第9話 ヘルダとの出会い
城下のクレスタは、歩いて二十分ほどの距離にある。ミレイを連れて初めて足を踏み入れたが、朝市の立つ通りは思いの外にぎやかだった。鉱山で働く男たちや職人、行商人が行き交い、屋台から肉の焼ける匂いが漂っている。
薬師ヘルダの店は、その通りから一本入った場所にあった。表に薬草束が吊るされた、古びた小屋だった。
「侯爵夫人がこんな場所に何の用だい」
扉を開けた瞬間、奥から声が飛んできた。五十代くらいの女性が、乳鉢で何かをすりつぶしながらこちらを見ていた。白髪交じりの短い髪、太い腕。仕事をする人間の体格だった。
「薬品の補充について相談したく参りました。城の薬品庫の管理を確認したところ、在庫が不足している品があります」
「……ふうん」
ヘルダは手を止めずに私を見た。
「そりゃ城の者の仕事じゃないのかい。夫人様がわざわざ」
「記録がなかったので、私が整理しました」
「記録がない?」
「入出庫の記録が存在しなかったのです。どれがいつ使われたか、残量がいくらかが追えない状態でした」
ヘルダがようやく乳鉢を置いた。
「……それはひどいね。補充を頼もうとしても、いつも向こうの都合で後回しになってさ。急いでいる時に届かないことが何度あったか」
「そういったことが起きるのも、記録がないからだと思います。残量が分かれば、なくなる前に手を打てます」
「あんた、話が分かるね」
ヘルダは少し笑った。最初の警戒が薄れてきた気がした。私は持参した補充リストを取り出して渡した。
「こちらが現在の在庫から見て、近いうちに補充が必要なものの一覧です。こちらで調達できるものがあれば、教えていただきたいのですが」
「……鎮痛薬のヴェルタ草と、解熱のカルミ草ね。どちらも今時期なら採れる。一週間あれば用意できるよ」
「ありがとうございます。では、お願いできますか」
「いいよ。ついでに聞くけど——城の診療記録ってどうなってる?」
「伺っていないのですが、城の側ではどうでしょう」
「城の兵士が診療に来た時は、私が診て薬を出す。でも記録はつけてない。城のほうも、たぶん何もないんじゃないかと思うけどね」
私は手帳に書き留めた。
「記録がないと、病が流行したときに対応が遅れる可能性があります。例えば、同じ地域に住む患者が似た症状を訴えていても、それが個別に見えると流行には気づきにくい。記録があれば、早い段階でパターンが分かります」
ヘルダが腕を組んだ。
「……それは、確かにそうだね。数年前に冬の熱病があった時、気づいた時にはかなり広がっていた」
「記録があれば、もっと早く察知できた可能性があります」
「面倒だけど……まあ、確かに」
そう言ってヘルダは少し黙ってから「あんたは変わった令嬢だね」と言った。貶してはいない。どちらかといえば感心したような声だった。
「前世で似たような仕事をしていたので」
「前世、ね」ヘルダは笑った。「まあ、細かいことはどうでもいいや。記録の形式、というのを作れるなら教えてくれたら考えてみる」
「はい。サンプルを置いていきます」
私は薬品庫用に作った記録表の簡略版を書いて、ヘルダの作業台に置いた。
「もしよければ、参考にしてください」
「分かった」
外に出ると、ミレイが「夫人って薬師さんとも仲良くなっちゃうんですね」と呟いた。
「仲良くというより、仕事の話をしただけです」
「でもヘルダさん、最後は笑ってましたよ」
「それはよかったです」
城への帰り道、城の正門が見えた頃にミレイが「あ」と声を上げた。
「夫人、副官のカルル様がお越しです。さっき、ちょうど到着されたと聞いて……あちらにいらっしゃいます」
城門の脇に、馬から降りたばかりの男性の姿があった。引き締まった体格の、三十歳前後の男性だ。副官——エドヴァルドの部下、カルル・ザーネ。
何の用だろうと思いながら、私は城へ入った。




