一夜限りだと思っていたのは私だけでした
カイルさんが依頼から帰ってくると、ギルドの入口が少し賑やかになった。
「だから、あれは私が燃やしたんじゃないってば」
「火をつけたのはフィーナだろ」
「あんなに燃えるとは思わなかったの」
魔術師のノアさんと、弓を背負ったフィーナさん。その後ろから、盾を背負ったダンさんと、大きな剣を背負ったカイルさんが入ってきた。
私は手元の依頼書を揃えた。
「お帰りなさい。皆さん、お揃いですね」
「うん。ただいま、メル」
その声を聞くと、無事に帰ってきたのだと安心した。
それから、今日はどれくらい話せるだろうと考えていた。
「報告、お願いしてもいい?」
「はい。どうぞ」
差し出された書類を受け取るとき、指が触れないように気をつけた。
触れてしまったら、何かが顔に出てしまいそうだった。
*
初めてカイルさんの報告を受けたとき、依頼は未達成だった。
カイルさんが登録して間もない頃で、私は受付に立って二年目の春だった。
前夜、負傷した仲間に付き添っていたそうで、報告が翌朝になってしまった。受付の先輩に遅れを注意されても、彼はただ頭を下げていた。
ちょうど、治療院から届いた連絡票を整理していたところだった。
「先輩。こちらの方、昨夜のうちにご連絡をいただいています」
先輩が連絡票を確かめて、眉を上げた。
「あら、そうなの? カイルさん、そういう事情があるなら、最初に言ってもらわないと」
「すみません。わかりませんでした。次はそうします」
先輩は「じゃあ、お願いね」と私に報告を引き継いだ。
カイルさんは椅子に座っても、肩に力が入っていた。膝の上で、握った手が白くなっていた。
「俺の判断が遅かったんです。引き返していれば、怪我もさせずに済んだのに」
「負傷されたのは、お一人ですか」
「はい」
「ほかの皆さんも、ご一緒に戻られたんですね」
「……全員います。でも、依頼は」
「はい。未達成で記録します。帰還された人数も必要なので、確認させてくださいね」
彼が顔を上げた。
私は人数の欄を指で示した。
「四名、全員帰還。こちらで間違いありませんか」
「……はい」
強張っていた肩が、少しだけ下がった。
それから彼は、落ち着きを取り戻して順を追って話してくれた。私も必要なことを聞き、書類を埋めた。
ひと月ほどして、彼らは同じ依頼を達成した。
報告を終えたカイルさんに、私は笑いかけた。
「依頼達成、おめでとうございます。皆さん、お怪我がなくて何よりです」
彼は少し黙ったあと、「ありがとう」と笑った。
そんな笑顔が可愛いなと思った。
それから三年ほどが過ぎた。
後輩もでき、初対面の冒険者に大声を出されても、慌てず対処できるくらいには仕事に慣れていた。
カイルさんたちは少しずつ大きな依頼を任されるようになり、気づけば、ギルドでも名の知れた一団になっていた。
最初は丁寧な言葉で話していたカイルさんは、いつからか砕けた口調で、私を「メル」と呼ぶようになった。私は受付だから、変わらず敬語のままだった。
いつから好きになったのかは、よくわからない。だんだんと気持ちが膨らんでいったと思う。
カイルさんはすごく丁寧に人に接する。そんなところがいいなと思っていた。
報告の途中、私が聞き返すと、急がず説明し直してくれるところ。
新人の冒険者に声をかけられれば、依頼書を一緒に覗き込んでいるところ。
ほかの窓口が空いていても、私の前で待ってくれるところ。
いいなと思うことが増えていくうち、彼が来る日は落ち着かなくなった。
彼の周りにはいつも、綺麗な女の子たちがいた。
気負わず名前を呼び、肩を叩き、同じ話を思い出して笑っている。
私が彼と交わすのは、事務的な話ばかりだった。あの輪の中に、私が入れるとは思えなかった。
「メル、ここ、もう一枚必要か?」
「はい。こちらにもお願いします」
彼が冒険者仲間たちと食事に向かうのを見送った。
もう少し話したかった、と思った。
けれど、こちらには次の人が並んでいる。私は依頼書を取り、顔を上げた。
*
王都へ移ると聞いたのは、秋の終わりだった。
「向こうの一団に、声をかけてもらって」
彼だけでなく、仲間の皆さんも一緒に移るのだという。
