第十三章:女心と【黒毛和牛】春の天気は
晴れ渡る空の下、一匹の黒牛が屋根付きの荷台を引いて山道を行く。
その背中には、まだ幼い少女が一人。
普通なら大人がついていなければならないはずなのだが、この奇妙な子供の旅人はたった一人で旅をしているらしい。
牛が暴れだしたら、いったいどうするつもりなのだろう?
荷台を引く巨大な雄牛を見ながら、すれ違う人々はそんなことを心配する。
だが、子供はその心配を笑う。
曰く、
見た目は怖いけど、こんな優しい牛は他にいないから……と。
「そもそもだ。 なんでオレが家畜みたいことをしなきゃならんのだ」
人がいなくなったのを見計らい、そう不満げに漏らす黒牛の顔を、背中に乗った子供……シアナは笑いながら抱き寄せた。
「なに、ミノ君は私と二人っきりなのが嫌なの?」
耳元で囁くと、ミノルはくすぐったそうに首を振るわせる。
あいかわらず耳は苦手らしい。
「お前は嬉しそうだな」
そんなシアナを恨めしげな目で見ながら、ミノルはまだ雪の残る山道を踏みしめる。
二人は、モルディーナを助けた後に、そのまま彼女の故郷を救うべく移動を開始していた。
二人がいるのは目的地であるオチュー村との中間点。
標高2500mを誇るカルコス山麓を貫いて、隣国まで続く街道をたった二人で歩いている。
ちなみに二人っきりでいる理由といえば、気を回したアンソニーがそう手配したからである。
シアナがニコニコと気味が悪いぐらい上機嫌なのは言うまでも無い。
「ミノ君は嬉しくないの?」
「そうだな、仕事でなければこうやってのんびり歩くのも悪くは無い」
素直な感想を口にしたところ、シアナ急に黙り込んでミノルの横腹をゲシゲシと足で蹴りながらふてくされた。
「?」
何ゆえシアナの機嫌を損ねたのかは解らないが、確かに彼女の言うとおり何事も楽しまなければ損だと思ったミノルは、周囲の美しい景色を堪能しわうと目を細めて彼方を見やる。
その視線の先……まだ雪深い山々は霞の向こうに青く聳え、上を見上げればツバメの群れが楽しそうに空を行き交う。
下を見れば雪の間から緑の若草が芽を伸ばし、ところどころ気の早い花が紫の花をのぞかせている。
何気ない風景なのだが、どうしてだろう……自然の風景というものは、常に新鮮な喜びを見るものに与えてくれる。
ありふれていると思うこの景色も常に移り変わり、二度と同じ姿を見せてくれることは無い。
なるほど、ただ歩くだけと言うのは、たしかに人生の損失だ。
ミノルは、路傍の花にむけて謝罪と祝福の祈りの言葉を唱えると、その紫に色付く花を一輪、口で噛み折った。
そのまま、後ろを向いてシアナに差し出す。
「お前の目の色と同じだな」
「……うん」
シアナはそっとその花を受け取ると、その顔を隠すフードを取り去って、春の日差しを照り返す雪よりも、なお白く輝く髪にその花を飾った。
「ありがと、ミノ君。 すごく嬉しい」
そして、幸せそうにニッコリと笑う。
「ばっ、馬鹿。 ただの気まぐれだ!」
シアナから目をそらし、『……くそ、別に見惚れてなんか』とぶつぶつ独り言を呟く。
そんなミノルを幸せな気分で見つめながら、シアナはここ昨日のことを振り返る。
ミノルがどこからともなく拾ってきた少女。
彼女のおかげで、ミノルの注意を独り占めできないのが恨めしい。
ミノルの視線が自分に向いてくれないのが寂しくてたまらない。
彼も義務感でやっていることだろうし、男のする事にいちいち口を出しすれば、鬱陶しい女だと思われるのは理解しているが、それでもこの寂しい気持ちはどうしようもないのだ。
文句ある? だって、それが女って生き物でしょ!?
その逞しい首に抱きついて、恨めしげに爪を立てると、ミノルは何かを言いたげにこちらを向いた。
たぶん、なんでいきなり機嫌が悪くなるんだよと言いたいのだろう。
「……なによ」
「なんでもない。 風が冷たいから、風邪を引く前に荷台に戻れよ」
シアナが不機嫌そうに睨みつけると、ミノルは少し困ったような顔をして、優しい言葉をかけてきた。
そんな男前な台詞をところかまわず撒き散らすから、こっちは苦労するのよ?
