第二十八章:決戦!【黒毛和牛】vs異常気象
それは夜も遅く、満月も西の空に大きく傾いた頃であった。
ドヴアーラカーの街の山間部に程近い大きな屋敷に、何かが破壊される大きな音が響き渡る。
「……ふが?」
屋敷の主がベッドから起き上がると、そこには二人の男が刃物を突きつけて主の寝顔を覗き込んでいるところだった。
「ふ……ふがががが!?」
ドスッ
鈍い音を立てて、主の頭の横スレスレに鋭い刃物が刺さる。
「……まったく、これだけの異常事態に、当事者が大イビキとは。 殺意すら沸くな」
口元をヒクヒクと怒りに震わせながら、神人Cが殺意のこもった視線を向けると屋敷の主……この街において鉱山王とすら呼ばれた男は、全身に冷や汗をかきながら息を呑んだ。
「無駄口を叩くな。 さっさと連れて行くぞ」
神人Bが冷ややかな口調でそう告げると、神人Cは鉱山の主の中年太りした体を片手で軽かる戸持ち上げる。
「き、きさまら! 私をどうする気だ!?」
空中でもがきながら、ようやく現状を理解すると、中年男は尊大な口調で神人Bに問いただした。
「どうする? 教えてやっても良いけど、小便でも漏らされたらたまったもんじゃないぜ?」
神人Cがそう嘲笑うと、
「いいじゃないか。 籠に閉じ込めてそのまま密閉してしまえば。 臭って困るのはその男だけだ」
神人Bは冷たい微笑みを浮かべて部屋の外に歩き出した。
「違い無い。 それよりさっさと運んじまわないと黒毛和牛にどやされちまう。 まったく皮肉なものだな。 こいつがこの街の命運を握る切り札とはね」
「な!? なんのことだ!?」
神人Cの口にした単語の中に、ミノルの渾名を見つけ、男は薄明かりでもわかるほど青ざめた。
まさか、こいつらは神殿の執行官か!?
傭兵をけしかけて関係者をさらおうとした件といい、鉱山における違法な採掘といい、後ろ暗い事には事欠かない。
……いったい、どの悪事がバレたのだろう?
だが、この男は『切り札』といわなかったか?
戸惑う中年男に、神人Cはニヤリと底意地の悪い顔を向けて、彼が震え上がるような理由を口にした。
「何をするかと聞いたな。 お前はエサだよ。 とびっきりの怪物をおびき寄せるためのな!」
「ミノ君。 神人Bから伝言。 ターゲットを確保しましたって」
「よし、そのままこっちに連れてこいと伝えろ。 できるだけ早くにだ」
シアナの報告に、ミノルは頷いて作業を急がせる。
彼らの姿は、オチュー村とドヴアーラカーの街を繋ぐ険しい街道にあった。
花々の咲き誇る丘の上に陣取り、モルディーナの変化した龍を迎え撃つべく様々な準備を行っている彼らは、魔龍の進行ルートに幾重にも防衛線を築き、その襲撃に備えていた。
ミノル自身もシアナの描いた魔方陣の上に鎮座し、その強大な気をエネルギー源にした風の魔術を発動中である。
そして上空の気流に干渉して、敵の移動を阻んでいるのだ。
「お前もなかなかえげつないな。 敵のターゲットであるとはいえ、人間を怪物をおびき寄せるエサにするか?」
難しい顔をして鎮座するミノルをからかいながら、聖別された槍を携えドミニオがやってくる。
「やむを得ぬ選択と言ってくれ。 それに、あんただって同じ事するだろ?」
不機嫌に耳を伏せてミノルが顔をしかめた。
「主は百匹の羊のうち、一匹でもはぐれ迷うならば、99匹を山に残してこれを探しに行くぞ?」
ドミニオが聖書の一説を嘯くと、ミノルはあきれたようにため息をつく。
「マタイの福音書か? ロクな信仰心もないくせに妙なことだけは知ってるな、このプロレス馬鹿」
心にも無いことを……と避難の目線を浴びせながら、ミノルは意趣返しに軽口を叩いた。
実は奉仕者が召喚獣となる神の魂魄と契約を結ぶとき、信仰心はあまり重要ではない。
むしろお互いの性格や価値観がどれだけ近いかが問題となる。
むろん、強い信仰はそのまま性格や価値観を神に近づけるのだが、中にはドミニオのように熱心な信仰者でなくても、相性と魔力の器だけで上位の神々と契約を結んでしまう者もいるのだ。
「残念だが、ヤツはあんたの神を敬っていない。 むしろ他人に施しを与えなかった山羊のような男だ」
ミノルが、同じマタイの福音書において、『困っている人に、何の手も差しのべなかった者たち』を山羊に例えたことを引き合いに出すと、ドミニオは意外といわんばかりに目を見開いて吹き出した。
「そりゃ最悪だ。 愚かな山羊はその行いゆえに狼に食われて地獄に召されるであろう。 かくあれし」
笑いながら、ドミニオはミノルのシャツを捲り上げ、一部白く変色した毛をなでた。
そこには、ドミニオが仕えるべき主の姿が克明に記されている。