「……そうですか。おめでとうございます」
嬉しそうにしていられたと思う。だけど、心の中は嵐だった。
平静を装うのに必死で、涙が出ないようにぐっとこらえて仕事をした。
登録証明の手続きも、間違えずに説明できた。
出発の日には、窓口から見送った。
「今まで、ありがとう」
「こちらこそ。王都でも、お身体に気をつけて」
カイルさんが何か言いかけたところで、入口から仲間が彼を呼んだ。
「……それじゃ」
「はい。いってらっしゃい」
いつもと同じ言葉が出た。
今度は、もうここへ帰ってくるわけではないのに。
扉が閉まり、次の人に声をかけられるまで、私は入口を見つめたままだった。
その日は、帰ってから大泣きした。
最後まで平静を装ってしまったのは、なんでなんだろう。まだ会えているうちに、たくさん話をしておけばよかった。また会いに行ってもいいか、聞けばよかった。もっと、何か言えていれば。
頭の中では何度もあの日に戻って、言えなかった言葉を彼に伝えた。
だけど現実の私は、振られるのが怖くて何も言えなかった。
もう会うこともないのに。
しばらくは、仕事で間違いを出さないようにするだけで精いっぱいだった。
彼が帰ってこないことには、なかなか慣れなかった。似た声がすれば顔を上げ、討伐報告の列に、つい姿を探した。
仕事が終われば友人と食事にも行ったし、休日には買い物もした。面白いことがあれば笑った。それでも、王都での彼らの活躍を耳にした日は、胸がきゅっとなって、誰より詳しく聞きたくなった。
*
半年後の春、私は王都のギルドへ転勤になった。
辞令を受け取ったとき、真っ先に彼の顔が浮かんだ。カイルさんに会えるかもしれない。
だけど、王都は広くて、冒険者の数も多い。同じ街にいても、会えるとは限らない。そう言い聞かせて、期待しないことにした。
それなのに、荷造りの手はいつもより少し弾んでいた。
赴任初日、王都のギルドは、想像していたよりずっと大きかった。
窓口の数も、職員の数も、並ぶ冒険者の数も、前のギルドとは桁違いだった。何年も受付に立ってきたはずなのに、書類を収める棚を一つ覚える間に、三つ忘れそうになる。
それに、知っている人は誰もいない。朝から肩に力が入りっぱなしだった。
そんな私に、先輩たちはわからないことを一つずつ丁寧に教えてくれた。おかげで、少しだけ肩の力が抜けた。
昼過ぎ、討伐報告を受け終わって、書類を書いていたときだった。
「メル?」
顔を上げる前に声でわかった。
声の方を見ると、カイルさんが少し離れたところに立っていた。
装備は見覚えのないものになっていた。以前より髪も短い。半年で、少し大人びた気がした。隣にいる女性は知らない人だったけれど、彼と同じようにこちらを見ていた。
彼が受付台まで歩いてくる。
「お久しぶりです」
受付の声が、ちゃんと出た。そのことに、自分で驚いた。
胸がうるさい。
「どうして、ここに?」
「今日から、こちらに勤務することになりまして」
「今日から?」
「はい」
カイルさんが笑った。
つられて私も笑ってから、胸の奥がきゅっと痛んだ。この顔が、もう一度見たかった。
隣の女性が、彼の袖を軽く引いた。
「知り合い?」
「ああ。前にいたギルドの」
「そう。じゃあ、私は先に行くね」
彼女は私に軽く会釈して、出口へ向かった。
さっきカイルさんの袖を引いた仕草が、少し気になった。
もう会えないかもしれないと思っていた人が、同じギルドに立っている。嬉しいのに、何を話せばいいのかわからない。
私は、持っている書類の端を揃えることしかできなかった。
「メル、今日、仕事が終わったら会える?」
「……今日ですか?」
「二人で、食事に行きたいんだ」
思いがけない誘いに、返事が一拍遅れた。
「はい。六時半には出られると思います」
「わかった。六時半に、ギルドの前の広場の時計の下で待ってる」
カイルさんは笑って、受付から離れていった。
私はようやく、止めていた息を吐いた。
まさか今日誘われることになるなんて。前の街のことを聞きたいのかもしれない。誰の話からしよう。そう考えたら少し落ち着いたけれど、退勤まで何度も時計を見てしまった。
*
仕事を終えると、私はギルドの前の広場へ急いだ。
