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一夜限りだと思っていたのは私だけでした

作者: 壬ひなた。
掲載日:2026/11/08


 カイルさんが依頼から帰ってくると、ギルドの入口が少し賑やかになった。


「だから、あれは私が燃やしたんじゃないってば」

「火をつけたのはフィーナだろ」

「あんなに燃えるとは思わなかったの」


 魔術師のノアさんと、弓を背負ったフィーナさん。その後ろから、盾を背負ったダンさんと、大きな剣を背負ったカイルさんが入ってきた。

 私は手元の依頼書を揃えた。

「お帰りなさい。皆さん、お揃いですね」

「うん。ただいま、メル」

 その声を聞くと、無事に帰ってきたのだと安心した。

 それから、今日はどれくらい話せるだろうと考えていた。


「報告、お願いしてもいい?」

「はい。どうぞ」

 差し出された書類を受け取るとき、指が触れないように気をつけた。

 触れてしまったら、何かが顔に出てしまいそうだった。


*


 初めてカイルさんの報告を受けたとき、依頼は未達成だった。

 カイルさんが登録して間もない頃で、私は受付に立って二年目の春だった。


 前夜、負傷した仲間に付き添っていたそうで、報告が翌朝になってしまった。受付の先輩に遅れを注意されても、彼はただ頭を下げていた。

 ちょうど、治療院から届いた連絡票を整理していたところだった。


「先輩。こちらの方、昨夜のうちにご連絡をいただいています」

 先輩が連絡票を確かめて、眉を上げた。

「あら、そうなの? カイルさん、そういう事情があるなら、最初に言ってもらわないと」

「すみません。わかりませんでした。次はそうします」


 先輩は「じゃあ、お願いね」と私に報告を引き継いだ。

 カイルさんは椅子に座っても、肩に力が入っていた。膝の上で、握った手が白くなっていた。


「俺の判断が遅かったんです。引き返していれば、怪我もさせずに済んだのに」

「負傷されたのは、お一人ですか」

「はい」

「ほかの皆さんも、ご一緒に戻られたんですね」

「……全員います。でも、依頼は」

「はい。未達成で記録します。帰還された人数も必要なので、確認させてくださいね」


 彼が顔を上げた。

 私は人数の欄を指で示した。


「四名、全員帰還。こちらで間違いありませんか」

「……はい」


 強張っていた肩が、少しだけ下がった。

 それから彼は、落ち着きを取り戻して順を追って話してくれた。私も必要なことを聞き、書類を埋めた。


 ひと月ほどして、彼らは同じ依頼を達成した。

 報告を終えたカイルさんに、私は笑いかけた。

「依頼達成、おめでとうございます。皆さん、お怪我がなくて何よりです」

 彼は少し黙ったあと、「ありがとう」と笑った。

 そんな笑顔が可愛いなと思った。


 それから三年ほどが過ぎた。

 後輩もでき、初対面の冒険者に大声を出されても、慌てず対処できるくらいには仕事に慣れていた。

 カイルさんたちは少しずつ大きな依頼を任されるようになり、気づけば、ギルドでも名の知れた一団になっていた。

 最初は丁寧な言葉で話していたカイルさんは、いつからか砕けた口調で、私を「メル」と呼ぶようになった。私は受付だから、変わらず敬語のままだった。


 いつから好きになったのかは、よくわからない。だんだんと気持ちが膨らんでいったと思う。

 カイルさんはすごく丁寧に人に接する。そんなところがいいなと思っていた。


 報告の途中、私が聞き返すと、急がず説明し直してくれるところ。

 新人の冒険者に声をかけられれば、依頼書を一緒に覗き込んでいるところ。

 ほかの窓口が空いていても、私の前で待ってくれるところ。


 いいなと思うことが増えていくうち、彼が来る日は落ち着かなくなった。


 彼の周りにはいつも、綺麗な女の子たちがいた。

 気負わず名前を呼び、肩を叩き、同じ話を思い出して笑っている。

 私が彼と交わすのは、事務的な話ばかりだった。あの輪の中に、私が入れるとは思えなかった。


「メル、ここ、もう一枚必要か?」

「はい。こちらにもお願いします」


 彼が冒険者仲間たちと食事に向かうのを見送った。

 もう少し話したかった、と思った。

 けれど、こちらには次の人が並んでいる。私は依頼書を取り、顔を上げた。


*


 王都へ移ると聞いたのは、秋の終わりだった。


「向こうの一団に、声をかけてもらって」

 彼だけでなく、仲間の皆さんも一緒に移るのだという。

「……そうですか。おめでとうございます」


 嬉しそうにしていられたと思う。だけど、心の中は嵐だった。

 平静を装うのに必死で、涙が出ないようにぐっとこらえて仕事をした。

 登録証明の手続きも、間違えずに説明できた。


 出発の日には、窓口から見送った。

「今まで、ありがとう」

「こちらこそ。王都でも、お身体に気をつけて」

 カイルさんが何か言いかけたところで、入口から仲間が彼を呼んだ。

「……それじゃ」

「はい。いってらっしゃい」


 いつもと同じ言葉が出た。

 今度は、もうここへ帰ってくるわけではないのに。

 扉が閉まり、次の人に声をかけられるまで、私は入口を見つめたままだった。


 その日は、帰ってから大泣きした。

 最後まで平静を装ってしまったのは、なんでなんだろう。まだ会えているうちに、たくさん話をしておけばよかった。また会いに行ってもいいか、聞けばよかった。もっと、何か言えていれば。


 頭の中では何度もあの日に戻って、言えなかった言葉を彼に伝えた。

 だけど現実の私は、振られるのが怖くて何も言えなかった。

 もう会うこともないのに。


 しばらくは、仕事で間違いを出さないようにするだけで精いっぱいだった。

 彼が帰ってこないことには、なかなか慣れなかった。似た声がすれば顔を上げ、討伐報告の列に、つい姿を探した。

 仕事が終われば友人と食事にも行ったし、休日には買い物もした。面白いことがあれば笑った。それでも、王都での彼らの活躍を耳にした日は、胸がきゅっとなって、誰より詳しく聞きたくなった。


*


 半年後の春、私は王都のギルドへ転勤になった。

 

