婚約破棄の前に、その手紙を見せてください
「セラ、君との婚約を解消したい」
ギルベルトは、封筒ではなく、一枚の紙を差し出した。
父がそれを受け取る。読み進めるにつれて眉間に皺が寄り、最後には私を見ず、机の上へ置いた。
町の文書庫の閲覧室には、私たち三人と、立会いの記録官がいる。婚約の解消そのものは両家で合意できる。ただ、ギルベルトは、私に別の相手がいるための解消だと記録に残すことを求めていた。
窓の外を、川門の市へ向かう荷車が通っていく。車輪が石畳を叩く音が遠のくと、丘の鐘楼から昼の鐘が届いた。
「君の筆跡だろう」
窓際に置かれた紙には、四行の文章と私の名前があった。
次に市が立つ日、昼の鐘が鳴ったあとに。
あなたと二人きりでお話ししたいことがあります。
父にはまだ話していません。
お返事を、ずっと待っております。
セラ。
字の終わりを上へ跳ねる癖も、名前の最初の文字だけ少し大きくする癖も、私のものだった。
「……はい。私の字です」
父の椅子が、床を擦った。
「誰に宛てたものだ」
「それを確かめたいので、紙を持ってもよろしいですか」
「誤魔化すのはやめてくれ」
ギルベルトの手が紙に戻る。私は、彼の指が触れるより先に、両手を膝へ引いた。
「私は触りません。記録官の方に見ていただいても構いません」
若い記録官が、羽根ペンを置いた。
「リオと申します。何を確認しますか」
「上の二行と、三行目の境目です。窓へ向けていただけますか」
リオは紙の端を持ち、光に透かした。
薄い横線が二本、文章の間を走っている。
「破れを直した跡では?」
「その可能性もあります。でも、私はこの手紙を一通の手紙として書いた覚えがありません」
父が、今度は私を見た。
「何を言っている」
「見覚えのある文章なんです。けれど、並び方が違います」
上の二行は、冬に書いた。
婚礼が済んでも祖父の工房に通いたい。その相談を、ギルベルトに持ちかけたときだ。父は、私が傷んだ本を直していることを、嫁ぐまでの手慰みだと思っていた。先に彼の意見を聞きたかった。
約束の日、私は川門の菓子屋の、奥の小さな卓で待った。昼の鐘が鳴ってから、露店が荷を畳み始めるまで。市の日だけ焼く蜂蜜菓子は、手をつけないまま冷えていた。
彼からの返事が届いたのは翌週だった。仕事のことは父に相談すればいい、二人で会うほどの話ではない、と。
「紙の裏に、別の紙が貼られています」
リオが角度を変えた。
「ええ。文書を補強するときにも、そうします。ただ、裏の紙が厚すぎるので、元の紙の裏面が見えません。ここで剥がすのはやめてください」
「なら、確かめようがないだろう」
ギルベルトが手を伸ばした。リオは紙を机に戻す代わりに、文書を挟む二枚の板の間へ置く。
「文書庫には、修復を担当する者がおります。検査を頼みましょう」
「そこまでしなくても、彼女は自分の字だと認めた」
「筆跡については認められました。文章全体については、まだです」
私はリオの横顔を見た。
彼は私を慰めず、ギルベルトを睨みもしなかった。台帳に、私が認めたことと、認めていないことを分けて書いている。
「検査を拒まれるなら、この紙を根拠に、解消の理由を確定した記録は作れません」
しばらくして、ギルベルトは頷いた。
「……好きにすればいい。ただし、彼女に触らせるな」
「その方がよいと思います」
私が答えると、彼は初めて言葉に詰まった。
呼ばれて来た修復担当のエルネさんは、祖父の工房へ何度か訪ねてきた人だった。袖を留め、紙を斜めから眺め、拡大鏡を出す。
「まず、今の状態を写し取ります。誰がどのように預けたかも、記録しておいてください」
リオが日付を記す。父とギルベルトも、預けた紙がこの一枚であることを確認した。
「今日中に済みますか」
「お約束はできません。糊とインクを確かめてからです」
エルネさんは、机の隅に押しやられた私の作業鞄に目を留めた。
「セラさん、これから工房へ?」
「……そのつもりでした」
「でしたら、そちらの傷んだ帳簿を見てもらえますか。こちらの検査中は、私もついていなくてはならないので」