……この馬鹿牛。
これ以上敵を増やしてほしくないと、切に願いながら、シアナはフサフサとした鬣に顔を埋める。
ちょっと汗臭い。
「むー ミノ君、ごわごわしてるぅー 徹底的にトリートメントしなきゃ」
「やめろシアナ…… お前がやると化粧臭くてかなわん」
前回、薔薇の香りをつけたのがよほどお気に召さなかったのであろう。
図体はでかいくせに、細かい事を気にする牛だ。
「だーめ。 夫の身だしなみは妻の責任でしょ?」
誰が妻だとげんなりした声を出すミノルを無視し、シアナは櫛と油を取りに荷台のドアを開いた。
「あ、おかえりー」
玄関で掃除をしていた神人Aが、シアナを見て挨拶をしてくる。
「ただいまー ミノ君のトリートメントセット取りに来たの」
荷台のドアを開けると、そこにはシアナの寝起きしている神社の風景が広がっていた。
仙人の使う術に、入異郷と呼ばれる術がある。
この術を得意とした仙人が、壷を使用していたことから、ミノルの流派では壺中天の術と呼ばれるようになった術であるが、ようは異次元空間を作り出して、そこに自分の城を構える秘術だ。
壷の中に入ったらそこに宮殿があったり、岩を叩くとその亀裂の中に見事な屋敷があったりする、まさに御伽噺のような便利な技である。
上級者ともなると、中の使用人まで自分の術で作り出すことも可能だが、そこまでの技術の無いミノルは建物だけを作り出し、自分の配下の神官達を住まわせていた。
つまり……昨日モルディーナが寝泊りしていた神社そのものがミノルの作り出した異次元だったのである。
そんなわけで、現在はその異次元の入り口を一つ増やして、荷台のドアと繋げているのだ。
まるでヤドカリのような牛である。
「で、モルディーナちゃんの様子は?」
「今の所、疲れて寝てるよ」
先ほどショッキングな事があったモルディーナは、そのまま疲れて意識を失っていた。
「そっか。 じゃあ、私はしばらくミノ君とデートを楽しんでるから、邪魔しないようにお願いね?」
「だれもそんな命知らずな真似しませんよ」
ミノルにばかり目がいくので目立たないが、シアナもまた魔術を学んだ術者である。
敵に回せばその辺の一小隊と互角に喧嘩できるだけの実力を備えていた。
「物分りの良い使用人で助かるわー」
「だったら、たまには俺らにも構ってくださいよ、マジで」
見た目だけなら悪くないのに、このカツカツした言動が原因で婚期を逃していることに彼らは気付いていない。
「気がむいたら……ね?」
悪戯っぽく笑って、シアナは自分の部屋へと歩いていった。
村が見えてきたのは、日も少し西に傾いた昼下がり。
村の名物である芋の葉が、風に揺れる中を通り抜けると、木製の粗末な標識が見えてくる。
空にはいつの間にか雲が広がり、風のヒュウヒュウと梢を揺らす。
「寂しい村ね」
シアナがポツリとこぼす。
その言葉どおり、人の姿は絶え果てて、ともすれば廃村のような空気が漂っている。
補充された飼葉や、僅かに残る生活の痕跡のおかげでなんとか人が住んでいると感じる程度だ。
「みんな、病が感染らないように家に閉じこもっているんです」
そう告げながら、モルディーナは先頭を切って歩き出した。
そして街道沿いにある一軒の家の前で立ち止まる。
「ここが私の家です。 中で父が臥せっているんですが……」
何か問題があるのだろうか?