 辞令を受け取ったとき、真っ先に彼の顔が浮かんだ。カイルさんに会えるかもしれない。

 だけど、王都は広くて、冒険者の数も多い。同じ街にいても、会えるとは限らない。そう言い聞かせて、期待しないことにした。

 それなのに、荷造りの手はいつもより少し弾んでいた。


 赴任初日、王都のギルドは、想像していたよりずっと大きかった。

 窓口の数も、職員の数も、並ぶ冒険者の数も、前のギルドとは桁違いだった。何年も受付に立ってきたはずなのに、書類を収める棚を一つ覚える間に、三つ忘れそうになる。

 それに、知っている人は誰もいない。朝から肩に力が入りっぱなしだった。

 そんな私に、先輩たちはわからないことを一つずつ丁寧に教えてくれた。おかげで、少しだけ肩の力が抜けた。


 昼過ぎ、討伐報告を受け終わって、書類を書いていたときだった。

「メル?」

 顔を上げる前に声でわかった。

 声の方を見ると、カイルさんが少し離れたところに立っていた。

 装備は見覚えのないものになっていた。以前より髪も短い。半年で、少し大人びた気がした。隣にいる女性は知らない人だったけれど、彼と同じようにこちらを見ていた。

 彼が受付台まで歩いてくる。

「お久しぶりです」

 受付の声が、ちゃんと出た。そのことに、自分で驚いた。

 胸がうるさい。

「どうして、ここに?」

「今日から、こちらに勤務することになりまして」

「今日から?」

「はい」

 カイルさんが笑った。

 つられて私も笑ってから、胸の奥がきゅっと痛んだ。この顔が、もう一度見たかった。


 隣の女性が、彼の袖を軽く引いた。

「知り合い?」

「ああ。前にいたギルドの」

「そう。じゃあ、私は先に行くね」

 彼女は私に軽く会釈して、出口へ向かった。


 さっきカイルさんの袖を引いた仕草が、少し気になった。

 もう会えないかもしれないと思っていた人が、同じギルドに立っている。嬉しいのに、何を話せばいいのかわからない。

 私は、持っている書類の端を揃えることしかできなかった。


「メル、今日、仕事が終わったら会える?」

「……今日ですか?」

「二人で、食事に行きたいんだ」

 思いがけない誘いに、返事が一拍遅れた。


「はい。六時半には出られると思います」

「わかった。六時半に、ギルドの前の広場の時計の下で待ってる」


 カイルさんは笑って、受付から離れていった。

 私はようやく、止めていた息を吐いた。


 まさか今日誘われることになるなんて。前の街のことを聞きたいのかもしれない。誰の話からしよう。そう考えたら少し落ち着いたけれど、退勤まで何度も時計を見てしまった。


*


 仕事を終えると、私はギルドの前の広場へ急いだ。

 約束の時刻より少し早く着いたのに、待っている時間がやけに長く感じられた。

 人波の向こうから、カイルさんが私服で歩いてきた。

 剣を背負っていない彼を見るのは、初めてだった。それに気づいただけで、仕事帰りの自分の服が急に心配になった。


「待った?」

「いえ。今来たところです」

 本当は、さっきから何度も彼の姿を探していた。


 案内されたのは、通りから少し奥に入った、小さな料理店だった。

 席が離れていて、ほかの客の声はあまり聞こえない。向かいに座ると、彼も少し落ち着かない様子で水を飲んだ。

 私は近況を話した。

 前のギルド長は相変わらず腰を痛めていること。食堂の料理人が結婚したこと。彼がよく手伝っていた新人が、今では一人で依頼を受けるようになったこと。

「そうか。あいつが」

