第八章:晴のち曇り【黒毛和牛】所により愛の鞭
その後、ミノルはシアナを伴って拝殿に移動すると、神主であるアンソニーから本日のスケジュール表を受け取り、書類作業に追われ始めた。
そしてその作業が1時間ほど続いただろうか。
領民からの直訴が来ているとの事で、アンソニーが何組かの男達を連れてきた。
その内容は、洪水に備えた土木作業が遅れているので雨季の到来を少し遅らせてほしいという天候操作に関する嘆願、魔物退治の報奨金について神殿からも協賛金を出してほしいという行政機関の協力要請、新しく購入した軍の装備に祝福を与えてほしいという国防関係の依頼など、よくもまぁ身勝手なことを次から次へと持ち込むものだと思う。
横で聞いているモルディーナは、人間の一人として、その無責任さに呆れるやら恥ずかしいやら。
だが、ミノルはそれらの問題一つ一つに耳を傾け、快く協力を約束する。
なんともまぁ、神とは難儀な役職だ。
さぞ不機嫌な顔をしているだろうとミノルの顔色をそっと覗くが、その凶悪な素顔は愛らしい牛のヌイグルミに隠れている。
素顔で対面すると相手が気絶してしまうからの処置なのだが、なにもあんな可愛いお面にしなくてもよいのに……と思う。
この暴挙は、シアナの強引なリクエストによるものだ。
謁見の間も、要望を述べる使者がミノルの顔を見て何度も噴出しそうになり、ミノルの声が憮然としたもの変化したのを感じた神人たちが慌てて取り繕うとするのも、見ているほうからすると面白くて仕方が無い。
そして元凶たるシアナはといえば、ただニコニコとミノルの隣で笑っていた。
そのシアナの態度が急変したのは、5組目の男が陳情に訪れたときだった。
愛らしい笑顔が、一瞬だけ真顔になる。
そして、その男が願い出た内容とは……
「却下。 悪いがそれはできない相談だな」
ミノルが冷たく言い放つ。
「なぜだ! 我々がどれだけ苦しんでいるか、解らぬ貴方ではあるまい!!」
詰め寄るのは頭のハゲた中年の男性。
その男を神人達が押し留めるようとするが、ミノルは視線でそれを留めた。
「わるいが、俺が守るべきは貴殿の事業とその従業員たちのみではない。 この地域に住むすべての人民はおろか、動植物にいたるまで幅広く責任が伴うのだ」
手が届く距離まで中年男に歩み寄ると、ミノルは冬の空のように寒々とした声で言い下す。
「だったら、我々に死ねと言うのか!? 神である貴方が俺達を見捨てるというのか!?」
わなわなと震えながら、中年の男は涙ながらに訴える。
……なぜミノルはこんな無慈悲なことを言うのだろう?
自らも神に見捨てられた存在であるモルディーナは、男の姿に自分の境遇を重ねていた。
この男を救ってやってくれ。
そう願いながら、モルディーナはミノルの横顔を見つめる。
「生きたいと思えば、他の職につけばいいだろう。 お前の願いは受け入れられない。 可能であっても、叶えてはならない事があるのだ」
だが、あくまでもミノルはその態度を変えようとしない。
……どうして?
モルディーナは、血が滲みそうなほど強く手を握り締めた。
「無理だ! いまさら他の職で食べた行くなどできるか! お前は鬼だ!!」
「では、死ぬがいい。 誰も止めぬ」
そう押し殺した声で、ミノルが男の願いを拒絶したときだった。
「ちくしょおぉぉぉぉぉ! この、邪神めがあぁぁぁぁ!!」
激昂した男が、こともあろうにミノルに向かって殴りかかる。
ぼすっ
男の拳がミノルの顔面を捉え、ヌイグルミが消し飛ぶ。
……ぽん。 ぽんぽん。
牛のヌイグルミの転がる微かな音が、拝殿に響く。
「ひぃっ!」
男は、ヌイグルミのしたから現れたミノルの顔を見るなり、小さく悲鳴を上げて固まった。
いや、そもそも神に手を挙げるなどあってはならない暴挙である。
天罰が下り、男はおろか、男の家族までもがミノルの怒りに焼かれるだろう。
いや、それ以前に許せぬ。
横に控えていた神人の一人が、そう呟いて刀を抜いた。
かちゃり、かちゃり……
憤怒の形相で、神人達が次々と抜刀する。
彼らの前で、敬愛する主の顔に手をあげたのだ。
八つ裂きにしてもまだ足りない。
「……気が済んだか? だったらお帰りはあちらだ」
だが、ミノルは能面のような表情でそう告げると、その左手で出口を指し示した。