約束の時刻より少し早く着いたのに、待っている時間がやけに長く感じられた。
人波の向こうから、カイルさんが私服で歩いてきた。
剣を背負っていない彼を見るのは、初めてだった。それに気づいただけで、仕事帰りの自分の服が急に心配になった。
「待った?」
「いえ。今来たところです」
本当は、さっきから何度も彼の姿を探していた。
案内されたのは、通りから少し奥に入った、小さな料理店だった。
席が離れていて、ほかの客の声はあまり聞こえない。向かいに座ると、彼も少し落ち着かない様子で水を飲んだ。
私は近況を話した。
前のギルド長は相変わらず腰を痛めていること。食堂の料理人が結婚したこと。彼がよく手伝っていた新人が、今では一人で依頼を受けるようになったこと。
「そうか。あいつが」
カイルさんは笑って聞いてくれた。彼も王都での仕事を話してくれた。依頼の数も、ギルドの規模も、前とはずいぶん違うらしい。
「メルは、ここの仕事、どう?」
「まだ初日なので、書類の場所を覚えるだけで精いっぱいです」
「そっか。困ったことがあったら言って」
「ふふ。お仕事のことは、職員の方に聞きますよ」
「……それもそうだな」
二人で笑うと、少しだけ昔に戻れた気がした。料理もおいしくて、だんだん緊張がほぐれてきた。
「今度、休みの日には王都を案内するよ」
「本当ですか? 楽しみです」
そう答えてから、また会える日があるのだと、つい期待してしまう。
でも、いつになるのかはわからない。
話題をつなぐつもりで、私は尋ねた。
「前のギルドのことで、ほかに気になる方はいらっしゃいますか?」
「いる」
「どなたですか?」
「メル。君のことは、まだ何も聞けてない」
グラスを持ち上げかけた手が止まった。
「えっと。私ですか? 私は特に何も。いつもと変わらず過ごしていましたけど」
「恋人は?」
今度こそ、動けなくなった。
カイルさんは、私の返事を待っていた。
「……いません」
「そうか」
今度は私から尋ねたくなった。
「カイルさんは」
「いない」
「ご一緒にいた方は……」
「昼間の? 知り合いの冒険者だよ。旦那さんと二人で組んでる」
「そうでしたか」
何でもないふうに頷いたつもりだったのに、彼が私の顔を覗き込んだ。
「気になった?」
答えられなかった。頷くことも、違うと言うこともできずにいると、彼はそれ以上聞かず、少しだけ笑った。
その笑顔を、まともに見られなかった。
彼は食事の続きを勧めてくれた。せっかくの料理なのに、何を食べたのか、しばらく味がわからなかった。
近況を聞き合っているだけ。そう思おうとしても、胸の音は静まってくれなかった。
*
店を出ると、夜風が涼しかった。
カイルさんが、自然に車道側へ回る。
昔から気の利く人だったけれど、こういうことに慣れているのかな、と思った。
「家まで送る」
「ありがとうございます」
歩き始めると、さっきより距離が近かった。袖が触れそうになるたび、私は腕を動かすのを忘れた。
「家はどの辺なの?」
「ギルドの寮ですよ」
「そうなんだ。じゃあ近くだな。あと少しか」
あと少し。
今夜はあんなに楽しかったのに、次に二人で食事に行ける日はあるのだろうか。
しばらく無言で歩くと、彼の手が、私の手に触れた。
一度離れたあと、指先がもう一度触れる。今度は偶然ではなかった。
顔を上げると、カイルさんがこちらを見ていた。私は手を引かずに、少しだけ近づけた。
指が重なり、握られた。
大きな手だった。
報告書を受け取るときには、あんなに触れないように気をつけていた手だ。剣を握る手だと知っていたのに、こんなふうに、自分を包める手だとは考えたことがなかった。
通りを曲がると、寮の灯りが見えた。
もう着いてしまう。
「ほんとにすぐだったな」
カイルさんが、小さく言った。
「はい」
繋いだ手を見下ろした。まだ離したくなくて、彼の顔を見上げた。
「もう少し、歩きますか」
言うと、彼の指に少し力がこもった。
「いいの?」
「明日は、午後からなので」
仕事の時間を伝えただけなのに、夜更かしをしても平気だと言ったようなものだと、口にしたあとで気づいて恥ずかしくなった。
彼もそれを聞いて、私の顔をしばらく見ていた。