 カイルさんは笑って聞いてくれた。彼も王都での仕事を話してくれた。依頼の数も、ギルドの規模も、前とはずいぶん違うらしい。


「メルは、ここの仕事、どう?」

「まだ初日なので、書類の場所を覚えるだけで精いっぱいです」

「そっか。困ったことがあったら言って」

「ふふ。お仕事のことは、職員の方に聞きますよ」

「……それもそうだな」

 二人で笑うと、少しだけ昔に戻れた気がした。料理もおいしくて、だんだん緊張がほぐれてきた。


「今度、休みの日には王都を案内するよ」

「本当ですか? 楽しみです」

 そう答えてから、また会える日があるのだと、つい期待してしまう。

 でも、いつになるのかはわからない。

 話題をつなぐつもりで、私は尋ねた。


「前のギルドのことで、ほかに気になる方はいらっしゃいますか?」

「いる」

「どなたですか?」

「メル。君のことは、まだ何も聞けてない」


 グラスを持ち上げかけた手が止まった。

「えっと。私ですか? 私は特に何も。いつもと変わらず過ごしていましたけど」

「恋人は?」

 今度こそ、動けなくなった。

 カイルさんは、私の返事を待っていた。


「……いません」

「そうか」


 今度は私から尋ねたくなった。

「カイルさんは」

「いない」


「ご一緒にいた方は……」

「昼間の? 知り合いの冒険者だよ。旦那さんと二人で組んでる」

「そうでしたか」


 何でもないふうに頷いたつもりだったのに、彼が私の顔を覗き込んだ。

「気になった?」

 答えられなかった。頷くことも、違うと言うこともできずにいると、彼はそれ以上聞かず、少しだけ笑った。

 その笑顔を、まともに見られなかった。


 彼は食事の続きを勧めてくれた。せっかくの料理なのに、何を食べたのか、しばらく味がわからなかった。

 近況を聞き合っているだけ。そう思おうとしても、胸の音は静まってくれなかった。


*


 店を出ると、夜風が涼しかった。

 カイルさんが、自然に車道側へ回る。

 昔から気の利く人だったけれど、こういうことに慣れているのかな、と思った。


「家まで送る」

「ありがとうございます」

 歩き始めると、さっきより距離が近かった。袖が触れそうになるたび、私は腕を動かすのを忘れた。

「家はどの辺なの?」

「ギルドの寮ですよ」

「そうなんだ。じゃあ近くだな。あと少しか」


 あと少し。

 今夜はあんなに楽しかったのに、次に二人で食事に行ける日はあるのだろうか。


 しばらく無言で歩くと、彼の手が、私の手に触れた。

 一度離れたあと、指先がもう一度触れる。今度は偶然ではなかった。

 顔を上げると、カイルさんがこちらを見ていた。私は手を引かずに、少しだけ近づけた。

 指が重なり、握られた。

 大きな手だった。

 報告書を受け取るときには、あんなに触れないように気をつけていた手だ。剣を握る手だと知っていたのに、こんなふうに、自分を包める手だとは考えたことがなかった。


 通りを曲がると、寮の灯りが見えた。

 もう着いてしまう。

「ほんとにすぐだったな」

 カイルさんが、小さく言った。

「はい」

 繋いだ手を見下ろした。まだ離したくなくて、彼の顔を見上げた。


「もう少し、歩きますか」

 言うと、彼の指に少し力がこもった。

「いいの?」

「明日は、午後からなので」

 仕事の時間を伝えただけなのに、夜更かしをしても平気だと言ったようなものだと、口にしたあとで気づいて恥ずかしくなった。

 彼もそれを聞いて、私の顔をしばらく見ていた。


「メル」

「はい」

「俺の家に、来ない?」


