第70話 普通の朝
朝、台帳を整理していた。
春の薬品補充計画の最終確認。食糧倉の四月の棚卸し表。帳簿の先月分との照合。どれもいつもの仕事だ。特別なことは何もない。
「今日は視察がある」
書斎の扉が開いて、エドヴァルドが顔を出した。
「南の農地と、川沿いの補給路の確認だ」
「私も同行しますか」
「来るなら来い」
ぶっきらぼうな言い方だった。でも「来なくていい」とは言わなかった。
「では参ります」と私は言って、台帳を閉じた。
* * *
視察の途中、ヘルダの診療所に寄った。
「また薬草が増えましたよ」とヘルダが言った。奥の棚が賑やかになっていた。「春になったら、城下の人が採ってきてくれて。こんなにいただいても」
「でも、夏の備えになりますね」
「まったく夫人らしい考え方で」
ヘルダが笑った。
「辺境夫人、すっかり領地の人間になりましたね」
「……そうですか」
「最初来た時と全然違いますよ。あの頃は、なんか——灰色みたいな感じがして」
「よく言われます」
「今は、ちゃんとここにいる感じです」
私は少し考えてから「ありがとうございます」と言った。
* * *
城に戻ると、ミレイが出迎えた。
「お帰りなさい夫人。今日のご夕食はどうされますか」
「侯爵と一緒に食べます」
迷いなく答えていた。
ミレイが「はい!」と言った。嬉しそうな顔だった。
「一緒に食べます」と言うのが、こんなに自然になった。いつの間に。
* * *
夕食の後、書斎でエドヴァルドと窓の外を見ていた。
辺境の夜が来ていた。星が出ていた。城下に灯りがある。
「今日の補給路の見通し、明日整理します」と私は言った。
「頼む」
「ヘルダが薬草の話をしていました。夏前に薬品庫の品目を見直した方がいいかもしれません」
「あなたに任せる」
「帳簿の四月分の照合は週の後半に——」
「レティシア」
「はい」
「仕事の話は、明日でいい」
私は少し止まった。
「……はい」
窓の外を見た。エドヴァルドも窓の外を見ていた。二人で、夜の辺境を見ていた。
* * *
前世では、こんな時間はなかった。
仕事をして、家に帰って、また仕事のことを考えた。「普通の夜」というものが、何なのか分からなかった。誰かと並んで、何もしない時間を過ごすことが——贅沢だった。
今は、ある。
ただ仕事をして。ただ誰かのそばにいて。「ありがとう」と言って、「ありがとう」と言われて。「よくやった」と言ってもらえて。「ここにいていい」と言ってもらえて。
それだけで、十分だった。
前世で欲しかったものは、全部ここにあった。
「……前世では」と独り言が出そうになって、止まった。
言わなくていい。今ここにいれば、それでいい。
「エドヴァルド」
「侯爵」ではなく、名前で呼んだ。
エドヴァルドが少し振り向いた。
「ありがとうございます」
「何が」
「色々と」
しばらく間があった。
「……そうか」とエドヴァルドが言った。「こちらこそ」
* * *
辺境の朝は、今日も静かだった。
台帳を開いて、記録をつけ始める。薬品庫の補充。食糧倉の確認。帳簿の照合。いつもと同じ仕事が、今日も続く。
普通に仕事ができれば、それでいい。
ずっとそう思っていた。でも今なら分かる。「普通に仕事ができる」ということは、居場所があるということだ。「ここにいていい」という場所があるということだ。
それが——どれほど大切なことか。
前世の私に、この朝を見せてあげたかった。
でも前世の私がいたから、今ここにいる。
だからきっと、あの頃の日々も——無駄ではなかった。
辺境の朝に、陽が上がった。




