第32話 必要な人間
「書状の件、断った」
翌日の夕方、エドヴァルドが廊下で私に声をかけた。
「……ありがとうございます」
「必要な人間を手放す気はない、それだけだ」
そう言って、彼は先を歩いていった。
私はしばらく、その場に立ったままでいた。
必要。
「必要な人間」という言葉が、廊下に残っているような気がした。
エドヴァルドの背中が曲がり角に消えた。足音が遠ざかる。それから静かになった。
「夫人!」
後ろからミレイが走ってきた。
「カルル様から聞きました。侯爵様が引き取りを断ってくださったって!」
「……ええ」
「よかった! 本当によかったです!」ミレイが少し目を赤くして言った。「夫人がいなくなったらどうしようかと思っていたので……!」
「ミレイ」
「はい」
「ありがとうございます」
ミレイがびっくりした顔をした。「何かしましたか私?」
「心配してくれていたでしょう」
「それは当然ですよ……夫人に何かあれば私は」
「ありがとうございます」
もう一度言った。
ミレイが「……はい」と答えて、少し笑った。
部屋に戻って、書状のことを整理した。引き取りが断られた。エドヴァルドが「必要な人間」と言ってくれた。
必要な人間、というのは——仕事の話だろう。薬品庫を整備して、食糧倉を管理して、帳簿の問題を見つけた。そういった仕事の貢献を評価してくれたから、「手放す気はない」と言ってくれた。それが全てだ。
そう、それが全てだ。
でも——「必要」と言われた事実は、思ったより重く胸に残った。前世でも今生でも、誰かに「あなたが必要だ」と言ってもらったことはなかった気がする。「役立たず」と言われたことはあっても。
この場所にいていいのかもしれない。
そう思ったことが、ほんの少しだけ、確かになった気がした。
ただの仕事の評価だ、と自分に言い聞かせながら——それでも、消えないものがあった。
* * *
王都のクレアモント家では、同じ頃、伯爵が返書を読んでいた。
「必要な人間を手放す気はない……だと?」
声が廊下に漏れた。書状を持つ手がわずかに震えていた。
「役立たずのあの子が……必要な人間、だと?」
答える者はいなかった。