「なに人のシャツ捲ってるんだよ? 寒いだろ!?」
本来暖かい地域の生き物である牛は、寒さに弱い。
ぶるぶると震えながら、ミノルは尻尾を振るってドミニオを追い払おうとする。
その必死な表情を笑いながら、ドミニオはヨハネの福音書の一説を心の中で唱えた。
……わたしは良き羊飼いである。
……良き羊飼いは、羊のために命を捨てる。
それは、命を引き換えにしてでも誰かのために尽くす誓いの言葉であった。
「おっと、そういえばお前は羊でも山羊でもなく、牛だったな」
急に訳のわからないことを言い出したドミニオを、ミノルは憮然としてにらみつけた。
「よくわからんが、牛で悪かったな」
「そうだな、牛のほうが食いでがあって、怪物の生贄にはいいかもしれん」
「茶化すなよ、ドミニオ。 ラメシュワールの言葉が正しければの話だが、最悪でも、あの男が怪物に食われてしまえば、アレは目的を失って大人しくなるだろう。 その後のことはしらんけどな」
できることなら被害者など出したくは無いが、万能ならぬ身としては打てる手段は何でもやらなくてはならない。
一匹の山羊のために残りのすべての羊を犠牲にすることはできないが、ミノルはせめてその山羊のため、狼の前に立つことで自らにケジメをつけるつもりだった。
「山羊は山羊でもアザゼルの山羊か。 無事に荒野の果てまで我々の罪を運んでもらいたいものだ」
アザゼルの山羊とはユダヤの古い風習で、自らの罪、民衆の罪をすべて神の前で告白し、山羊にそれを背負わせた後、沙漠にその山羊を放逐すると言う儀式だ。
「で、そっちのワンコロの尋問は進んでいるのか?」
ワンコロとは、むろんアンソニーのことである。
敵の正体を探るために、ラメシュワールともども尋問にかけられているのだが、ラメシュワールは何をされてもニヤニヤと笑うばかり。
したがって、その詰問の矛先は、ラメシュワールの召喚者であるアンソニーのほうに向かうこととなる。
だが、そのアンソニーもまた石のように押し黙っているのだ。
「ダメだ。 あれもなかなかに頑固だからな。 まともな方法では口を割ることは無いだろう」
やれやれといわんばかりに、ミノルが軽く肩をすくめる。
「まぁ、なんだ。 複雑な気分だろうな。 お前の飼い犬が、昔の飼い主に尻尾振ってるんだから」
「言うなよ。 これでも結構傷ついてるんだぞ? それに俺はただ預かっていただけだ。 アイツの主人は今も昔もただ一人だよ」
ミノルが力なくため息を吐くと、ドミニオは元気付けるようにその肩を叩き、その手を振り払われると、今度は手を上げて降参のジェスチャーをした。
「……私が悪かったよ。 とりあえずそっちは敵の進攻をできるだけ遅らせてくれ。 こっちの迎撃体制もそろそろ整う」
その視線の先では、助祭たちが一定の距離を置いて、円を描くように移動しながら祈りを捧げている。
一種の結界であり、結界の中の術者の魔力を底上げするための儀式だ。
「……やれそうか?」
現在も直接敵の力を押さえ込んでいるミノルとしては、その場に満ちるエネルギーでは心とも無いと言うのが正直な感想だが、戦いとは力だけで決まるものではない。
この戦いの指揮官であるドミニオの顔を見ると、その視線に耐えかねたように苦い表情をつくる。
「正直わからん。 さすがに雲を相手にしたことはないからな。 それより、アレの正体について、お前は心当たりが無いのか? 情報が足りなくて戦術の組みようが無い」
今も、ララエルが端末を相手に情報戦を繰り広げているが、その表情を見る限り戦況は良くないようだ。
そもそも、相手はヒンドゥーの神の作り出した魔物である。
異教に非寛容な唯一神のデータベースでは、おそらく満足な情報を得るのは難しいだろう。
そもそも多神教のヒンドゥー教えは、神の数も魔物の数も桁外れに多い。
「確信はないんだが…… 阻む者じゃないかと思う」
自信なさげに口ごもりながら、ミノルはその恐るべき名を口にした。
「ヴリトラ?」
「古代インドの叙事詩、マハ・バーラターに出てくる怪物だ。 リグ・ヴェーダにも記述があるんだが、トゥヴァシュトリの化身であるラメシュワールが関わるなら前者だろう」
双方ともに、インドにおいてもっとも重要な聖典である。
マハ・バーラターが纏められたのだおよそ4世紀、リグ・ヴェーダにいたっては紀元前1000年と言われているのだから、とんでもなく古い話だ。
「ふむ。 で、何か対策方法に思い当たることは無いのか?」
僅かな情報でも欲しがっているドミニオとしては、藁にでも縋りたい気分だったのだろう。
真剣な眼差しでミノルの目を見つめる。
