第二十四章:生贄の乙女と【黒毛和牛】黒い円環
【士師記 / 11章 30節~31節:エフタの誓いの言葉】
アモンの民を我が手に渡したまえ。
アモンとの戦いから無事に帰るならば、家の戸口から我を迎えに出て来る者を主のものとし、私はその者を焼き尽くし生贄として捧げん。
モルディーナが目を覚ましたとき、そこは高価なオリーブ油の臭いが息が苦しいほど充満ていた。
「これは……いったい何なの!?」
訳のわからない光景にモルディーナが体を起こそうとするが、手足が巧く動かない。
首を捻って手首を確認すると、その両腕は、指先の感覚が麻痺してしまうほど荒縄でキツく縛られていた。
どうやら、硬いベッドのようなものの上に手足を縛られたまま寝かされているようだ。
「お目覚めか? エフタの娘よ」
慌てふためくモルディーナの耳に、厳かな声が降ってきた。
聞き覚えのある声に、その声のする方向へと首を向けると、そこにいたのは……
「司祭……様?」
モルディーナを見下ろしていたのは、この村に駐留している司祭だった。
「まずは、おめでとうと言っておこう。 君は無事に神の試練をなし終えた」
状況の飲み込めないモルディーナに、司祭は穏やかな笑顔でそう言い放つ。
だが、その言葉と今の状況がどうにもかみ合わない。
なぜ自分はこんな所で生贄の子羊のような状態になっているのだろう?
「どういうことなのでしょう?」
冷たいものを背中に感じながら、モルディーナは体を起こして、おそるおそる司祭に質問を投げた。
「畏れることは無い。 君がこの村を出て、異教の神に助けを求めたのは、すべて神のご意志だと言う事だ」
司祭は、短く十字を切って神に感謝の祈りを捧げる。
だが、なぜ神が異教の支配する地域へと自分を派遣したかについては、まるで説明がされていない。
「訳がわからないのですが」
なにか自分はとんでもなくまずい状況にいるのでは無いかと不安げな表情を浮かべるモルディーナに、司祭は少し思案したのち、遠くを見るような目をして口を開いた。
「……少し昔の話をしよう。 そう、あれはかれこれ4年ほど前の話だ」
そういいながら、司祭は小さく火の天使の名を呟きながら、手に炎を生み出し、七又に分かれた燭台に灯し始めた。
「この村の隣には、君も知っているように多くの悪魔が存在している。 そしてその日、私の前に恐るべき悪魔が訪れたのだ」
そう語る司祭の顔は、下からロウソクの明かりに照らされて、幼い頃に読み聞かせられた神曲に登場する悪鬼のように見えた。
「その悪魔は、隣町を邪悪な教えに染めたばかりか、この村をも手中に収めんと、一柱の精霊を伴ってやってきた」
……違う。
その街にいたのは、悪魔ではない。
ミノルの話が本当ならば、その当時隣の領地は鉱毒に侵されていて、あまりの酷さに神が逃げ出したという話だったはずだ。
そのとき、モルディーナの脳裏に、召喚師らしき魔術師と、少女を抱えた一人の青年の姿がフラッシュバックのように映りこんだ。
……これは……なに?
