとするが、万力どころかビルの土台のようにガッチリと掴むドミニオの指は微動だにせず、まるで人の手から逃げようとするバッタのように非力で哀れな存在だった。

「変……態?」

 ドミニオの眉が、不機嫌そうに山を描く。

 だが、彼が何かするよりも早く、そのドミニオの前にアイが立ちはだかり、髭面のイオン兵にその指を突きつけた。


「そこの髭面。 解ってないようだから教えてあげるけど、あたしに手を出さなかったことを、あんたはむしろドミニオさんに感謝すべきだったわ」

 いえ、今からでも思い知らせてあげましょうか?

 そう呟きながら指を鳴らす。

 その瞬間、アイの前に立っていたイオン兵の男の目が虚ろに染まった。

「お、おい、どうした?」

 心配する仲間を無言で振り払い、男はアイの前にユックリと跪く。

「……この度の拝謁、誠に光栄にこざいます。 我が主よ」

 いったい何を言っているのだろう?

 周囲の人間が訝しげに様子を伺う中、アイはにっこりと微笑むと。

「じゃあ、自分の首を絞めて死になさい。 国王命令よ」

 アイの唇が台詞をつむぐなり、ヒゲ面のイオン兵は恍惚とした表情で自分の首に手をかけた。

「おい、何をしている!」

「じゃ、邪魔……するな……国王の命で……ある……ぞ……ひひ……き、きもちいい……」

 その狂気に満ちた喜悦の笑顔に、イオン兵の背中に冷たいと汗が流れる。

 そして、そのアイの後ろに立つドミニオは、紳士然とした微笑を浮かべると

「いささか趣味が悪い。 その辺にしてやれ。 イオン国の兵士よ、私の寛大さに泣いてひれ伏すが良い」

 ドミニオはその人差し指を親指でしならせると、勢い良く前に向けてはじいた。


 ドンっ!

「「うぎゃぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ」」

 その瞬間、ドミニオの指から生まれた衝撃波が、目の前にいたイオン兵数人を纏めて弾き飛ばす。

 同時に自分の首を絞めていた兵士も意識を失い、白目をむいて口から涎を垂れ流していた。

 少なからず怪我をしたとは思うが、ともあれこれで死ぬ事はあるまい。


「邪魔しないでよー 今から一人ずつ自殺に追い込む予定だったのに」

 そして死ぬ寸前に正気に戻すはずだったのに。

 壁に叩きつけられたイオン兵たちが全員気を失ったのを確認すると、アイは面白くもなさそうな顔で肩をすくめた。

 そして、様子を見守っていたイオン兵達に向き直りニヤリと笑う。

「ねぇ、今度は貴方たちが遊んでくれる?」

 ガタン

 アイの近くに座っていたイオン兵が、青い顔で席を立ち、剣を引き抜く。

 それを合図に、他のイオン兵もまた、巣を攻撃されたスズメバチのように殺気を帯びた面立ちで席を立ち、気が付けば全員が臨戦態勢を整えていた。

 ――殺らねば殺られる。

 まだ十代の少女から漂う妖気に当てられ、大戦の勇士たちの背中に冷たい汗が流れ落ちた。

 

 だが、

「どけ! 邪魔だし目障りだ。 入り口の前で突っ立っている馬鹿は踏み潰すぞ!!」

 地獄の底から響くような、ドスの効いた声に振り向くと、そこに立っていたのはこれまた見たことも無いほど巨大な……黒牛。

 しかもまとう殺気が尋常ではない。

 触れるだけで、目に、肌に痛みが走る。

 恐怖のあまり目を背けようとしても、体がこわばって動かない。

 ダメだ……こいつはさっきの妖女と比べても比較にならない化け物だ!

 なんでこんなモノがこんなところに存在しているのだ!?


 黒牛から漂う殺気が実体化し、黒い煙のように部屋を包む中、全員が本能的に理解した。

 このままここにいたら死ぬ。


 どうやって逃げようか?

 全員がそう考えて沈黙のままじっと黒牛の様子をうかがっているのだが、黒牛はそれを敵対のみなしたのか、身にまとう殺気をさらに強める。


「なんだお前ら。 俺に喧嘩を売る気か? むろん、確認なんざしなくても、俺の身内に刃物を向けたって事はそういうことだよな?」

 その声は、なぜかその言葉に反して激しい怒号ではなく、いっそ涼やかなまでに爽やかであった。

 ここで牛島家および、彼の住む栄華諸島全域での常識を一つ記そう。


 ……ミノルの身内の前で殺気を放ってはいけない。

 なぜなら、身内に手を出されると勘違いしたミノルに、全力で削除されるから。


 まるで激しい地震がおきたかのような局部的な音と震動。

 それが黒牛の筋肉が怒りで震える震動だと気付いたとき、その惨劇は始まった。

「……シネ」

 手近な兵士を角で引っ掛けたミノルは、首の力だけでその兵士を投げ飛ばす。

 血肉を供えたその弾丸は、無残な悲鳴を上げながらボーリングの球のように周囲の兵士を巻き込んで店の壁を消し飛ばした。

 あっけに取られる生き残りの前に、小型車よりも巨大な黒い塊が視認できないスピードで襲い掛かる。


 ドスッ! ベキッ! ズドッ!