「メル」
「はい」
「俺の家に、来ない?」
遠くで、馬車の車輪が鳴った。
すぐには返事ができなかった。
行けば、どうなるのかはわかっている。けれど、明日のことを考えると足が止まった。
窓口で顔を合わせたとき、私たちはどんな顔をすればいいのだろう。
好きだと言われたわけではない。久しぶりに会えて、懐かしかっただけかもしれない。こんなふうに誘うのも、初めてじゃないのかもしれない。
一晩で終わって、明日からはまた窓口越しに「お疲れさま」と言い合うだけ。
それは嫌だ。でも、断れば次があるとは限らない。今度は私から誘ったとして、カイルさんは来てくれるだろうか。
ただ、このまま帰ることを思うと、胸が苦しくなった。
あのときだって、窓口の内側で何も言えずに彼を見送った。あんなに後悔したのに。
「まだ一緒にいたい」
カイルさんが、静かに言った。
顔を上げると、彼は私の返事を待っていた。
私だって、まだ一緒にいたい。
今日だけの気まぐれだったとしても、この気持ちまでなかったことにはしたくない。
繋いだ手を、私から握り返した。
「……はい」
*
部屋に入って、カイルさんが灯りをつけた。
棚には手入れの道具と、何冊かの本がある。椅子の背にかかった上着を彼が片づける間、私は扉の近くに立ったままだった。
「座って。何か飲む?」
「はい。ありがとうございます」
勧められたソファに腰を下ろす。
カイルさんはお湯を沸かして、お茶を淹れてくれた。いつもは報告書越しに見ていた人が、私のためにお茶を淹れている。なんだか、それだけで落ち着かなくなった。
その間に、いろんな考えが巡る。
こんなおうちに住んでたんだ。
今日は何時まで話すつもりなのかな。
もしかして何もなく帰ることもあるのかな。
彼が振り向いた。目が合って、心臓がはねた。
二人きりなのを改めて意識すると、さっきまで店で話していたことが何も思い出せなくなった。
カイルさんが二つのカップを運んできて、私の隣に座る。ソファが少し沈んだ。
お茶の香りがするのに、隣の彼のことばかり気になって、なかなか口をつけられない。
「……そんなに緊張されると、俺も困るな」
「緊張は、します」
「うん」
彼がカップを置いて、私の手を取った。
彼の指は、外にいたときよりずっと熱かった。
「俺も、誘ったけど、落ち着かないんだから」
思わず顔を上げた。カイルさんが、近くで笑っていた。
「そうは、見えません」
「格好つけてる」
少し笑ってしまった。
「メル、髪に何かついてる」
彼が私の髪に触れたのは、そのときだった。
耳のそばから小さな糸くずを取って、指先で見せてくれる。
笑いかけたまま、息が止まった。彼の手がまだ、すぐ近くにあった。
こんな距離で見つめあったのは初めてだと思った。
こんな目で、見つめられるんだ。
何度も目を合わせたことはあった。
でも今は、何か答えを待つように、私の目を見て、それから唇へ視線が落ちた。
「……メル、キスしていい?」
どくんと心臓がはねる。
「……はい」
そっと顔が近づいてきて、私は目を閉じた。
最初は、短いキスだった。
離れたあと、頬が手に包まれた。目を開けると、彼が私を見ていた。
「……もう一度、いい?」
頷きながら、今度は私も顔を上げた。
今度は深いキスだった。
舌が触れた瞬間、甘さが広がった。熱くて、やわらかくて、触れたところから溶けていく。体の芯までほどけて、いつまでもこのままでいたかった。離れたくなくて、喉が小さく鳴った。
こんなキスをするんだ。知っているはずのカイルさんに、知らなかった表情がある。もっと知りたい、と思った。
ずっと好きだったのに、全然わかっていなかった。私は、こんなにこの人が好きだったんだ。
ようやく唇が離れると、彼の肩に額を寄せた。恥ずかしくて顔を見られなかった。
「大丈夫?」
「……はい」
「顔、見せてくれない?」
「少し、待ってください」
「嫌だった?」
「違います。……嬉しくて、顔を見られないんです」
カイルさんが少し黙った。
「それ、俺は見たいんだけど」
思わず笑ってしまった。私ばかり緊張していると思っていたけれど、カイルさんの声も少し照れくさそうだった。
彼の腕が背中に回る。私はその腕の中で、小さく息を吐いた。