 遠くで、馬車の車輪が鳴った。

 すぐには返事ができなかった。

 行けば、どうなるのかはわかっている。けれど、明日のことを考えると足が止まった。


 窓口で顔を合わせたとき、私たちはどんな顔をすればいいのだろう。


 好きだと言われたわけではない。久しぶりに会えて、懐かしかっただけかもしれない。こんなふうに誘うのも、初めてじゃないのかもしれない。


 一晩で終わって、明日からはまた窓口越しに「お疲れさま」と言い合うだけ。


 それは嫌だ。でも、断れば次があるとは限らない。今度は私から誘ったとして、カイルさんは来てくれるだろうか。


 ただ、このまま帰ることを思うと、胸が苦しくなった。


 あのときだって、窓口の内側で何も言えずに彼を見送った。あんなに後悔したのに。


「まだ一緒にいたい」

 カイルさんが、静かに言った。

 顔を上げると、彼は私の返事を待っていた。


 私だって、まだ一緒にいたい。

 今日だけの気まぐれだったとしても、この気持ちまでなかったことにはしたくない。

 繋いだ手を、私から握り返した。

「……はい」


*


 部屋に入って、カイルさんが灯りをつけた。

 棚には手入れの道具と、何冊かの本がある。椅子の背にかかった上着を彼が片づける間、私は扉の近くに立ったままだった。


「座って。何か飲む?」

「はい。ありがとうございます」

 勧められたソファに腰を下ろす。


 カイルさんはお湯を沸かして、お茶を淹れてくれた。いつもは報告書越しに見ていた人が、私のためにお茶を淹れている。なんだか、それだけで落ち着かなくなった。


 その間に、いろんな考えが巡る。

 こんなおうちに住んでたんだ。

 今日は何時まで話すつもりなのかな。

 もしかして何もなく帰ることもあるのかな。


 彼が振り向いた。目が合って、心臓がはねた。

 二人きりなのを改めて意識すると、さっきまで店で話していたことが何も思い出せなくなった。


 カイルさんが二つのカップを運んできて、私の隣に座る。ソファが少し沈んだ。

 お茶の香りがするのに、隣の彼のことばかり気になって、なかなか口をつけられない。

「……そんなに緊張されると、俺も困るな」

「緊張は、します」

「うん」

 彼がカップを置いて、私の手を取った。

 彼の指は、外にいたときよりずっと熱かった。


「俺も、誘ったけど、落ち着かないんだから」

 思わず顔を上げた。カイルさんが、近くで笑っていた。

「そうは、見えません」

「格好つけてる」

 少し笑ってしまった。


「メル、髪に何かついてる」

 彼が私の髪に触れたのは、そのときだった。

 耳のそばから小さな糸くずを取って、指先で見せてくれる。

 笑いかけたまま、息が止まった。彼の手がまだ、すぐ近くにあった。


 こんな距離で見つめあったのは初めてだと思った。

 こんな目で、見つめられるんだ。

 何度も目を合わせたことはあった。

 でも今は、何か答えを待つように、私の目を見て、それから唇へ視線が落ちた。


「……メル、キスしていい?」

 どくんと心臓がはねる。

「……はい」

 そっと顔が近づいてきて、私は目を閉じた。

 最初は、短いキスだった。

 離れたあと、頬が手に包まれた。目を開けると、彼が私を見ていた。


「……もう一度、いい?」

 頷きながら、今度は私も顔を上げた。

 今度は深いキスだった。

 舌が触れた瞬間、甘さが広がった。熱くて、やわらかくて、触れたところから溶けていく。体の芯までほどけて、いつまでもこのままでいたかった。離れたくなくて、喉が小さく鳴った。

