第62話 初めての涙
「ただ……」
続きが出てこなかった。
前世でも今生でも、「ただ」の後に感情を言葉にすることが苦手だった。感情は分析するものだ、と思っていた。分析すれば分かる。言葉にしなくても分かる。だから言わなくていい。
でも今は——何かが、壊れた。
泣いていた。
気づいたら、一粒こぼれていた。
「すみません」と言った。「なぜ泣いているのか自分でも……」
目を拭こうとした。手を上げた。
その手が、途中で止まった。
引き寄せられた。
エドヴァルドが、私を引き寄せた。胸の前に、腕が来た。抱きしめられた。
抵抗しなかった。
されるがままになった。
「……ここにいていい」
エドヴァルドが言った。低く、静かな声だった。
ここにいていい。
その言葉が来た。
前世では、一度も言われたことがなかった言葉だ。会社で、家で、どこにいても「ここにいていい」と言われたことはなかった。「役に立て」と言われた。「もっとやれ」と言われた。「足りない」と言われた。
「ここにいていい」という言葉は、一度も来なかった。
今生でも——実家では、役立たずと言われた。辺境に送られた。「ここにいていい」とは言われなかった。
でも今、エドヴァルドが言った。
涙が止まらなくなった。
泣いてはいけない、という考えは来なかった。声を殺して泣いた。声は出ていないつもりだったが、肩が震えていた。
エドヴァルドは何も言わなかった。背中に手が来た。それだけで、何もなかった。ただそこにいた。
* * *
廊下で、ミレイが足を止めていた。
気配を感じていた。書斎の扉の向こうの気配を。
入らないでおこう、と思った。
入ってはいけない時間だ、と分かった。
ミレイはそっと廊下を歩いて、遠ざかった。
* * *
どれくらいの時間が経ったか分からなかった。
泣きやんだ時、エドヴァルドがまだそこにいた。背中の手が、まだあった。
「すみません」と私は言った。「みっともないところを」
「みっともくない」
短い答えだった。
「でも——こんなに泣いたのは、前世でも今生でも、初めてかもしれません」
「そうか」
「……はい」
少し間があった。
「泣けたのか」とエドヴァルドが言った。
「……はい」
「それなら良かった」
手が離れた。少し離れた場所に立った。でも遠くには行かなかった。
私はやっと顔を上げた。窓の外の光が、夕方に変わっていた。
——ここにいていい。
前世から今まで一度もなかった言葉が、今日初めて来た。




