第十章:不良子牛と【黒毛和牛】お茶目な羊飼い
ミノルの元から逃げ出したモルディーナだが、まさかこのまま神社から逃げ出すわけにもゆかず、自分の部屋に立てこもっていた。
頭から分厚い綿布団をかぶり、顔を真っ赤にして一人反省会の開催中である。
誰かがお昼ご飯を持ってきてくれたようだが、それに手をつけることもできずにただ悶々と自問を繰り返す。
そしてお昼を過ぎた頃、神人の一人(仮称:神人A)がモルディーナの元に訪れ、ミノルが部屋で呼んでいる告げた。
「あの、どうしてもゆかなきゃダメですか? ちょっと今は顔をあわせづらくて」
正直、どんな顔をして会いに行けば良いのか判らない状態だが、祭神であるミノルに呼び出された以上、断ることはできない。
「あ、それなら大丈夫。 あの程度じゃぜんぜん気持ちは伝わってないから」
だが、そんな気持ちを根底からバッサリと切り捨てるように神人Aが笑う。
「は?」
「うちの祭神様の鈍感をなめちゃいけない。 というか、アレは自分がモテると言うことを信じようとしないから、女の気持ちなんか理解しない。 本人の意識してないところで何人の女泣かせているやら。 ちなみにだな……」
あの後、モルディーナが出て行った後に何があったかを聞かされ、呆れるやらガッカリするやら。
むしろシアナに同情したくなってしまった。
いくらなんでも、あんまりだ。
習慣の違いもあるし、自分の思いが伝わらないのは仕方が無いかもしれないが、シアナの場合はあれだけはっきりと嫉妬したのに気付いてもらえないなんて、女としてあまりにも切ない。
「別の意味で顔をあわせ辛くなったかもしれないけど、とりあえずウチの黒毛和牛が大事な用があるって言ってるから、我慢してついてきてくれ」
神人Aの苦笑いを浮かべると、モルディーナも諦めの入った笑いで返した。
それ以外にどうリアクションのしようがあろうか。
「わかりました。 すぐ支度しますので」
とほほな気分をかかえたまま、数少ない手荷物の中から化粧道具を取り出し、武装を整える。
そう、化粧は女の武器だ。
しかし敵は鈍感無双の黒毛和牛。
一矢報いることすらできる相手ではなさそうだが、素手で戦場にゆくような度胸はなかった。
モルディーナは気合を入れなおすべく、ファンデーションを塗りなおし、アイラインを描くために筆を握る。
「あ……アイラインはみ出ちゃった。 もっかい描き直し!」
彼女のメイクが終了した頃には、すでに30分が経過していた。
その努力の甲斐あって、彼女はこの後すぐにミノルへ一矢報いることに成功する。
ただし、彼女の思惑とは違う形で。
メイク時間とは、気合に比例し腕に反比例するものだと、待ちくたびれた神人Aは空になった化粧瓶の林を見ながら、しみじみ悟ったという。
「お、来たか」
部屋に入ってきたモルディーナをちらりと横目で確認したミノルは、
「う、うわぁっ!?」
目を見開いて後ろにひっくり返った。
「どうされたんですか?」
「なんでもない。 ずいぶん気合の入った魔除け……じゃなくてメイクだな。 見違えたぞ」
なぜか見てはいけない物をみたような顔をし、誰もいない場所に目を向けた。
「ヨシュアの兄さん。 これが話しをしたモルディーナ」
そして、まるでそこに誰かがいるような調子で独り言を口にする。
突然、何かの視線を感じてモルディーナは奇妙な居心地悪さを感じた。
「ふはははははは! こりゃすごい!!」
とたん、弾けるようにして、男性の笑い声が響く。
同じように低い声だが、どこかやんちゃな印象のあるミノルの声ではない。
もっと包み込むような深みのある大人の声だ。
「あの、誰かいらっしゃるんですか?」
不思議に思ってミノルに尋ねると、
「あぁ、普通の人には見えないか。 モルディーナの故郷の教区を担当している派閥の指導者と水盤がつながっているんだ」
ポンと手を打って、そんなことを言い出した。
水盤とは上位の魔術師が使う通信器具で、文字通り水を張った器の上に相手の幻影を映し出す魔道具の一つである。
便利ではあるのだが、素養の無いものが使っても声はおろか影すら映さないので、これを使えるだけの力を持つ者の間にしか普及していない。
「普通の人で悪かったですね」
呼び出したのはミノルなのに、まるで蚊帳の外にいるようなこの扱いは何だろう?