「悪魔は、その精霊をこの村におき、異教の橋頭堡(戦線にもっとも近い防衛施設)としようとしたが、そのような邪悪な輩を神の領域に据え置くなど言語道断!」
憤る司祭の言葉と、ともに頭に浮かぶ幻が鮮明さを増す。
モルディーナの目に映るのは、毒に冒されて瀕死の状態になった少女。
理由はわからないが、まるで誰かの記憶が流れ込むかのようにはっきりと理解できる。
彼女は隣の町の水を浄化していた精霊だ。
毒を浄化していた精霊が毒によって力尽きてしまうとは……当時の鉱毒がいかに酷かったかを想像し、薄ら寒いものを覚えた。
そして、その少女を休ませるためにこの村に避難させてほしいと嘆願する青年。
おそらく、これが先代の隣町の守護神トゥヴァシュトリなのだろう。
医神であるミノルならともかく、工芸の神だという彼に解毒の力は無い。
「私は、当時この地を守護していた英霊エフタ様と力をあわせ、この邪悪な霊をこの祠に封印することに成功した」
自分の言葉に陶酔しながら、その業績を高らかに語る司祭。
だが、モルディーナの目にはそのときの本当の様子がありありと映っていた。
嘘つきめ。
この村の司祭……いま、滔々と手柄を語る彼は、異教の神であるトゥヴァシュトリに対して抵抗すらせず、むしろ恭しく卑屈な態度をとり、その嘆願を聞き入れたのだ。
あまつさえ、彼のために村の外れに祠をつくり、そして疲れを癒すためにと祝宴まで用意した。
安心してホッと胸をなでおろすトゥヴァシュトリと水の精霊。
もはや長距離の移動に耐えられないほど弱っていた精霊は、この村に受け入れられなければおそらく息絶えていたであろう。
彼女を安全に運び込める距離にある場所は、すでに毒に汚染されて自分の領地には残っていなかった。
人の願いを聞き入れるあまり、そんな状態になるまで異変に気付かなかったことが悔やまれる。
謝罪の言葉を口にするが、首を横に振ってそれを否定する水の精霊。
もしかしたら、二人は恋人か夫婦だったのかもしれない。
そんな甘い空気が感じ取れる。
だが、そんな二人の前に、立派な顎髭を伸ばした厳つい武人のような男……先代の守護神エフタが現れ、慰問と称してワインを差し出した。
その好意に感謝して、器を受け取るトゥヴァシュトリ。
だが……
その聖別されたワインには、異教の神を滅するための祈りが込められていた。
毒を飲まされ苦悶にのたうつトゥヴァシュトリと、それを嘲笑うエフタ。
その目の前で、泣き叫ぶ水の精霊がエフタの振るう槍の餌食とり倒れる。
危険を察知して、この暴挙を神殿に訴えようと召喚師が部屋から逃げ出すが、その頭上に、司祭が金属製のメイスを振り下ろす。
メキッ……
すでに過ぎた過去の幻であるにもかかわらず、骨の砕かれた鈍い音がモルディーナの耳に生々しく響いた。
……忌まわしき異教の神め、二度とこの世界に戻れぬよう、この地にその魂を封印してくれる!
エフタの声とともに、トゥヴァシュトリの体が、この祠の地面に沈んで行く。
殺されたのであれば、その魂は本来の世界へと戻り、召喚獣としてもう一度この世界に戻ることもできたはずだ。
だが、魂ごと封印されたのでは、永遠にこの地に縛り付けられてしまうだろう。
いつか封印が解ける日が来たとしても、水の精霊はどこかの違う誰かに転生し、自分のことなど忘れて新しい人生を歩んでいるはずだ。
……もう、二度と彼女に会えない。
悔しい。
憎らしい。
……よくも謀ったな。
私は、ただ救いを求めただけだというのに。
煮え返るような憎悪の中で、トゥヴァシュトリの指が震え、最後の力を振り絞ってこの村を呪う。
重く、深く、際限なく呪われよ。
病み、穢れ、神をも殺すまでに黒く染まれ。
その呪力の矛先は、村の産業を支える水車に伸びた。
誰の目にも留まらぬその木目の内側に。
我が呪いは水車となりて、永遠に恨みの言葉を吐き続けるだろう。
その車輪が一巡りするたびに、地獄の底から悪意をくみ上げ、この地を呪うがいい。
そして、その車輪は4年が過ぎた今もなお、回転しながら呪いの言葉を吐き続けている。
未だその存在に気付かれることもなく。
モルディーナは、なぜ呪詛が専門であるはずのミノルがあそこまで扱いに困るような……国を滅ぼすほどの強大な呪詛がこの村に生まれたのか、その理由を理解した。
「だが、そのエフタ様も去年、悪魔の残した呪いにより召喚師の方を失いこの世界に顕現することができなくなってしまわれたのだ」
守護神たるエフタの訃報を、大仰に嘆く司祭を、モルディーナは冷めた目で見つめていた。
……当然の報いだ。
トゥヴァシュトリの呪いは、まずこの領地を守護するエフタに向けられ、その影響で彼の相方である召喚師が命を落とした。
よくあの呪いに3年も持ちこたえたと思う。
そして、エフタを始末し終えた呪詛は、次に司祭を殺すはずだった。
だが、司祭はすでに呪詛への対処として着々と準備を終えていたのだ。
そう、司祭はこの村の人間達を自分の身代わりとなるよう、聖別と称して弾除けに仕立て上げていた。
お前がこの疫病の原因だったのか。
それが……それが神の代理人のすることか!?