棚には、背が外れかけた帳簿が一冊置かれていた。
いつもなら、すぐに鞄を開く。
父の前では、手が止まった。
「帰るぞ、セラ」
その声に立ち上がりかけた私へ、エルネさんが尋ねた。
「今日は、作業のできない日でしたか」
机の向こうに帳簿がある。外れた背の隙間から、綴じ糸が一本垂れていた。
「いいえ。できます」
私は椅子へ座り直し、鞄の留め具を外した。
*
帳簿は、川沿いの商店が預けたものだった。雨漏りで湿ったあと、無理に開かれたのだろう。綴じ穴の周りが裂け、何枚かの紙が重なって折れている。
私は机に敷く紙を広げた。
リオが帳簿を持ち上げようとする。
「そちらの板ごとお願いします。背だけ持つと、重みで抜けます」
「こちらですね」
彼は持ち方を変えた。帳簿を置く場所も、私が指したところに合わせてくれる。
母の手袋を借りているような、指先の窮屈さが、少しずつ取れていく。
「何から始めるんですか」
「紙の順番を確かめます。綴じ直してから間違いに気づくと、もう一度外さなくてはならないので」
破れた紙の縁を、細いへらでゆっくり持ち上げる。失われた角は戻らない。残った紙を傷めずに、扱えるようにするだけだ。
リオは白紙に、外した紙の番号を書いていった。
隣の机で、エルネさんが例の手紙の裏を調べている。
目を向けるたび、自分の指先が疎かになった。一枚の端を取り落としかけて、私は帳簿へ顔を戻す。
「気になりますね」
「はい」
「そちらを見る間は、こちらを押さえておきます」
リオは裂け目を避け、紙の余白へ重しを置いた。
私は礼を言って、エルネさんのところへ行く。
「インクは今のところ動いていません。糊も、少しずつなら緩みそうです」
「一度に剥がすと、重なった紙も一緒に持ち上がりませんか」
「その通り。だから端から、元の紙を支えながら進めます」
彼女のへらの先に、裏の紙がわずかに浮いた。
その下に、私の字とは違う、鉛筆の線が見える。
「何か、書かれていますね」
エルネさんはそこで手を止め、リオを呼んだ。彼が位置を記録するまで、先へ進まない。
私の胸は、もう分かるはずだ、早く見たい、と急いていた。
祖父に何度も叱られたのを思い出す。剥がれる場所を見つけたときほど、手を止めろ、と。
私は自分の机に戻った。
帳簿には、欠けた頁があった。前後の紙を合わせても、二行分が足りない。
「ここは、どうしますか」
「欠けたまま、補強します」
「隣の頁から金額を計算すれば、書き足せそうですが」
「計算は別の紙に残せます。でも、ここにあった字だと決めてしまうのは、私の仕事ではありません」
リオは少し考え、補修の記録に、文字の欠損あり、と書いた。
「なら、空いているところも残すんですね」
「はい」
夕方までに、帳簿の紙の順序を確かめ、補強の必要なところを拾うことができた。
エルネさんの机には、裏から外された厚い紙と、三つの紙片が並んでいる。
私は、少し離れたところで足を止めた。
上の二行。三行目。最後の一行と署名。
紙片はそれぞれ、まっすぐに切られていた。端同士をわずかに重ね、裏の紙へ貼ることで、一通の手紙に見せてあったのだ。
「どれも切られています。破れた縁を合わせたものではありません」
エルネさんは、拡大鏡を私ではなく、リオへ渡した。
「同じ紙を切って繋ぎ直した可能性は、まだあります。今日のところは、切断と接着が確認できた、と記録してください」
私は、上の紙片の裏を見た。
小さな長方形と、三本の縦線。
喉の奥から、息が漏れた。
棚だ。
結婚後に使わせてもらう部屋に、祖父の道具と本を置けるか。ギルベルトに説明するため、私は手紙の裏に、部屋の隅へ収まる棚を描いた。
彼から届いた返事には、絵の下半分だけが挟まれていた。工房の図面など要らない、と、わざわざ切って返したのだ。
あまり見直したくなくて、封筒のまま、机の引き出しにしまってある。
「家に、確かめたいものがあります」
私はリオに伝えた。
「私が勝手に持ってくるより、一緒に見ていただいた方がよいでしょうか」
「明日の朝、エルネさんと伺います。今夜はその引き出しを動かさず、開けないでおいていただけますか」
「分かりました」