 こんなキスをするんだ。知っているはずのカイルさんに、知らなかった表情がある。もっと知りたい、と思った。

 ずっと好きだったのに、全然わかっていなかった。私は、こんなにこの人が好きだったんだ。


 ようやく唇が離れると、彼の肩に額を寄せた。恥ずかしくて顔を見られなかった。

「大丈夫?」

「……はい」

「顔、見せてくれない?」

「少し、待ってください」

「嫌だった?」

「違います。……嬉しくて、顔を見られないんです」


 カイルさんが少し黙った。

「それ、俺は見たいんだけど」

 思わず笑ってしまった。私ばかり緊張していると思っていたけれど、カイルさんの声も少し照れくさそうだった。

 彼の腕が背中に回る。私はその腕の中で、小さく息を吐いた。


「昔、メルが受付にいた頃、何でもない話をしてるときも、こうしたいと思ってた」

 顔を上げると、彼が少し困ったように笑った。

「今日会えてびっくりした」

 こうしたい、というのが、どこまでの気持ちなのか。聞き返したかった。けれど、聞いてしまったら、この腕の中にいられなくなる気がして、聞けなかった。


「私も……前のギルドのときも、もっとお話ししたかったです」

「うん」

「会えなくなって、寂しかったです」

 彼が私の髪に触れた。結んでいた紐がほどけて、髪が肩に落ちる。

 それを見ている彼の顔に、また胸が鳴った。

「うん。俺も」

 私は頷いた。彼の首に、ゆっくり腕を回した。


 しばらくして、カイルさんが私の髪を撫でながら言った。

「……お風呂、どうする?」

「入りたいです」

「じゃあ、準備するよ」

「ありがとうございます」

「……一緒に入ろうか?」

「えっ」

 思わず見上げると、カイルさんは少しだけ笑っていた。


「冗談にした方がいい?」

「……今日は、別々でお願いします」

「うん。わかった」

 ほっとしたはずなのに、口が勝手に動いた。

「……でも、嫌だったわけじゃないです」

「メル、それ、入りに行っちゃうよ?」

 今度は私が笑った。カイルさんも笑ってくれたけれど、耳が少し赤くなっていた。


 それぞれお風呂を済ませて、寝室で顔を合わせた。

 借りた大きなシャツは袖が余って、指先しか出ない。ベッドのそばに立つと、さっきまでの勢いが嘘のように恥ずかしくなった。

「……ベッド、二人だと狭いけど大丈夫?」

「はい。寝相はいい方なので」

「そういう心配じゃないんだけど」

「……わかってます」


 カイルさんの隣に、そっと横になった。

 掛け布団を引き寄せると、シーツからほのかにカイルさんの匂いがした。石鹸の香りとは少し違う、いつもここで眠っている人の匂い。

 ……いい匂い、と思った。緊張しているはずなのに、不思議と落ち着いた。


 カイルさんが笑い、枕元の灯りに手を伸ばした。

「灯り、消す?」

「少しだけ、つけていてもらえますか」

「どれくらい?」

「……カイルさんのお顔が見えるくらいで」

 言ってから、大胆なことを言ったと気づいた。暗くなったら、この人がいることまで夢になってしまいそうで、怖かっただけなのに。

 彼の手が止まった。灯りに伸ばしたまま、小さく息を吐いて、ゆっくりこちらを向く。


「……メル」

「はい」

「そんなこと言われたら、消せないな」

「……すみません」

「謝らなくていいよ。俺も見たい」

 ほっとして、ふっと笑ってしまった。カイルさんも笑った。

 笑いが引くと、淡い灯りの中で目が合った。


「メル、嫌なら言って」

「嫌じゃないです」

 そっと肩に手を添えられて、彼の顔が近づいてくる。

 今度は、私から少し顔を寄せた。


*


 目を覚ますと、カイルさんが隣にいた。

 眠っている顔を見て、昨夜のことを思い出した。

 思い出した途端、まともに見られなくなって、掛け布団を引き上げる。

 窓の外が明るい。

 いつもの起床時間は、もう過ぎているだろう。

 そろそろ、帰らなければ。


 そう思ってから、はたと困った。

 次に会う約束を、していない。

 街を案内すると言ってくれた。

 でも、いつなのかは決まっていない。

 これから依頼で何日も留守になるかもしれないし、帰ってきても、私の窓口へ来るとは限らない。


 昨夜は、「こうしたいと思ってた」と言ってもらえた。

 けれど、好きだとは言われていない。

 このまま帰って、また受付で顔を合わせて。昨夜のことをどう話せばいいかわからないまま、仕事の話だけの関係になるのだろうか。

 それは、嫌だ。


 眠っているカイルさんを、もう一度見た。

 手を伸ばせば触れられるところにいる。