次々と頭の中に飛び込んでくる情報に、モルディーナは身が裂けるほどの激しい憎しみを抱いていた。
「そして、この世界を去る前に、エフタ様はこの私に予言を残したのだ」
そんなモルディーナの異変にも気付かず、司祭は両手を広げ、天を仰ぎながら、英霊の残した言葉を口にする。
「間もなく、この地に封じた悪魔が蘇るであろう。 その時は、我が誓いを再現し、必ずや悪魔を焼き滅ぼすのだ……と」
旧約聖書において、士師エフタは敵対するアモンの民を皆殺しにするため、神に生贄を約束した。
自分が帰ってきたとき、一番最初に出迎えた者を生贄として差し出すと。
そして彼を最初に出迎えたのは、彼のたった一人の娘だった。
その誓いを再現するということは、つまり……
「そして、私は生贄の娘に村の外を放浪するような暗示をかけた。 エフタの娘は、友をつれて山を四日間彷徨った後に神の物となったと言うからな」
ようやく理解した。
生まれてから一度も村を出た事の無い自分が、なぜ隣の教区に助けを求めるなどという、破天荒な行動をとったのか、実はかなり疑問だった。
思えば、その直前に、司祭が「医術に長けているとはいえ、隣の異教の神殿を頼るなどあってはならない」と自分に言い聞かせたのは、隣の神殿に頼れば病が治るという思い込みを刷り込むためのものだったに違いない。
そう、すべては仕組まれたことだったのだ。
だが、なぜ自分が?
当然のことだが、自分はこの司祭の娘などではない。
正真証明、今の両親の間に生まれた子供はずだ。
「……司祭様、あなた独身ですよね? 子供なんて一人もいないじゃないですか!?」
教会の司祭たる者、聖職者となった後は女性と交わることが一切認められない。
つまりこの司祭には捧げるべき娘が存在しないのだ!
「もちろんそうだとも。 だが、私はこの村の心の父であり、この村の娘はすべて我が娘である。 特にお前は、この私が村に赴任して最初に洗礼を与えた娘だ。 お前を我が子と呼ぶ事を、神はきっとお認めになる」
魔術において、神話を形式上真似る行為を"見立て"というが、その技術を使ってこじつければ、モルディーナと血縁の無い司祭でも、この条件を満たすことが可能だった。
冗談ではない!
生贄となる娘がいないからといって、勝手に私を自分の娘にするな!!
「わ、私をどうする気ですか!? 神は人を生贄に捧げることを禁じているはずですよ!? 村の人たちにもどうやって説明する気です!」
モルディーナは一縷の望みをもって、司祭にその真意を問うてみた。
だが……
「誰もお前を助けようとはしないだろうよ。 お前の両親も、お前が異教に傾倒した悪しき魔女になったと告げたら、自分から進んでお前を切り捨てた。 この村の疫病を払うために魔女を火炙りにすると告げたら、村の男達も喜んで私に協力した。 ……いまや、村を襲った元凶はお前なのだよ」
モルディーナは、この世には悪魔と呼ばれる神がいるように、神の名を語る悪魔がいることを知った。
「幸いなるかな、モルディーナ。 お前は神に手渡されるが故に」
司祭は、にっこりと笑うと、その手にした燭台を、傍らの積み藁にむけて放り投げた。
聖書には『神の手に渡る』という表現がたびたび現れるが、その意味するところは他でもない。
……『死』である。
「いやあぁぁぁぁぁぁぁぁ!!」
人気の無い祠が真紅の光に彩られ、魂が千切れるかのような女の絶叫が響いた。