「昔、メルが受付にいた頃、何でもない話をしてるときも、こうしたいと思ってた」
顔を上げると、彼が少し困ったように笑った。
「今日会えてびっくりした」
こうしたい、というのが、どこまでの気持ちなのか。聞き返したかった。けれど、聞いてしまったら、この腕の中にいられなくなる気がして、聞けなかった。
「私も……前のギルドのときも、もっとお話ししたかったです」
「うん」
「会えなくなって、寂しかったです」
彼が私の髪に触れた。結んでいた紐がほどけて、髪が肩に落ちる。
それを見ている彼の顔に、また胸が鳴った。
「うん。俺も」
私は頷いた。彼の首に、ゆっくり腕を回した。
しばらくして、カイルさんが私の髪を撫でながら言った。
「……お風呂、どうする?」
「入りたいです」
「じゃあ、準備するよ」
「ありがとうございます」
「……一緒に入ろうか?」
「えっ」
思わず見上げると、カイルさんは少しだけ笑っていた。
「冗談にした方がいい?」
「……今日は、別々でお願いします」
「うん。わかった」
ほっとしたはずなのに、口が勝手に動いた。
「……でも、嫌だったわけじゃないです」
「メル、それ、入りに行っちゃうよ?」
今度は私が笑った。カイルさんも笑ってくれたけれど、耳が少し赤くなっていた。
それぞれお風呂を済ませて、寝室で顔を合わせた。
借りた大きなシャツは袖が余って、指先しか出ない。ベッドのそばに立つと、さっきまでの勢いが嘘のように恥ずかしくなった。
「……ベッド、二人だと狭いけど大丈夫?」
「はい。寝相はいい方なので」
「そういう心配じゃないんだけど」
「……わかってます」
カイルさんの隣に、そっと横になった。
掛け布団を引き寄せると、シーツからほのかにカイルさんの匂いがした。石鹸の香りとは少し違う、いつもここで眠っている人の匂い。
……いい匂い、と思った。緊張しているはずなのに、不思議と落ち着いた。
カイルさんが笑い、枕元の灯りに手を伸ばした。
「灯り、消す?」
「少しだけ、つけていてもらえますか」
「どれくらい?」
「……カイルさんのお顔が見えるくらいで」
言ってから、大胆なことを言ったと気づいた。暗くなったら、この人がいることまで夢になってしまいそうで、怖かっただけなのに。
彼の手が止まった。灯りに伸ばしたまま、小さく息を吐いて、ゆっくりこちらを向く。
「……メル」
「はい」
「そんなこと言われたら、消せないな」
「……すみません」
「謝らなくていいよ。俺も見たい」
ほっとして、ふっと笑ってしまった。カイルさんも笑った。
笑いが引くと、淡い灯りの中で目が合った。
「メル、嫌なら言って」
「嫌じゃないです」
そっと肩に手を添えられて、彼の顔が近づいてくる。
今度は、私から少し顔を寄せた。
*
目を覚ますと、カイルさんが隣にいた。
眠っている顔を見て、昨夜のことを思い出した。
思い出した途端、まともに見られなくなって、掛け布団を引き上げる。
窓の外が明るい。
いつもの起床時間は、もう過ぎているだろう。
そろそろ、帰らなければ。
そう思ってから、はたと困った。
次に会う約束を、していない。
街を案内すると言ってくれた。
でも、いつなのかは決まっていない。
これから依頼で何日も留守になるかもしれないし、帰ってきても、私の窓口へ来るとは限らない。
昨夜は、「こうしたいと思ってた」と言ってもらえた。
けれど、好きだとは言われていない。
このまま帰って、また受付で顔を合わせて。昨夜のことをどう話せばいいかわからないまま、仕事の話だけの関係になるのだろうか。
それは、嫌だ。
眠っているカイルさんを、もう一度見た。
手を伸ばせば触れられるところにいる。
また会いたいと、それだけ言えばいい。
……それだけが、難しいのだけれど。
「……メル?」
彼が目を開けた。
寝起きの声にまで、胸が鳴った。
「おはようございます」
「おはよう。起きてたんだ」
伸びてきた腕に、掛け布団ごと引き寄せられた。
頬が彼の胸に触れる。
「まだ、早い?」
「朝7時です」
「もう少し、このままでいい?」
頷くと、腕に力がこもった。
しばらく何も言わずにいると、このまま帰らずに済むような気がした。