 また会いたいと、それだけ言えばいい。

 ……それだけが、難しいのだけれど。


「……メル?」

 彼が目を開けた。

 寝起きの声にまで、胸が鳴った。

「おはようございます」

「おはよう。起きてたんだ」

 伸びてきた腕に、掛け布団ごと引き寄せられた。

 頬が彼の胸に触れる。


「まだ、早い?」

「朝7時です」

「もう少し、このままでいい?」

 頷くと、腕に力がこもった。

 しばらく何も言わずにいると、このまま帰らずに済むような気がした。


「……結局あまり眠れなかったですね」

「はは、うん」

「もう寝ようって何回も言ったのに」

「でもメルも、嫌じゃなかっただろ?」

「……はい」

 言いながら、昨夜のことを思い出してしまった。

 カイルさんが、私の顔を覗き込む。


「メル、今からまた、してもいい?」

「……朝からですか?」

「朝だからかも」

「……えっ、まだ大丈夫なんですか?」

「うん。自分でも驚いてる」

「……カイルさん、疲れないんですか?」

「昨日のメルが可愛かったからね」


 思いがけない言葉に、胸が鳴った。

「……そういうこと、さらっと言うんですね」

「さらっとなんて言ってないよ」

 カイルさんが笑った。


 その顔を見ていたら、私からもう少し近づきたくなった。今日の仕事は大丈夫かな。少し心配だったけど、彼の方が大事だった。

 返事の代わりに、私から顔を上げた。

 温かい。嬉しい。ずっとこうしていたかった。


*


「お腹すいてない? 何か食べる?」

「いえ、支度もあるので、自宅で食べます」

「そう。じゃあ送っていこう」

 午後には仕事に行かなければならない。帰り支度を始める。


 ギルドに戻れば、私は受付嬢で、カイルさんは冒険者だ。また会えると、勝手に決めつけていいのだろうか。

 さっきは、言えないまま流されてしまった。このまま送ってもらって、寮の前で別れたら、きっともう言えなくなる。

 昨日も、彼が誘ってくれなかったら、私は何も言えずにいたかもしれない。

 今度は、自分から言いたかった。


「あの、カイルさん」

「うん」

「お仕事、次はいつからですか」

「明後日。明日、準備をする」

「何日くらいのご予定ですか」

「五日くらいかな。どうした?」


 私は手にしていた上着を下ろした。

 カイルさんの顔を見ると、言おうとしたことが喉につかえた。断られる怖さもあった。

 あの日、窓口の内側で言えなかった言葉だ。でも、そのまま待ち続けたくなかった。


「あの、またお会いしたいです」

 言ってしまうと、続きが自然に出てきた。

「昨日だけで、終わりにしたくないので。次のお約束をしてから、帰りたいんです」

 彼が口元に手を当てた。

「……カイルさん?」

「ごめん。ちょっと、驚いて」

 手を下ろしたカイルさんは、すごく嬉しそうだった。


「終わりって……俺、終わるなんて思ってなかった」

「え……」

「これからも誘うつもりだったし、依頼から帰ったら、真っ先に会いに行くつもりだった。……そうか。俺、肝心なことをまだ何も言ってなかったな」

 一晩きりかもしれないと思っていたのは、私だけだったのだろうか。


「好きだよ、メル。昔から」

 思いがけない言葉に、息が止まった。

 ずっと聞きたかったはずなのに、すぐに声が出てこなかった。

「……私も、ずっと好きでした」

 カイルさんが私を抱き寄せた。

 私も、その背中にそっと腕を回した。


「今日、何時に終わる?」

「六時です」

「迎えに行く。明日の晩も、会える?」

「……今日も、明日もですか?」

「うん。明後日からしばらく留守にするから。その前に、できるだけ一緒にいたい」


 頷いた。

 一度では足りなくて、もう一度頷いた。

「はい。会いたいです」

「俺も」


「お手紙も、書いていいですか」

「もちろん」

「長く留守になさるときは。……お返事も、欲しいんですけど」

「書くよ。返事も、ちゃんと」

 嬉しくて、また頷いた。

 彼の顔が近づいてきた。

 今度は目を閉じる前に、私から少しだけ顔を上げた。


*


 ギルドの仕事を終えると、カイルさんが約束どおり迎えに来てくれた。

「お疲れさま、メル」

「ありがとうございます。お待たせしました」

 昨日と同じ時間に、同じ人が待っている。

 でも、今日は違った。また会いたいと言ってもいいし、明日も会う約束がある。


 一緒に夕食を食べて、カイルさんの家へ向かった。

 今度は、迷わなかった。


 寝室へ入ったところで、思わず立ち止まる。