なぜかその表情は、怒りを押し殺しているよりは、悲しみをこらえているように見える。
それを、殺さずに連れて行けと言う意味に解釈したのか、神人達は刀を納め、気絶した男を引きずって部屋を出て行った。
気絶した中年男が部屋から引きずり出された頃を見計らって
「しばらく席をはずしてくれる?」
誰に言い聞かせるでも無く、シアナがそう告げた。
アンソニーを含めて、その場にいた神官達が、無言でぞろぞろと部屋から出て行く。
モルディーナも出てゆこうとしたが、その腕をシアナが捕らえた。
「全部見るんでしょ? それに、聞きたいこともありそうだし」
そう、聞きたいことは山ほどある。
言いたいことがありすぎて言葉にならない。
罵声、悲嘆、失望、様々なものが口を割って出そうになるのをこらえて、ようやくモルディーナはこの一言を口にした。
「どうして助けてあげなかったんですか?」
きっと救ってくれると思っていた。
いや、救ってほしかった。
でなければ、神に見捨てられる怖さで心がつぶれてしまいそうだ。
「あの男は、銅山の経営者だ。 経営する銅山が枯渇しそうなので助けを求めてきたが、助けるだけの価値が無いから断った。 それだけだ」
「そんな答えじゃ納得できません!!」
嘘だ。 短い付き合いだが、これだけはわかる。
この男は、損得で動くタイプじゃない。
それに、彼の口から価値が無いから助けないなどと言う言葉は聞きたくない。
「銅山はね」
ミノルのかわりに答えたのは、なぜか横でニコニコと笑っているシアナだった。
なぜかその笑顔に寒気を覚える。
「鉱石を掘り出すときに恐ろしい毒を撒き散らすのよ。 あの男の願いを叶えれば、下流に河川は死に蝕まれ、田畑は枯れ果て、人が大勢死ぬわ。 誰かの願いを叶えることで誰かを不幸にするのは、何か間違っていると思わない?」
その水は、ミノルの担当区域のみならず他の地域にも流れてゆく。
この街を流れる川の下流にモルディーナの故郷は入ってないが、もしそうだったとしたら……想像するだけで背筋が寒くなる。
「どうにもならないんですか?」
それでも神と呼ばれる存在ならどうにかなるのではないかと尋ねて見ると、ミノルは顎に手をやりながらあっさりと答えた。
「いや、銅山から出る汚水を浄化すればいい」
「だったらなぜ!?」
あの禿げたオヤジのことが個人的に嫌いでも、それだけであの態度はないだろう。
短気な性格だが、ミノルの懐は存外に広い。
ミノルがなぜそんなケチくさいことを言うか理解に苦しむ。
その考えを見越したのか、ミノルがボソリと呟いた。
「お前、やりたいか? 来る日も来る日も、ただ毒を浄化するだけの事に一生を捧げたいか? しかも水を浄化してやるといったら、人間達は際限なく毒を増やし続けるぞ。 俺は、大事な部下をそんな不毛な仕事に縛り付ける気は無い。 何があっても救いたいと言うなら、その時はお前を水の精霊に変えて、毒まみれの貯水池の番人にしてやろう。 どうだ? お前が願うなら今すぐに叶えてやるが」
冗談のような口調だが、目が笑っていない。
ようやく理解する。
彼は万能ではないのだ。
これは大事な部下と鉱山関係者を天秤にかけた後の、自分の手にはあまると判断した結果の、苦渋の決断なのだと。
その苦しみも知らずに自分は意義を唱えたのだ。
まずい……これは本当に怒っているかもしれない。
「そ、そうだ。 その役目、あの人にやらせてあげればいいじゃないですか! 命がけで鉱山を守ろうとしているんだから、きっと喜んでやるに決まってます!!」
苦し紛れにそんな思いつきを口にする。
あの男も、生きるか死ぬかの瀬戸際を救ってもらいたいと願うのに、ただ頭を下げるだけなんて虫が良すぎる。
そう思った。
そして、自分も同じであることに気付いた。
……恥ずかしい。
羞恥のあまりミノルから目をそらす。
その時、シアナがずいと前に歩み出て、あいかわらず緩い声で……いや、必要以上にゆっくりした声で賛成を唱えた。
「いい考えねー なんだったら、モルディーナちゃんがあの男にそのアイディアを教えてあげれば? 実現するなら協力は惜しまないけど」
なんて意地悪なことを。
だが、この場にいるのはあまりにも辛い。
いっそ、このまま部屋を出て逃げてしまおうか?
「行って来い」
そう命ずるミノルに、意義を唱えるなんてできなかった。