「……結局あまり眠れなかったですね」
「はは、うん」
「もう寝ようって何回も言ったのに」
「でもメルも、嫌じゃなかっただろ?」
「……はい」
言いながら、昨夜のことを思い出してしまった。
カイルさんが、私の顔を覗き込む。
「メル、今からまた、してもいい?」
「……朝からですか?」
「朝だからかも」
「……えっ、まだ大丈夫なんですか?」
「うん。自分でも驚いてる」
「……カイルさん、疲れないんですか?」
「昨日のメルが可愛かったからね」
思いがけない言葉に、胸が鳴った。
「……そういうこと、さらっと言うんですね」
「さらっとなんて言ってないよ」
カイルさんが笑った。
その顔を見ていたら、私からもう少し近づきたくなった。今日の仕事は大丈夫かな。少し心配だったけど、彼の方が大事だった。
返事の代わりに、私から顔を上げた。
温かい。嬉しい。ずっとこうしていたかった。
*
「お腹すいてない? 何か食べる?」
「いえ、支度もあるので、自宅で食べます」
「そう。じゃあ送っていこう」
午後には仕事に行かなければならない。帰り支度を始める。
ギルドに戻れば、私は受付嬢で、カイルさんは冒険者だ。また会えると、勝手に決めつけていいのだろうか。
さっきは、言えないまま流されてしまった。このまま送ってもらって、寮の前で別れたら、きっともう言えなくなる。
昨日も、彼が誘ってくれなかったら、私は何も言えずにいたかもしれない。
今度は、自分から言いたかった。
「あの、カイルさん」
「うん」
「お仕事、次はいつからですか」
「明後日。明日、準備をする」
「何日くらいのご予定ですか」
「五日くらいかな。どうした?」
私は手にしていた上着を下ろした。
カイルさんの顔を見ると、言おうとしたことが喉につかえた。断られる怖さもあった。
あの日、窓口の内側で言えなかった言葉だ。でも、そのまま待ち続けたくなかった。
「あの、またお会いしたいです」
言ってしまうと、続きが自然に出てきた。
「昨日だけで、終わりにしたくないので。次のお約束をしてから、帰りたいんです」
彼が口元に手を当てた。
「……カイルさん?」
「ごめん。ちょっと、驚いて」
手を下ろしたカイルさんは、すごく嬉しそうだった。
「終わりって……俺、終わるなんて思ってなかった」
「え……」
「これからも誘うつもりだったし、依頼から帰ったら、真っ先に会いに行くつもりだった。……そうか。俺、肝心なことをまだ何も言ってなかったな」
一晩きりかもしれないと思っていたのは、私だけだったのだろうか。
「好きだよ、メル。昔から」
思いがけない言葉に、息が止まった。
ずっと聞きたかったはずなのに、すぐに声が出てこなかった。
「……私も、ずっと好きでした」
カイルさんが私を抱き寄せた。
私も、その背中にそっと腕を回した。
「今日、何時に終わる?」
「六時です」
「迎えに行く。明日の晩も、会える?」
「……今日も、明日もですか?」
「うん。明後日からしばらく留守にするから。その前に、できるだけ一緒にいたい」
頷いた。
一度では足りなくて、もう一度頷いた。
「はい。会いたいです」
「俺も」
「お手紙も、書いていいですか」
「もちろん」
「長く留守になさるときは。……お返事も、欲しいんですけど」
「書くよ。返事も、ちゃんと」
嬉しくて、また頷いた。
彼の顔が近づいてきた。
今度は目を閉じる前に、私から少しだけ顔を上げた。
*
ギルドの仕事を終えると、カイルさんが約束どおり迎えに来てくれた。
「お疲れさま、メル」
「ありがとうございます。お待たせしました」
昨日と同じ時間に、同じ人が待っている。
でも、今日は違った。また会いたいと言ってもいいし、明日も会う約束がある。
一緒に夕食を食べて、カイルさんの家へ向かった。
今度は、迷わなかった。
寝室へ入ったところで、思わず立ち止まる。
「……あれ?」
「どうした?」
「ベッド、大きくなってませんか?」
「うん。今日買った」
「……今日!?」
「昨日、狭かっただろ?」
「そうですけど……お仕事、早いですね」
「今日は時間があったから」
そういう問題だろうか。
慣れている人は、一日でベッドを買ったりしない気がする。