「……あれ?」

「どうした?」

「ベッド、大きくなってませんか?」

「うん。今日買った」

「……今日!?」

「昨日、狭かっただろ?」

「そうですけど……お仕事、早いですね」

「今日は時間があったから」


 そういう問題だろうか。

 慣れている人は、一日でベッドを買ったりしない気がする。

 それに、私がまた泊まりに来ることを、当たり前みたいに考えてくれていたんだ。嬉しくなってしまった。


「あ。今日も泊まってくれるか、聞いてなかった」

「……泊まりたいです。でも、今日はちゃんと寝たいです」

 鞄に着替えを入れてきたことは、黙っておいた。

「うん。俺も」

 カイルさんが笑った。彼も少し眠そうだった。


*


 広くなったベッドに入ると、カイルさんがこちらを向いた。

「メルは何が好き? たくさん話したのにお互いのこと、あんまり知らなかったと思って」

「カイルさんが好きです」

 口にしてから、少し照れくさくなった。

 でも、もう隠さなくていい。好きだと言っても、同じ気持ちを返してもらえる。

 そう思うと、嬉しくて、もう少しだけ甘えたくなった。


「……ギュッとしてください」

 カイルさんが一瞬、目を丸くした。

「……メル、君ってそんな甘え方するんだね」

「だめですか?」

「ううん。すごい可愛い」

 腕を広げてくれたので、その胸にそっと顔を寄せた。

 背中に腕が回ってきて、体の力が抜ける。

「……あったかいです」

「うん」


 好きな食べ物も、休日に何をしているのかも、聞きたいことはまだたくさんある。

 それなのに、目を閉じるとすぐ眠ってしまいそうだった。

「メル、眠い?」

「……少しだけ。まだお話ししたいんですけど」

「明日も会えるだろ。続きは明日にしよう」

「……はい」


「灯り、消すよ」

「はい。……消してください」

 昨夜は、彼の顔が見えるくらいの灯りがないと不安だった。

 今夜は、暗くなっても、背中に回った腕がそこにある。

 明日も、会える。

 そう思うと、もう安心して目を閉じられた。


*


 灯りを消してしばらくすると、腕の中からメルの寝息が聞こえてきた。さっきは眠そうな声で、まだ話したいと言ってくれた。その声を思い出すと、もう少し話せたらと思いながら窓口を離れた日のことが、いくつも浮かんだ。


 初めて報告を聞いてもらった日は、自分の判断が遅れて仲間に怪我をさせたことばかり考えていた。メルに「四名、全員帰還」と確かめられて、ああ、みんなで帰ってこられたんだと、ようやくほっとした。それから、ほかの窓口が空いていてもメルのところに並ぶようになった。


 報告の最後に「今日は、ゆっくり休んでくださいね」と言ってくれる。その一言が嬉しくて、仕事のあとにも会えたらと思った。でも、俺が窓口を離れると、メルは次の人にも同じように笑いかける。食事に誘おうと何度も思ったのに、次の人に顔を上げるたび、また言えなかったなと思った。


 街を出る日も、メルはいつもどおり笑って送り出してくれた。その顔を見ていたら、彼女にとって俺は、たくさんいる冒険者の一人なんだろうと思った。もしメルも同じ気持ちだったとして、どうするんだ。依頼に出れば何日も留守にするのに、王都からそう何度も会いに戻れるわけがない。次はいつ会えるとも言えず、結局、何も伝えないまま街を出た。


 王都では、難しい討伐を仲間とやり遂げた日ほど、メルに話したいことが増えた。帰り道でどこから話そうかと考えているうちに、あの「お帰りなさい」が聞けるのは前の街だったと思い出す。そのたび、次に会う日が決められなくても、好きだということだけは伝えておけばよかったと思った。会いに戻ろうかと考えては、今さら訪ねて困らせたくなくて、話したかったことばかりが半年分たまった。


 昨日、そのメルが王都のギルドにいた。最初は見間違いだと思った。赴任初日だと聞いて、つい聞き返した。「はい」と返ってきて、気づけば笑っていた。つられたようにメルも笑った。見送ってくれたあの笑顔を、もう一度こんな近くで見られるとは思っていなかった。


 明日もここに来れば会える。そう思ったところで、前の街でもそうやって次があると思い、何も言えないまま別れたことを思い出した。もう同じ後悔はしたくなくて、その日の食事に誘った。


 食事に来てくれただけでも十分すぎるくらいだったのに、寮の灯りが見えたところで、メルのほうからもう少し歩こうと言ってくれた。もう着いてしまうと思っていたのは、俺だけじゃなかったのかもしれない。家に誘うときは断られたらどうしようと喉が詰まったけれど、今度こそ、まだ一緒にいたいと言えた。