ギルベルトからの返事は、ほとんど捨てたことがない。
短い言葉でも、返事が来れば嬉しかった。どう読めば彼の機嫌を損ねないか、同じところを何度も読んだ。
鞄を閉めようとして、留め具を一度、取り落とす。
リオの手が伸び、途中で止まった。
「お手伝いしても?」
私は鞄を机に置いた。
「お願いします」
*
翌朝、二人の前で引き出しを開けた。
ギルベルトの紋章で封をされた手紙を、日付順に並べる。返事の中に挟まれていたのは、私の手紙の、文章がないように見える部分ばかりだった。
棚の絵の下半分。紙の端に書いた日付。宛名。
私は返事があるかどうかしか気にしていなかった。別の紙だと思って取り分けたものまで、捨てずに取っておいてある。
エルネさんが一枚ずつ、間に紙を挟んで箱へ収めた。
「照合は文書庫で。ここでは、無理に合わせないでおきましょう」
午後、文書庫の机の上で、棚の絵の上半分と下半分が並んだ。
上半分は、あの手紙の最初の二行の裏にある。下半分は、私の引き出しから出た紙にある。
棚の左端の線が、切断面を挟んで続いていた。途中で少し歪ませた線まで、向きが合う。
もう一つの紙片にも、続きが見つかった。
父にはまだ話していません。
その下に本来続いていたのは、祖父の工房を閉めずに残したい、という相談だった。
返事には、婚礼の支度で忙しいのに、そういうことを持ち出すな、とある。工房の話は要らないので、その部分は返す、とも書いていた。
最後の紙片の上には、二度、相談に返事を頂けなかったので、と続く文章が戻った。
どの宛名も、ギルベルト様へ、だった。
エルネさんは、繋がったところと、まだ繋がらないところを分けて記録した。切断面の形、裏の線、残った文字。私の記憶だけを頼りにした場所は、一つもなかった。
四日目、父とギルベルトが、もう一度文書庫へ来た。
リオが最初の紙の状態を描いたものと、検査の記録を机に並べる。エルネさんは、三通分の紙を、一通ずつ別の板に載せた。
「この二行は、こちらから。この一行は、こちらから。署名を含む下の部分は、三通目から切り取られています」
「同じ紙を、彼女が切ったのでは?」
ギルベルトの声は、最初の日より低かった。
「三通は、どれもあなたに宛てたものです」
私が言うと、彼は椅子を引いた。
「君がそう言っているだけだ」
リオが、三通に添えられていた返事を示す。
「こちらの返信は、あなたがお書きになりましたか」
彼の父の紋章が押された封筒も並んでいる。
ギルベルトは、棚の絵を見てから、返事の紙へ目を落とした。
「……書いた」
「相談の内容にも触れられています。返された紙片と、提出された紙片には、切断面や裏の線が繋がる箇所があります」
父が、最初の手紙と復元された三通を見比べた。
「お前は、これをどこで手に入れたと言った」
ギルベルトは答えなかった。
「私には、持ち主を名乗らない者から届いたと説明したな」
リオのペンが、その言葉を記す。
「この紙を作ったのが誰かは、まだ確かめていません」
エルネさんが言った。
「ただ、彼女がこの文章を一通の手紙として書いたものではありません。その点は、紙から確認できます」
私は、ようやくギルベルトへ顔を向けた。
「最初の手紙を読んでいただけますか」
「今更、何を」
「あなたが、一緒に暮らす相手になると思って書いたものです」
彼の手は、机の縁を掴んでいた。
読み上げたのは父だった。
結婚したら、祖父の工房へ通う日を決めたいこと。夜会の前には作業を休み、家の務めに差し障らないようにすること。工房を閉めてしまう前に、彼に一度見てほしいこと。
私は膝の上で、親指の脇の小さな傷を押した。
あの頃、文章を柔らかくするために、何度も書き直した。許してほしい、とは書かず、相談したい、と書いた。
「どうして、こちらを返してくださらなかったのですか」
私が尋ねると、ギルベルトは口を開きかけ、閉じた。
「君は、話が長いから」
返された紙には、ほんの二行しか書かれていなかった。
仕事のことは父に聞け。
二人で会うほどの話ではない。
私はそこへ指を置く。インクには触れず、余白へ。