眉間に皺を寄せたまま、モルディーナが意を決してドアを開く。
「ただいま……」
家の中は、明かりをつけてないせいか薄暗かった。
そしてそれ以上にその空気が暗澹としていた。
「い、今までどこに行ってたんだい、ディーナ!!」
おくから出てきた年配のご婦人が、出てくるなりモルディーナを叱り飛ばす。
おそらく何も言わずに出てきたのだろう。
まぁ、隣の教区に助けを求めるなどと口にすれば、引き止められるのは目に見えている。
「ごめんなさい……ちょっと隣の街まで」
「ごめんなさいじゃないよっ! お父さんが倒れたって言うのに、あんたまでいなくなったら……」
そこで、ご婦人が後ろに控えたシアナ達に気付く。
「あの、いったいどちら様で?」
訝しげにシアナ達を見つめるご婦人に、シアナはいつもの微笑みを浮かべる。
「私、お話にあった隣の教区の召喚師でシアナと申しまーす」
「えっ!? ちょっと、隣町って、隣の教区のこと!? 異教徒なの!?」
驚いたご婦人が、目と口をまんまるに開く。
家にいきなり異教徒の、しかも聖職者がきたのだから、驚くなというのが無理だろう。
そのショックがわからないというなら、ある日とつぜん家族が新興宗教の聖職者とお茶をしながら楽しげに会話をしている光景を思い浮かべてほしい。
「その奥にお父様がいらっしゃるんですねー では、お邪魔します」
相手があっけに取られている隙に、シアナはスルリとドアに滑り込んで家の中に入り込む。
「あ、あんたいったい何を!?」
「はい、どいてくださいねー」
面倒を避けるため、シアナは最終手段を行使しようと……そのフードをめくりあげた。
銀の髪が流れ落ち、長い睫に縁取られた深い紫の瞳が見る者の心を捉え、その意識を恍惚のかなたへと運び去る。
「あ……」
あらわになった美的兵器の前に、ご婦人は一瞬で自我を手放した。
「ご主人の容態を見せていただけますか?」
ニッコリと微笑むシアナの前に、ご婦人はただ頷くしかない。
「は……はい」
この笑顔に耐えられるのは、神殿でも上位クラスの聖職者や、ふだんからシアナの素顔を見慣れている神人達ぐらい。
免疫の無い一般人などこの通りである。
その気になれば神をも堕とす……シアナの二つ名『神殺し』の名の由来だ。
原因はミノルがシアナに一目惚れした(本人は認めていない)ことが広く知れ渡ったためである。
もっとも、その意味は『男殺し』と同程度の意味ではあったが、いつのまにか誤解が一人歩きしているため、シアナの名前を聞くだけで震え上がる神殿関係者は多い。
来客の気配を感じたのか、続けて他の家族もどかどかと玄関に駆けつけたが、シアナは容赦なくその美貌を活用して、一瞬で無力化した。
「さてと、問題の患者さんはどこかなー?」
フードを被りなおし、患者の姿を探し始める。
肝心の家族はというと、完全に夢の世界に旅立ってしまい、問いかけてもぼんやりと微笑むだけで役に立たない。
やむを得ず、家捜しをするように一つ一つの部屋を調べると、寝室らしき部屋で臥せっている男性の姿を発見した。
「んーこれは酷いですね。 ミノ君。 これ、なんだと思う?」
男の体には無数のみみず腫れが走り、背中や胸には焼き鏝を押したような酷い火傷が残っていた。
「こいつは…… たぶんお前の思っている通りのことが起きたんだと思うぞ」
いつのまにか家の中まで入り込んだ黒牛が、シアナの後ろから状況を確認してそう告げる。
「悪魔祓い……」
この世界にも様々な病が存在するが、その中に「悪魔憑き」というものがある。
文字通り、悪魔と呼ばれる存在が取り憑くことで起きる病だが、問題はその症状が普通の病気と区別がないことである。
簡単に説明すれば、取り憑いた悪魔が毒素を犠牲者の体の中に作り出すことで起きる病。
そして、この世界において悪魔憑きによる疫病は非常に多い。
理由は簡単。
敵対する勢力の教区に病を司る召喚獣を派遣して、その勢力を弱体化させると言う手段が、神殿の間で日常茶飯事的に行われているからだ。
さらに、病を治すという名目で相手の教区に押しかけ、敵対勢力の街や村を改宗させて自分の教区にしてしまうということが、他の地域では何度となく行われているからである。
その対抗手段として行われるのが『悪魔祓い』。
専門用語では『追難』と呼ばれる儀式である。
本来は、主に精神を乗っ取った悪魔を追い払うために行われる技術だったが、いつのまにか病魔を祓うほうが主となってしまっていた。
憑き物落としの方法は、古今東西さほど代わりばえのしないものであるが、唯一神の文化圏のソレは特に苛烈である。
なにせ、成仏なんて概念が存在しないのだから、憑依した者の言い分など一切認めず地獄行き。
自業自得ではあるのだが、考えようによっては霊にとってこれほど残酷な行為も無い。
むろん、その魂を地獄へと送られれば召喚獣といえどもただではすまない。
神殿の派閥間における政治的交渉により、地獄から釈放されるまでは、邪悪な亡者に混じって拷問と虐待に晒されなくてはならないのだ。
そしての具体的な方法だが、基本は説教などではなく拷問と恐喝である。
聖水を降り注ぐのは悪魔に痛みを与える為。
聖書を読み上げるのは、神の威光で悪魔を脅すために他ならない。
そして目の前の男性に行われたのは、魔女狩り時代から綿々と受け継がれている伝統的な悪魔祓いの儀式。
またの名を「拷問」と言う。