 目を覆いたくなるような、鈍くて重い音が三度ほど響くと、もはや動くものは誰もいなくなった。

 ちなみに音一つにつき、数十回の攻撃が行われているのだから、おそらく移動スピードは音速を超えているに違いない。

 当然、その被害のレベルも尋常ではない。

 中には手足の千切れかかった者や、白目をむいたままぐったりと横たわって、すでに死んでいるのではないかと思うものまでいる。


 ふんっ


 化け物と呼ぶ事ですらおこがましい黒牛――封印状態のミノルは、勝利の雄たけび代わりに鼻息を一つ吐くと、

「……身分をわきまえろ、虫けらが。 命だけは助けてやるが、二度は無ぇからな」

 心臓が縮み上がるような声で恫喝の言葉を叩きつけた。

 その瞬間、黒牛の蹄を中心に黒い波紋が地面を走る。

 波紋は舞う気に触れて変色するように鮮やかな緑に変色すると、倒れて動かなくなったイオン兵の体を包んだ。

 

「な、なんだこりゃあ!?」

 見物人の口から、思わずそんな声が洩れる。

 彼らの見る前で、腕のちぎれたイオン兵の体にメリメリと音を立てて新しい腕が生え、首がおかしな方向に曲がった兵士の頭が正常な位置に矯正された。

 おそらくそれは治癒の奇跡というヤツなのだろう。

 だが、それは癒しと呼ぶにはあまりにも生々しくて、いっそ吐き気を覚えるほどに暴力的な光景だった。

「「ぎゃあぁぁぁぁぁぁぁぁぁあ!!」」

 かなりの痛みを伴っているのか、癒されているはずのイオン兵士の口から断末魔のような悲鳴が上がる。

 あまりにも凄惨な光景に、婦女子は恐怖で意識を失い、男たちはひたすら顔を青ざめるのみ。

 たとえ命を救われるのだとしても、こんな癒され方は御免被る。

 見ているだけで夢に出そうな、まるで悪魔のような所業だった。


「破壊と再生ですか。 まさに破壊神シヴァの化身に相応しい見事な演出ですね、先輩」

 声も出ない民衆の間を掻き分けて出てきたのは、この騒ぎにも関わらず、ずっと竪琴を引き続けていた詩人の男。

 今はその手を休め、今度は竪琴でファンファーレのようなフレーズを高らかに奏でると、片手を挙げて黒牛の方に挨拶をよこした。


「ゲーム音楽のファンファーレかよ。 相変わらずふざけた趣味だな」

 詩人の手招きに気付いた黒牛は、その前まで面倒そうに歩み寄ると、どっかりと詩人の前に座り込む。

 そして、面白くもなさそうな口調で周囲には理解できない台詞を吐き出した。


「向こうの人間界では結構有名なゲームのフレーズなんですよ? 最近はオンラインゲームに手を出して人気が落ちているようですけどね。 ちなみに何かリクエストは?」

 その泣く子もショック死しそうな凶悪な気配にも、詩人は顔色一つ変えず、むしろニッコリと微笑んで、黒牛に尋ねた。

 その仕草に伴って、癖の無いハニーブロンドの長髪がサラリと揺れる。

 その音すらも音楽的で、その仕草だけで彼の周囲から惨劇の血生臭さが消えてしまったような、そんな錯覚でですら感じてしまう。


「なら、ラヴェルのボレロを」

 ほんの一呼吸ほど沈黙しただろうか? 詩人の美しい顔を見下ろし、黒牛は尊大にそう言い放った。

 とたんに、詩人の顔に苦笑いが浮かぶ。

「その曲を竪琴一つでやれといいますか? 相変わらず鬼ですね、先輩」

 それは、同じフレーズを何度も違う楽器でアレンジを加えながら淡々と奏でる、オーケストラで演奏してこそ栄える曲だ。

 竪琴一つで演奏するなど、無茶な注文もいいところである。

「おう。 なにせ嫌がらせだからな。 あと、どうせ待ち合わせをするなら、もう少しマシなところを指定しろアヤモリ。 こんな場所だと悪目立ちするだろうが」

「先輩なら、どこにいたって悪目立ちするでしょ? ならば、自分の音楽を奏でたい場所を指定してもいいじゃないですか」

 ニヤリと笑うと、ミノルは目を閉じて、難しい顔で曲のアレンジを思案するアヤモリと呼ばれた詩人の演奏を待ちはじめた。


「もー ミノ君。 せめて後片付けぐらいしてよね」

 その後ろから、声をかけてきたのは、フードを被った小柄な少女。

 不満やるかたないといった感じで腰に手を当て、なにやら小声で祈りの言葉を囁くと、おそらく何らかの魔術が発動したのだろう……砕けた壁や床がみるみる元の姿を取り戻してゆく。

「んな物、ここにいる兵士共に弁償させりゃいいだろ! 面倒な」

「これだからミノ君は世間知らずだって言われるのよ。 その修復が終わるまで、この店が営業できなくなるでしょ!」

「誰が世間知らずだ! あぁ?」

「私の前にいる使えない黒毛和牛だけど何か?」

 すごむミノルに対し、シアナは平然と胸を張り、あまつさえその前足に蹴りを入れる。

 ……うひぃっ!