「四行にすれば、聞いていただけると思われたのでしょうか」
「セラ」
「どれもあなたに書いたものです。別の方に向けた言葉にしないでください」
父は、椅子の背から体を離した。
「娘の不貞を理由とする解消には、同意しない」
ギルベルトが、父を見た。
「僕は、この婚約を続けるつもりはありません」
「私もです」
自分の声が、思っていたより早く出た。
ギルベルトは、私が何か条件を付けるのを待っているようだった。父も、少し口を開けたまま、私を見る。
「解消そのものには同意します。ですが、提出された手紙を理由にしたという記録は、訂正してください。両家に説明した内容も」
「そんなことをすれば、僕が」
そこで、彼の声が止まった。
彼が合意書へ伸ばしかけた手を、私は見ていた。解消の理由を書く欄は、まだ空いている。
やがて、ギルベルトは手紙へ目を戻す。
「別に、誰も傷つけたかったわけじゃない。新しい縁談を、君の父上に責められたくなかっただけだ」
父の椅子が鳴った。
リオはペンを止めず、今の発言を読み返して、ギルベルトに確認した。
彼が小さく頷いたあと、私は言った。
「では、そちらを説明してください」
解消の合意書が書かれる間、エルネさんは元の手紙を片づけていた。
切り取られたところを無理に貼り戻さず、一通ずつ、残った紙を支える薄紙を用意する。
「これは、このあとどうなりますか」
「提出された状態と、検査の記録は残します。元の手紙をお返しする方法は、記録官と相談しましょう」
私は頷いた。
「棚の絵のあるものは、取っておきたいです」
ギルベルトが何か言いかけたけれど、私は彼ではなく、父へ顔を向けた。
「工房の棚に使えます。あの部屋より、壁が少し長いので」
*
ひと月後、祖父の工房の窓辺には、棚が一つ増えた。
図面の左端にあった細い場所は、刷毛を掛けるところに変えた。背の高い本を入れる段と、乾かしている紙を置く段は、そのまま残す。
文書庫から預かった帳簿が、そこに収まっている。
初めての依頼は、あの日の商店の帳簿だった。エルネさんが仕上がりを確認し、文書庫の決まった手順で代金が支払われた。次の依頼には、直せるところと直せないところを書いた見積もりを付けた。
父は、その見積もりを読んでから、工房の鍵を私に渡した。
ギルベルトから謝罪の手紙が来たのは、棚の取り付けが終わった日だった。父のところへは、例の説明を受けた家から、新しい縁談を断ったとの知らせが先に届いていた。
父に諭されてやむなく解消に応じたこと、私を嫌っていたわけではないこと。この先、よい関係に戻れないかということ。
私は最後まで読み、戻るつもりはありません、と返事を書いた。相手の望む返事でなくても、返せる。
作業台の向こうで、リオが帳簿の頁数を確かめている。
「この欠けたところは、埋めなかったんですね」
「文字は。紙は支えてあります」
彼は頁を下から受け、次の一枚をめくった。初めて会ったときより、ずっと慎重な手つきだ。
「ここにあった字は、分からないままですか」
「今は。でも、お店に別の帳簿が残っていれば、照らし合わせられるかもしれません」
「聞いておきます。分かったら、別の紙に記録ですね」
「はい」
受取の確認が終わると、彼は箱に帳簿を収めた。
私は鞄の中から、一枚の封書を出す。
書いては折り、広げては書き直したので、封筒の端が少し柔らかくなっていた。
「リオさん。お仕事のご相談ではないのですが」
彼は箱を置いてから、封書を受け取った。
次に市が立つ日、昼の鐘が鳴ったあとに。
川門の菓子屋で、一緒にお茶を飲みませんか。
あの日、お世話になったお礼をしたいです。
お礼だけではないのですが、続きは、お会いしてお話しできればと思います。
セラ。
「次の市の日は、ちょうど休みです」
「よかった。お嫌でなければ」
「行きます。昼の鐘が鳴ったあとですね」
私は頷いた。
彼は手紙を元の折り目に沿って畳み、封筒へ戻す。
「私も、お礼だけではない話をしていいですか」
リオの指が、封筒の縁で止まっていた。
私は作業台の下へ隠しかけた手を、戻した。
「はい。聞かせてください」