モルディーナは恨みがましい目でミノルをにらみつけた。
「何を拗ねてるんだ? とりあえずそっちにも見えるようにしてやろ……」
「まぁ、まてミノル。 私の姿を見たらその子が萎縮するのではないかね?」
その穏やかな声は、そう言ってミノルの動きを制止する。
「ん? まぁ、そりゃビビるとは思うけど。 ……はいはい、わかったよ」
あいかわらず見えない誰かと会話を続けるミノル。
せめて視線ぐらいはこちらに向けてほしい。
……こちらに視線を向けない理由が、自分の化粧にあるとは毛ほども思わないモルディーナだった。
「ヨシュアの兄さんが、姿が見えないほうが都合いいって言うから、音声だけで話を進めるぞ」
いったい何者がいるのだろうと気になってミノルの視線を追うと、その視線の先にぼんやりとした光の塊があることに気が付いた。
その光から好奇心に満ちた視線を感じ、モルディーナは恥ずかしげに顔をうつむける。
「それにしても、ずいぶんかわいい子羊じゃないか、ミノル。 新しい彼女か?」
「……ちげーよ」
ミノルは眉が八の字になるほど眉間に皺を寄せて否定する。
事実ではあるが、否定されたモルディーナの心境は複雑だ。
「はっはっは、そう照れなくてもよかろう? 父はこう言っている『産めよ、増やせよ、地に満ちよ』だ。 やるべき事はわかっているな?」
なにをやるべきかはわからないが、その台詞にモルディーナは顔を赤らめ、ミノルは怪訝そうに眉を動かした。
「意味はよくわからんが、とりあえずからかわれていることはわかった。 今度きっちり話しつけようじゃないか。 主に肉体言語で」
噛み付くミノルに、その光の塊は豪快に笑いながら点滅を繰り返す。
「それはさておき……いいのか? 私の名前など持ち出して」
腰に響くような深みのある声が、優しく耳をくすぐる。
どうやら、謎の人物はえらくミノルの身を心配しているようだ。
「あぁ、それでいい。 できるだけそっちの顔を立てるために、ヨシュアの兄さんからの依頼って事にしたいんだ」
大人は面倒だといわんばかりに、頭をぼりぼり掻いてしかめっ面をする。
そんなミノルを気遣うように、声の主は優しくミノルの立場を指摘した。
「だが、君の面子はどうなる? 私の命令に従ったなどという風聞が立てば、君を軽んじる者もいるだろう」
「言わせておけばいい。 そちらにばかり迷惑をかける訳にもいかないしな」
少しもズルい事のできないその性格には誰もが好感を覚えたが、なぜか苦笑しか出てこない。
生真面目な性格というのも、なかなか周りにとっては面倒なものだ。
「いっそ、ウチにくると言うのはどうかな? 君さえよければいつでも歓迎するが」
冗談めいた口調で誘いをかけるが、お互いに宗派の上位に属する者の会話である。
聞き耳を立てていた神人の体に緊張が走った。
「無理無理。 猛牛は子羊にならねぇよ。 気に入らないことがあったら、柵を壊して、飼い主を角に引っ掛けて暴れるぞ?」
「羊飼いとしてはプライドをくすぐられる台詞だな。 ぜひ飼いならして金の牛にしてみたいものだが、あまり苛めるとかわいそうだ。 今日のところは遠慮しておこう」
はたして遠慮したのはミノルに対してか、それとも問題発言を横で聞いているであろうお互いの部下に対してか。
そんなことを考えると、光の塊から感じるイメージが、ミノルをからかうものから、子を見守る父親のようなものにかわる。
「ミノル、あえて利の無い道を選ぶ君に、心から祝福を」
その声は、モルディーナがいままで聞いたどの声よりも優しさに満ち溢れていた。
同時に、ミノルの頭上に柔らかな光がどこからともなく降り注ぐ。
「いいのか? 俺を祝福なんかして」
他の宗派の人間を祝福したとあっては、色々と下のものに示しがつかないだろう。
だが、その組織という名で縛られるほど、彼の器は小さくなかった。
「君が私を兄のように敬愛するように、私は君を弟のように愛し、祝福する。 いったいどんな問題があるのかね? 無償の愛の前にはいかなる隔たりも存在しないと知りなさい」
不意に周囲が強い光に包まれる。
その光の暖かさと気高さに、ミノルを除くその場にいるすべての人々が知らずに膝を折ってひれ伏していた。
「い、痛ぇっ!?」
ミノルの悲鳴に顔を上げると、ミノルの背中の辺りからプスプスと煙が上がっている。
肉の焦げた匂いが、焼肉のようでおいしそうだったとはとても口にできない。
「何しやがるっ!?」
「み、ミノルさん、その背中!?」
目に涙を浮かべたミノルの背中を見るなり、モルディーナが驚いた声をあげる。
ミノルが違和感を覚え、引き裂くようにして上着を脱ぐと、その肩や腕に茨を模したトライバル系のタトゥーが焼きついていた。
しかも、その逞しい褐色の背中には、きっちり十字架にかけられた聖者の姿がでかでかとプリントされている。
その姿は、体格のよさも手伝い、まるでアメリカのプロレスラーのようだ。
「はっはっは、なかなかお洒落だろ? ミノルにあわせて、聖痕を若者向けにアレンジしてみたんだが」
「アホかーーーーー!!」
鏡でそれを確認したミノルは罵声を撒き散らしながら、地面をドスドスと蹴りつける。
衝撃で柱がグラグラと揺れ、上から埃がパラパラと落ちてきた。
「きゃあぁぁぁぁぁ」
モルディーナは不安定にゆれる床に足を取られて転倒する。
だが、怒り狂ったミノルはそれにすら気付かず、太い柱をけり倒し、落ちてきた屋根を八つ当たりで空の彼方に蹴り飛ばす。
たまらずモルディーナが部屋の隅に投げ出されるとは、神人Aが地面を這うようにしてモルディーナの体を回収し、急いでその場から逃げ出した。
その後、時速60km/hの四足ダッシュで駆けつけたアンソニーが、「じゃかぁしわ! ボケ!!」とライダーキックを繰り出すまで、街では謎の群発地震に悩まされたという。
【金の牛】……聖書に記された『神の子羊』とならんで敬虔な信者を例えた言い回し。 出エジプト記に出てくる金の子牛の偶像との関連性はないと思われる。