それに、私がまた泊まりに来ることを、当たり前みたいに考えてくれていたんだ。嬉しくなってしまった。
「あ。今日も泊まってくれるか、聞いてなかった」
「……泊まりたいです。でも、今日はちゃんと寝たいです」
鞄に着替えを入れてきたことは、黙っておいた。
「うん。俺も」
カイルさんが笑った。彼も少し眠そうだった。
*
広くなったベッドに入ると、カイルさんがこちらを向いた。
「メルは何が好き? たくさん話したのにお互いのこと、あんまり知らなかったと思って」
「カイルさんが好きです」
口にしてから、少し照れくさくなった。
でも、もう隠さなくていい。好きだと言っても、同じ気持ちを返してもらえる。
そう思うと、嬉しくて、もう少しだけ甘えたくなった。
「……ギュッとしてください」
カイルさんが一瞬、目を丸くした。
「……メル、君ってそんな甘え方するんだね」
「だめですか?」
「ううん。すごい可愛い」
腕を広げてくれたので、その胸にそっと顔を寄せた。
背中に腕が回ってきて、体の力が抜ける。
「……あったかいです」
「うん」
好きな食べ物も、休日に何をしているのかも、聞きたいことはまだたくさんある。
それなのに、目を閉じるとすぐ眠ってしまいそうだった。
「メル、眠い?」
「……少しだけ。まだお話ししたいんですけど」
「明日も会えるだろ。続きは明日にしよう」
「……はい」
「灯り、消すよ」
「はい。……消してください」
昨夜は、彼の顔が見えるくらいの灯りがないと不安だった。
今夜は、暗くなっても、背中に回った腕がそこにある。
明日も、会える。
そう思うと、もう安心して目を閉じられた。
*
灯りを消してしばらくすると、腕の中からメルの寝息が聞こえてきた。さっきは眠そうな声で、まだ話したいと言ってくれた。その声を思い出すと、もう少し話せたらと思いながら窓口を離れた日のことが、いくつも浮かんだ。
初めて報告を聞いてもらった日は、自分の判断が遅れて仲間に怪我をさせたことばかり考えていた。メルに「四名、全員帰還」と確かめられて、ああ、みんなで帰ってこられたんだと、ようやくほっとした。それから、ほかの窓口が空いていてもメルのところに並ぶようになった。
報告の最後に「今日は、ゆっくり休んでくださいね」と言ってくれる。その一言が嬉しくて、仕事のあとにも会えたらと思った。でも、俺が窓口を離れると、メルは次の人にも同じように笑いかける。食事に誘おうと何度も思ったのに、次の人に顔を上げるたび、また言えなかったなと思った。
街を出る日も、メルはいつもどおり笑って送り出してくれた。その顔を見ていたら、彼女にとって俺は、たくさんいる冒険者の一人なんだろうと思った。もしメルも同じ気持ちだったとして、どうするんだ。依頼に出れば何日も留守にするのに、王都からそう何度も会いに戻れるわけがない。次はいつ会えるとも言えず、結局、何も伝えないまま街を出た。
王都では、難しい討伐を仲間とやり遂げた日ほど、メルに話したいことが増えた。帰り道でどこから話そうかと考えているうちに、あの「お帰りなさい」が聞けるのは前の街だったと思い出す。そのたび、次に会う日が決められなくても、好きだということだけは伝えておけばよかったと思った。会いに戻ろうかと考えては、今さら訪ねて困らせたくなくて、話したかったことばかりが半年分たまった。
昨日、そのメルが王都のギルドにいた。最初は見間違いだと思った。赴任初日だと聞いて、つい聞き返した。「はい」と返ってきて、気づけば笑っていた。つられたようにメルも笑った。見送ってくれたあの笑顔を、もう一度こんな近くで見られるとは思っていなかった。
明日もここに来れば会える。そう思ったところで、前の街でもそうやって次があると思い、何も言えないまま別れたことを思い出した。もう同じ後悔はしたくなくて、その日の食事に誘った。
食事に来てくれただけでも十分すぎるくらいだったのに、寮の灯りが見えたところで、メルのほうからもう少し歩こうと言ってくれた。もう着いてしまうと思っていたのは、俺だけじゃなかったのかもしれない。家に誘うときは断られたらどうしようと喉が詰まったけれど、今度こそ、まだ一緒にいたいと言えた。