 この後の黒牛のリアクションを予想して、周囲の観衆から悲鳴が洩れる。

「テメェ、調子に乗るなよ? 俺がその気になったら、お前なんざ一瞬で塵になるってわかってるか? おい」

「どうぞ、ご自由に? ミノ君に何か出来るとは思わないけど。 私、その程度には愛されている自信あるのよ」

「……なっ!?」

 その台詞に、黒牛が目を見開き、コメディーかと思うぐらい見事に硬直する。

 ――ぷっ。

 そのとき、誰かが思わずふきだした。

「ぶぶっ……ぶはははは! たまらん!」

 野太い声で笑い出したのは、覆面姿の筋肉男こと、ドミニオ。

 その音につられたように、一人、また一人と耐え切れずに笑い転げる。

「ぷははははは! 結局、女の子に負けるのかよ! ラブコメじゃねぇか!!」

 気付いた時には、殺伐とした酒場が爆笑の渦に包まれていた。

「お前ら……いい加減にしないと、本気で暴れるぞ」

 恐怖の大魔王が、ヘタレに堕ちた瞬間だった。


「はい、ご静粛に。 リクエストの曲は今後の課題とさせていただきまして、まずは一曲ご清聴願います」

 詩人は一つ頷くと、流れるような指の動きで、明るくも荘厳なメロディーを奏でだした。


 ――バッハのカンタータ。

 まるで神の楽園を感じさせる優しい音色に、その神の僕たるドミニオが笑顔を浮かべ、街の住人は今までの演奏が彼にとって肩慣らし程度であったことを知る。

 生み出された音の一つ一つが輝く粒となって、この世界を陶酔の波動で満たしていった。

 それはまさに、人の心を別世界の至福の世界へと導く聖なる儀式。

 人々はただ呼吸をすることすら忘れ、その音楽の導く世界に引きずり込まれてゆく。

 閉じた目の前に楽園の風景があふれ出し、すべての悲しみと苦しみを埋めるような至福の波は、法悦以外の何物でも無い。

 まさに、奇跡のひと時。

 気が付くと、その目からはとめどなく涙が溢れ、ミノルやアイといった召喚獣とシアナを除く、その場にいる全員が地面に跪き、感動に打ち震えていた。


「見事なものだな。 褒めてやろう、アヤモリ」

 ニコリともせずにミノルがその演奏を評価する。

「珍しいですね、先輩に褒められるなんて」

 だがその反応は予想済みなのか、アヤモリの顔には余裕の笑みがあった。

 次の瞬間、黒牛は弾丸のような勢いで詩人に体当たりを仕掛けると、詩人はそれを前もって知っていたかのような動きでヒラリとかわす。


 ……なぜに?

 突然の展開に、周囲の人間は、皆おなじ台詞を心の中で呟いた。


「やかましいっ! お前、俺が唯一神のエネルギーで蕁麻疹おこすのは知っているよな? 今すぐ天国に送ってやろうか? あぁ?」

 バッハの作る音楽は、そのほとんどが唯一神を讃える教会の音楽である。

 ましてや、カンタータはその讃美の曲の代表格でもある名曲だ。

 アヤモリの腕を持って奏でれば、周囲の者には至福でも、ミノルにとっては体を蝕む猛毒となって当たり前。

 それを証明慰するかのように、ミノルは全身の毛を逆立てて、アヤモリの金色の頭に噛みつこうと歯を剥きだしにした。


「やだなぁ、ちょっとした悪戯じゃないっスか、先輩。 それより、何か自分に頼みごとがあるんじゃないんですか?」

 その攻撃をヒラリと潜り抜け、アヤモリは苦笑を浮かべながら竪琴を袋に仕舞いこんだ。


「ふん、この不心得者め。 神であるこの俺様のために、蟻のように働くことを許してやろう。 肥溜めに頭を突っ込んで歓喜に打ち震えるがいい」

 似合いもしない尊大な口調で、ミノルは失礼な冗談を口にすると

「で、相方はどうした? シアナの知人って事は、今はあのミュシャとか言うウサギ娘に召喚されているんだろ? いまごろ人の多さに震えてるんじゃねぇのか?」

 キョロキョロとあたりを見回して、アヤモリの召喚主の姿を探す。

 シアナの後輩である召喚師ミュシャは極度の人見知りであり、人の多いところに出るとすぐに倒れてしまうのだ。


「とっくに人の多さに当てられて、今は宿の部屋で寝込んでます。 それよりも先輩、一つ気をつけることが」


 だが、その言葉が一瞬途切れる。

 そしてアヤモリが表情を引き締めて何かを忠告する前に、酒場のドアが激しい音を立てて開け放たれた。

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