第30話 よくやった
エドヴァルドが向き直った。
「よくやった」
その言葉が、部屋に落ちた。
私は——手が止まった。膝の上に置いていた手が、止まった。
何かが、込み上げてきた。何かと言っても上手く説明できないが、胸の奥の方が、少しだけ揺れた。
「……ありがとうご——」
声が出なかった。
喉のところで何かが詰まった。前世で仕事を続けた五年間、誰かに「よくやった」と言われたことはなかった。今生でも、実家にいた十八年間、父にも母にも長姉にも次姉にも、そういう言葉をかけられた記憶がない。
「どうした」
エドヴァルドが言った。
「……前世でも、今生でも」と私は言った。自分でも気づかないうちに言葉が出ていた。「こういう言葉をいただいたことがなかったので」
エドヴァルドが少し黙った。「前世」という言葉の意味を測っているのかもしれない。
「……そうか」
それだけ言って、追及しなかった。
沈黙が続いた。窓の外で風が吹いている音がした。冬の辺境の風だ。
「続けてくれ」
エドヴァルドが言った。「これからも」
「……はい」
今度は、声が出た。
私は立ち上がって礼をした。エドヴァルドが「下がっていい」と言った。
執務室の扉を開けて廊下に出た。
廊下の端にミレイが立っていた。カルルも少し離れたところにいた。二人とも「やっと出てきた」という顔をしていた。
「夫人、大丈夫ですか?」
ミレイが駆け寄ってきた。私の顔を覗き込んで「何かありましたか? 怒られましたか?」と聞いた。
「……大丈夫です」
「本当に? 手が震えてますよ」
見ると、確かに手が少し震えていた。自分では気づいていなかった。
「……大丈夫です」と繰り返した。
「夫人」
「よくやった、と言っていただきました」
ミレイが「え?」と声を上げた。
「侯爵が?」
「はい」
「侯爵様が? 夫人に?」
「はい」
ミレイの目が赤くなった。「……よかった」と小声で言った。「よかったですよ、夫人……!」
私は廊下を先に歩き始めた。ミレイがついてくる足音がする。カルルが「おつかれさまです、夫人」とつぶやくのが聞こえた。
部屋に戻って、椅子に座った。
まだ手が震えていた。しばらくそのままでいた。
前世でも今生でも、こういう言葉をもらったことがなかった。だから身体が、どう受け取ればいいか分からないのかもしれない。
でも——確かに言ってもらった。
「よくやった」と。
そして「続けてくれ」と。
震えが落ち着くまで、私はしばらく、ただそこに座っていた。