 家まで来てくれてからは、何度も「落ち着け、俺」と自分に言い聞かせた。メルがキスを受け入れてくれたときなんて、頭の中はお祭り騒ぎで、平気な顔をしているだけで精いっぱいだった。抱きしめながら「こうしたいと思ってた」と口にしたときも、前の街にいた頃からどれだけ会いたかったかまで、あの一言で伝わった気になっていた。


 一緒に風呂に入ろうと誘うときだって、胸がうるさかった。メルが「嫌だったわけじゃない」と言ってくれたときは、嬉しくて、よく冗談を返せたと思う。じゃあ次は一緒に入れるかもしれない。……次って、いつだ。風呂から上がったメルに「帰ります」と言われるかもしれないのに、いつか依頼からこの家に帰ってきたら、メルが「お帰りなさい」と迎えてくれるところまで想像していた。


 そんなところまで先走っていたから、今朝、メルが「昨日だけで、終わりにしたくない」と言ったとき、一瞬、何のことかわからなかった。キスを受け入れてくれたときから、俺はすっかり両思いのつもりでいた。気持ちまで受け入れてもらえたと思い込んで、好きだという一言をまだ自分の口から伝えていなかった。


 帰る前にまた会いたいと言ってくれたのは、メルのほうだった。半年前、窓口の前で俺が言えなかった言葉だ。俺もようやく、好きだと言えた。そうしたら、彼女は、ずっと好きだったと返してくれた。


 ずっと。あの街で俺が何度も誘いそびれていた頃から、メルも俺に会えるのを楽しみにしてくれていたのだろうか。


 腕の中で、メルが小さく身じろぎした。そっと抱き寄せると、またすぐそばで静かな寝息が聞こえた。


 ……夢じゃないよな。


 腕の中の温かさを確かめるように、彼女の髪に顔を埋めた。声をかけるべきだった日が、いくつも思い浮かんだ。


 ……でも、これからは言える。


 五日間の依頼が終わったら、真っ先に会いに行こう。


*


 五日間の依頼を終えて王都へ戻ると、カイルは真っ先にギルドへ向かった。

 必要な報告を済ませ、報酬を受け取っても、帰ろうとしない。受付のメルと何か話してから、待合の椅子に腰を下ろした。

「先に帰っててくれ。メルの仕事が終わるのを待つから」

 フィーナは、ノアとダンと目を見交わした。

 出発の朝に「ちゃんと言えた」とだけ報告してきて、それから五日間ずっと機嫌のよかった男が、これだ。


「……あいつ、やっと言えたんだな」とノアが小声で言った。

「長かったねえ。王都に来てから、ずっと後悔してたもんね」

「会いに戻って言えばって、何回言ったと思う?」

 ダンが肩をすくめた。

「まだ仕事が終わるまで時間あるよ?」

「構わない」

 カイルは待合の椅子から動こうともしない。

 フィーナは笑いをこらえた。


「ところで、ちゃんと返事はもらったの?」

 そう尋ねると、カイルは受付へ目を向けた。

 ちょうど顔を上げたメルが、彼を見つけて微笑む。

 カイルも笑った。

「あ、もういい。わかった」

「聞いたの、そっちだろ」

「はいはい。メルのこと、大事にしてあげてね」

「……言われなくても」


 フィーナは満足そうに頷いた。

 仲間たちは今度こそ、二人を残してギルドを出た。


「ねえ、あんなに嬉しそうなカイル、見たことある?」

「いや、ないな」

「ふふ。メルって、すごいね」

 笑いながら振り返ると、ギルドの窓から灯りが漏れていた。

 中ではきっと、カイルがまだ同じ椅子に座っている。


「……あいつ、明日から報告が終わっても帰らなくなるぞ」

「いいじゃない。待ちたい人がいるんだから」


 フィーナの言葉に、二人も笑った。


初めてのR15作品で、どこまで書いていいものか、かなり試行錯誤しました。

推敲していると、なんだかんだでいつも長くなってしまいます。

今回も「もう投稿できる!」と思ってから、さらに丸一日推敲してしまいました。

やめどきが分かりません( ;∀;)

楽しみに待ってくださっていた方がいたら、投稿が遅くなってしまってごめんなさい。


少し長めのお話になりましたが、最後まで楽しんでいただけたら嬉しいです。

本当はイラストも載せたかったのですが、チャッピーが失敗ばっかりするので、今回は取りやめました(笑)

またチャレンジして、うまくいったら載せるかもしれないです。

最後までお読みいただき、ありがとうございました!

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