「俺も思考がまとまってないから、整理するついでに聞いてくれ」
そう断りを入れると、ミノルは記憶を辿りながらその物語の要点を説明しはじめた。
「……一番古いリグ・ヴェーダの記述では、神々の敵によって生み出されたヴリトラと言う旱魃の悪魔がいて、聖者の骨から工芸神トゥヴァシュトリの作った金剛杵という武器によって、インドラという神がこれを倒している」
もっとも、そのために大量の酒を飲ませたり、娘を嫁に出して油断させたりと、一説によればインドラの悪辣な行動も記されているらしいのだが、実直なドミニオの性格が気を悪くすると思ったミノルは、あえてその部分を割愛した。
「たしか、唯一の弱点は口だと記述されていた。 少なくともヴァジュラは稲妻の象徴だから雷が効果的じゃないかとおもうんだが……」
かなり有効な対策なのだが、ミノルはそこで口を濁した。
「たしかトゥなんとかという奴は、ラメシュワールが契約している神だろう? おかしくないか?」
その理由に気付き、ドミニオは神話と現状の矛盾点を指摘する。
「問題はそれなんだ。 それから1500年ほど後に書かれたマハ・バーラターによると、リグ・ヴェーダでは味方だったトゥヴァシュトリが、今度は我が子をインドラに殺された事を恨み、水に触れ、供儀の炎からヴリトラを作りだし、インドラを退けたとある」
ミノルは、矛盾するふたつの古い記録を示し、困った顔でドミニオを見つめた。
「なんだと? まるで立場が逆ではないか!?」
その内容にドミニオも驚きを隠せない。
普段であれば、無関心に聞き逃す程度の内容だが、当事者となればそうも言っていられない。
正しい情報とは、それだけで立派な武器であり、間違った情報とはそれだけで致命的な弱点になりかねないのだ。
「そうなんだ。 トゥヴァシュトリは両方の神話に登場しながらも、逆の立場を取っている。 俺はこの奇妙な変化が気になってしょうがないんだ」
ミノルも頷いて話を進めた。
「ここから先は、俺の世迷いごとだと思って聞いてくれ」
そう断りを入れると、ミノルは目を閉じてその推論を頭の中で纏めた。
「……この二つのヴリトラは同系列の別物で、後者のヴリトラは最初のヴリトラを元にした改良版なんじゃないかと思ってるんだ。 その証拠に、マハ・バーラターでは退治の方法まで違っている。 ヴリトラを退治するには、ある一定の条件がひつようなんだ」
目を閉じて、ミノルはできるだけ正確に、その古い伝承を思い出すと、その内容をゆっくりと口にする。
「乾いた者も濡れた者もヴリトラを傷つけることはできない。 木、石、金属によっても傷つけられない。 昼も夜も攻撃してはならない」
インド神々は、苦行と言う行動や契約によって、このようなさまざまな物理法則を無視した摂理を獲得することが多い。
「まて! それじゃどうやって倒すんだ!?」
その無茶苦茶な条件に、ドミニオは頭をかかえた。
「色々と説はあるらしいが、俺の知っている話だと昼でも夜でもない朝の時間帯に、海の泡をまとったインドラが、眠っているヴリトラを偶然見つけ、その喉を突いて倒したとされている」
ミノルが神話の結末を告げると、ドミニオは案の定嫌な顔をする。
「だまし討ちか……感心できんな」
「まぁ、インドラはこのあと罪の意識で頭がおかしくなったらしい。 自業自得だがな」
その様子に苦笑いしながら、ミノルが話にオチをつけた。
「それよりも、問題がいくつかある」
表情を引き締めて、ミノルはドミニオに向き直った。
「……聞きたくないが言ってみろ」
これ以上の問題点は聞きたくないのが本音だが、聞かないわけにはいかない。
「朝までシアナが持たない。 俺の気を暴風に変換する作業は、あいつにとって負担が大きすぎる。 平気なフリはしているが、たぶんあと2時間が限度だ」
ミノルの気を風に変換する作業はシアナにしか扱えない。
ドミニオがミノルとその役目を交代するという手段もあるが、敵の力が未知数である以上、今回の作戦の主力であるドミニオのエネルギーは温存したいところである。
ついでにドミニオは、風よりも炎を扱うことに長けていた。
言い換えれば、風の魔術は苦手なのだ。
「つまり、我々には神話をなぞらえることすらできないということか」
苦々しくため息をつく。
だが、そのドミニオに向かって、ミノルはさらに難題を投げかけた。
「次に……これが一番の問題なんだが、あれがヴリトラであるとしてだ。 どこが口で、どこが喉だ?」
その視線の先には、都市を襲う光化学スモッグのような黒い雲が漂っている。
「……ジーザス」
ドミニオは、両手で顔を押さえてそう呟くしかなかった。