家まで来てくれてからは、何度も「落ち着け、俺」と自分に言い聞かせた。メルがキスを受け入れてくれたときなんて、頭の中はお祭り騒ぎで、平気な顔をしているだけで精いっぱいだった。抱きしめながら「こうしたいと思ってた」と口にしたときも、前の街にいた頃からどれだけ会いたかったかまで、あの一言で伝わった気になっていた。
一緒に風呂に入ろうと誘うときだって、胸がうるさかった。メルが「嫌だったわけじゃない」と言ってくれたときは、嬉しくて、よく冗談を返せたと思う。じゃあ次は一緒に入れるかもしれない。……次って、いつだ。風呂から上がったメルに「帰ります」と言われるかもしれないのに、いつか依頼からこの家に帰ってきたら、メルが「お帰りなさい」と迎えてくれるところまで想像していた。
そんなところまで先走っていたから、今朝、メルが「昨日だけで、終わりにしたくない」と言ったとき、一瞬、何のことかわからなかった。キスを受け入れてくれたときから、俺はすっかり両思いのつもりでいた。気持ちまで受け入れてもらえたと思い込んで、好きだという一言をまだ自分の口から伝えていなかった。
帰る前にまた会いたいと言ってくれたのは、メルのほうだった。半年前、窓口の前で俺が言えなかった言葉だ。俺もようやく、好きだと言えた。そうしたら、彼女は、ずっと好きだったと返してくれた。
ずっと。あの街で俺が何度も誘いそびれていた頃から、メルも俺に会えるのを楽しみにしてくれていたのだろうか。
腕の中で、メルが小さく身じろぎした。そっと抱き寄せると、またすぐそばで静かな寝息が聞こえた。
……夢じゃないよな。
腕の中の温かさを確かめるように、彼女の髪に顔を埋めた。声をかけるべきだった日が、いくつも思い浮かんだ。
……でも、これからは言える。
五日間の依頼が終わったら、真っ先に会いに行こう。
*
五日間の依頼を終えて王都へ戻ると、カイルは真っ先にギルドへ向かった。
必要な報告を済ませ、報酬を受け取っても、帰ろうとしない。受付のメルと何か話してから、待合の椅子に腰を下ろした。
「先に帰っててくれ。メルの仕事が終わるのを待つから」
フィーナは、ノアとダンと目を見交わした。
出発の朝に「ちゃんと言えた」とだけ報告してきて、それから五日間ずっと機嫌のよかった男が、これだ。
「……あいつ、やっと言えたんだな」とノアが小声で言った。
「長かったねえ。王都に来てから、ずっと後悔してたもんね」
「会いに戻って言えばって、何回言ったと思う?」
ダンが肩をすくめた。
「まだ仕事が終わるまで時間あるよ?」
「構わない」
カイルは待合の椅子から動こうともしない。
フィーナは笑いをこらえた。
「ところで、ちゃんと返事はもらったの?」
そう尋ねると、カイルは受付へ目を向けた。
ちょうど顔を上げたメルが、彼を見つけて微笑む。
カイルも笑った。
「あ、もういい。わかった」
「聞いたの、そっちだろ」
「はいはい。メルのこと、大事にしてあげてね」
「……言われなくても」
フィーナは満足そうに頷いた。
仲間たちは今度こそ、二人を残してギルドを出た。
「ねえ、あんなに嬉しそうなカイル、見たことある?」
「いや、ないな」
「ふふ。メルって、すごいね」
笑いながら振り返ると、ギルドの窓から灯りが漏れていた。
中ではきっと、カイルがまだ同じ椅子に座っている。
「……あいつ、明日から報告が終わっても帰らなくなるぞ」
「いいじゃない。待ちたい人がいるんだから」
フィーナの言葉に、二人も笑った。
初めてのR15作品で、どこまで書いていいものか、かなり試行錯誤しました。
推敲していると、なんだかんだでいつも長くなってしまいます。
今回も「もう投稿できる!」と思ってから、さらに丸一日推敲してしまいました。
やめどきが分かりません( ;∀;)
楽しみに待ってくださっていた方がいたら、投稿が遅くなってしまってごめんなさい。
少し長めのお話になりましたが、最後まで楽しんでいただけたら嬉しいです。
本当はイラストも載せたかったのですが、チャッピーが失敗ばっかりするので、今回は取りやめました(笑)
またチャレンジして、うまくいったら載せるかもしれないです。
最後までお読みいただき、ありがとうございました!




